武藤豊太郎の家は、三代前の長左衛門が御鳥見に就いた文化7年(1810年)から幕府終焉の慶応3年(1867年)の57年間、四代で渡って同じ職業を継承してきた。
御鳥見とは、御鷹匠の飼育する鷹の餌として提供する雀、うずら等を確保するための御鷹部屋の管理および警護、江戸周辺にある6ヵ所の鷹場の管理であるが、諸田玲子著「お鳥見女房」シリーズ(新潮社刊 現5巻)でも明らかのように、隠密としての仕事もあわせもっていた。小鳥の捕獲、鷹場の管理、巡回などの経験で、原野・山・川地形の把握、それの図面化等に長けていたからであり、近代戦の斥候ともいえる。
御鷹匠と御鳥見は、将軍が行う鷹狩りの行事(ある意味で言えば、軍事訓練である)実行グループではあるが、主従関係はなく独立した集団である。
御鷹匠は、鷹を飼育し、訓練して鶴・雁・鴨等を捕獲し、将軍等に献上することを職としていた。若年寄支配で、御鷹匠頭は布衣、千石高御役扶持20人扶持で立派な旗本(別称 将軍に会える御目見え)である。同組頭は250俵高で旗本、組衆は100表3人扶持でおおむね旗本である。
御鳥見は、組頭で200表高 御役金25両 御役扶持5人扶持で旗本である。
組衆は、80表高 御役金18両 5人扶持で御目見えではなく、御家人とよばれた。
豊太郎の曽祖父長左衛門は、文化6年(1809年)まで御徒目付に就いていたが、翌年御鳥見に役替えになった。御徒目付は、目付(役高1000石)監察とも呼ばれ、幕府の行政遂行に係わるあらゆる行為に立会い、異議があれば老中を経て、将軍に意見具申ができる高級官僚に属し、武家・寺社を監察している役の補佐をし、またわ独自の案件の調査をする役で、役高100俵5人扶持の御家人であり、同じ隠密に近い役といえる。
なぜ長左衛門が役替えしたのかは伺え知れぬが、御鳥見は跡継ぎが14・5才になると御鳥見見習として出仕し(武鑑に独立した項目できさいされている)10人扶持・野扶持5人扶持・御役金18両を支給され、親子合わせれば2倍近くの年収になる。御鷹匠衆や御勘定衆のなかにも本役の項に見習いが出てくるが、役料等は明記されていない。
さて、豊太郎の住まいであるが、江戸切絵図では、本所絵図にあり、長左衛門から本所北割り下水と書かれており、5734石取りの大身旗本徳山五兵衛の屋敷まえである。100年近く4代同じ住まい、同じ仕事を続けきた家がある。これが封建制、武士の世界である。
ちなみに、長左衛門から豊太郎に至る4代の略歴を武鑑に記載さを記し、この章をとじる。
武藤長佐衛門 | 文化1年 | 御徒目付 | 本所石原 | (1804年) |
文化7年 | 御取見 | 同 | (1811年) | |
武藤与助 | 同 | 御鳥見 | 住所なし | |
文化11年 | 御鳥見 | 本所石原 | (1815年) | |
この年長左衛門の名なし。隠居か。 | ||||
武藤兵蔵 | 天保4年 | 御鳥見 | 本所北割下水 | (1833年) |
この年与助の名なし。隠居か。 | ||||
武藤兵蔵 | 天保12年 | 御鳥見 | 志村御役宅 | (1841年) |
武藤豊太郎 | 同 | 御鳥見見習 | 父兵蔵の記載あり | |
武藤豊太郎 | 弘化4年 | 御鳥見 | 本所石原 | (1847年) |
この年兵蔵の名なし。隠居か。 | ||||
武藤豊太郎 | 元治2年 | 御鳥見 | かめ有村御役宅 | (1864年) |
武藤鎗太郎 | 同 | 御鳥見見習 | 東大森村役宅 |