韓国の友人の一人が、十五年以上も前に私に言ったことである。
――「キダノヒド チャーミング パッパパ ヤルネ タメノコト。」
彼は韓国の、日本語にも堪能な放送関係のある分野の責任者の一人だった。彼の言葉は、たどたどしい日本語であるだけではなく、専門用語や当時の国際関係の問題を含んでいるので、現代の、我々の、普通の日本語に翻訳する必要がある。
――「北朝鮮の人たちは、我々の、北の同胞に向けた放送に対して、激しいジャミング(妨害電波)を掛けてくる。我々はこの手段の効果は期待できない。」
私は当時、放送協会の国際局にいて、海外向け放送の責任者の一人だった。放送とは、電波を使って不特定の多数に向かって通話を一方的に行う、無線
電話のことである。電波には、普通のラジオ放送で用いている中波の他に長波や、短波や、超短波、極超短波などさまざまな種類の電波が用いられている。そして、条件さえ許せば、対応する受信機を用いてその無線電話を聴くことが出来る。放送とはそのような行為をいうのである。
もう一つ面倒なことをいうが、電波は空中を通過するものであるから、途中の空間の状態や距離に左右され、それに応じた工夫をしないと放送は聴けない。工夫とはその放送に見合う受信機を揃えることである。
放送は、一般には、聴くつもりの人が聴くものであるために、受信機は聴取側の人が準備して聴いてくれる。
電波は、また、普通は飛んでゆく距離に制限される。東京では静岡や福島の放送だと、普通は受信できない。ただ、北京放送やモスクワ放送が聞こえることがあったが、それは、夜間などの空中状態が良いときとか、発信側が猛烈な強さの電波を出しているときや、聴いてもらいたいところの近くに中継所を建設しているとか、極端な場合は、大きな船に送信機を積んで、領海すれすれのところまで来て電波を出しているからである。
ただ、初めから遠距離を対象とすることが決まっている場合は、それに見合った電波を選んで実施出来る。短波という電波を用いて行われる国際放送である。日本の場合、国際放送には海外の在留邦人向けの日本語放送と、相手国の言語を用いた、その言語の国の人たちを対象としたものとがある。
冒頭の、韓国の放送関係者は、中波とか短波を用いた北朝鮮向けの放送が妨害電波によって効果を得られていないことを嘆いていたのである。
放送は、ある周波数という、双方で了解している特定の種類の電波を用いて行われている。テレビの1チャン、6チャンなどと言われるのもそれである。
ところが、政治体制などが違う場合、聴かされては困ることが電波で流れてくるような場合には、それを駄目にすることが出来る。同じ周波数の電波で雑音を「放送」すればよいのである。そうした電波のことを「妨害電波」という。その行為を、専門用語では「ジャミング」という。
「北の人がこちらからの放送にジャミングをかけるので駄目だ」…こちらが北の同胞に、正確で、新しい情報を、早く伝えよとしても、その電波自体を妨害するので意図が実現しない……というのが、冒頭の「キダノヒド チャーミング……」の言葉の意味である。
北朝鮮の拉致行為で、被害者の帰国が実現できないのは気の毒なことである。それに関連して、平成十八年の秋頃から、それを国際放送で何とかできないかという議論が高まった。それをNHKに命令せよとか、秋田の電波は北朝鮮でも聞こえるそうだから、その送信所を使って放送せよという論議が国会でも声高に論じられた。
しかし、その発想が意味を持つためには、発言者が気付いていないような問題や条件がある。それを総て克服していなければ、発言は空論と同じである。
少し列挙すると次の通りである。
(1)何を、誰に向かって放送するのか。
(2)そういう放送があることを、聴いて欲しい人にどのように伝えるか。
(3)その人たちに、こちらの放送時刻と周波数をどのように伝えるか。
(4)その人たちは受信機器を持っているのか。
(5)どの種類の電波で放送するのか。
(6)帰国実現ために、放送で何を伝えるのか。
(7)相手がジャミングを掛けてきたらどうするのか。
(8)その実施を誰に依頼するのか。
(9)NHKに命令するというが、法律的にそれが出来るのか。また、そのような論理が本当に成り立つのか。現状で充分なのではないか。
大切な国費を使って、国会という重要、厳粛な場で、無責任とも採れることを言い放つのを、国民は黙って聴いていて良いのだろうかと私は思う。
極めて重要な問題を、既に現場から引退した私が、いま、ここで議論することにも限界があるのでこれ以上は言わないが、人が公の場でものを言うときには、それにふさわしい「知的武装」をしてからにしてもらいたい。
日本では、有難いことに言論は自由である。しかし、自由には批判に耐えうる責任や、その責任を果たすことの出来るさまざまな準備や蓄積、覚悟が必要であることを軽視している人が、最近、多くないだろうか。我々と、親や先輩たちが、歴史の中でさまざまの苦しみや屈辱を切り抜けて、やっと手にした民主的な「言論の自由」を大切にしてゆきたいとつくづく思う。
最近は、思いつきでも口にすれば簡単にメディアに載せられる。載せる方も載せる方である。その気軽さに酔うだけで良いのだろうか。物事の本質を考える力がなくても印をつける訓練を受ければ大学へ行ける。売れれば良い、儲かれば良いという考え方が、神聖化さえされているようにも思う。そのくらいのことなら、蟻でも、蜂でも、バクテリアでさえやっている。
人はバクテリアではなくて、考える動物である。そして、考える中味は、何かを旨く遣って自分だけ、自分たちだけが旨く行く方法のみではない筈である。自然や社会の成り立ちや、宇宙や歴史の経過の探求もその中に入らないだろうか。それらを知ることを大切にしたい。
昔の人は言っている。
知なき力は、即ち、暴。
知なき愛は、即ち、狂と……。
(平成十九年五月)