マイスターネット

「眠れる知財」を掘り起こすNPO法人

 

 私の母は七人姉妹の次女だった。そのため私には、従兄弟姉妹(いとこ)の数が多い。高齢で、他界した者もいるが、今、現在、直ぐにでも連絡の取れる者で、二十人は居る。そして、彼らには、それぞれに配偶者と子女がいるので、親族の数は想像がつくと思う。

二十年ほど前、父母もそうだったが、伯叔父、伯叔母など、高齢の親族が他界することが増えてきて、しばしば、その従兄弟姉妹(いとこ)夫妻が喪服で、お寺に勢揃いした。ある年、その「精進落とし」の席で、誰言うとなく……然し、私は年長の方なので、実際には、私と、誰か別の年長に当たる者とが話しているときに、多分、私が言ったらしい。

 ――我々が顔を会わせるのは、殆んど喪服のときばかりだと言える。もう少し普段着で、ゆったりと、皆が会う機会があってもよいと思うが、如何だろうか?……と。すると、大方が賛成したが、そうしたら幹事役は、先ず、それを言い出した晃さんから……となった。晃さんとは私のことである。

言うからには、覚悟の上だったから、已む無くではないが、この件の口火を切った責任もあると感じて、私は最初の幹事、コーディネーターを引き受けた。

一刻、思案の後、気安い知己に、伊勢「二見が浦」の有名旅館に嫁いだ、近所の幼馴染の女性が居るので、その女性に頼んで、一泊の親族旅行の宿を引き受けてもらった。江戸っ子が伊勢参りを目指したのなら、伊勢っ子は、伊勢を起点に各地を歩こう……という心積もりだった。

我々の母親の旧姓は「山中」だった。それから、比較的活発に私の言うことを支援してくれたのが「桑原」という家に嫁いだ叔母の息子の孝晃君だった。会の名称というほどのことではないが、単なる「いとこ会」では味気ないので、会の名称を決めようということになり、「山中」の「山」と「桑原」の「桑」を貰って、「山桑会」、呼称は「さんそうかい」又は「やまぐわかい」となった。

「やまぐわ(山桑)」は木が丈夫だからと、その時、夫妻で出席していた、叔母姉妹の中で一番若い、逗子の島田の叔母が言った。桑名地方の育ちらしい感想だった。

そうした経緯で始まった「山桑会(さんそうかい)」は、すでに結成から十五年が経過した。そして今年は三月中旬に、我々は、アメリカ合衆国のオバマ大統領にあやかろうとしている由の、その土地の名称を観光とか、町の知名度の上昇に利用したいと考えているらしい「小浜(おばま)」の町も見ることを含み、若狭の名勝「天の橋立(あまのはしだて)」に一泊することを主体にした親族旅行を実施した。何時ものことだが、それぞれに、夫婦だけではなく、自分の、他の親族を連れてくる場合もあるので、今回も、賑やかな親族旅行となった。

 

前説(まえせつ)が長すぎた。

 

天の橋立は、「股覗(またのぞ)き」で有名とされているが、あれは、江戸下町の、庶民的な諧謔志向の、野次喜多主義、或は、野次馬主義から発生した一つの俗習に過ぎない。

年配者は、景色が美しく見えるからといって、崖に近い岩の上では、若くて、元気な人たちの真似をしないほうがよい。落ちても、誰にも責任を採ってもらえないのだから。

また、文藝に少しでも興味を抱く人は「……まだ文(ふみ)も見ず 天の橋立」の方を思い出されるだろう。

 

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

 

詠んだのは小式部内侍(こしきぶのないし)、つまり和泉式部の娘である。

 

あらざらむ この世のほかの思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな

 

……そう詠んだのは、彼女の母親である。

その、母親の歌は、

 

嵐吹く 三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり

 

 と、能因法師が詠んだ歌とともに、小倉百人一首の中では、上(かみ)の句が「あら」で始まる二枚の札の一枚である。この歌、二首は、私は、何れも好きで、昔、親戚や近所の、新年の「かるた会」では、この二枚は誰にも採らせなかったものである。

能因法師には、この他に、「勿来(なこそ)の関」のことを詠った歌がある。

 

  都をば 霞とともに発ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関

 

彼は、実際には、そこへは、未だ行っていないのに、そこに至る旅の情景に、空想的に感激して、この歌を詠んだ。今で言う、役人の「空出張(から・しゅっちょう)」に似ているが、私は彼の歌は、右の二首とも、揃って好きである。

京の都からは遠い、奥州の、白河の関へ行くことと、そこへの遠い距離を、旅に要する時間に換算して、それを季節の移り変わりに喩え得た自分の心根に、自分で陶酔しているところが意地らしくて、私は彼を愛しているのである。

京都を出たのは春霞の頃だったのに、奥州白河の「勿来の関」に着いたときには、もう秋風が吹いていた、まことに、遥々と旅をしてきたものだ……との感慨である。文芸の技法としての表現を、実際の自分の行動に関して、「嘘」をついてまで押し通そうとした執念を、私は可愛く思うのである。

 

望郷ではなく、己の情念で、ある場所に憧れるというのは、洋の東西、数多くあることである。小説「赤と黒」で青春の情熱を描いたスタンダールはイタリアに憧れたし、ドイツの文豪ゲーテもアルプスの向うの、その、南の「太陽の国」に憧れたという。ギリシャに憧れて、オリュンポスまで行ったのだが、感激を述べようにも言葉が通じなかったために、後から思い出すと顔から火が出るような恥かしさだけが残ったというフランス人の文章を読んだことがある。

現代日本にも、昭和になって、戦前の、束の間の好景気時代に、それでもやはり、自分には財力が無かったために、

「フランスへ行きたし、と思へども ……」と、書き始めて、その、泰西一見の願いと、想いが叶わず、青い背広を新調して自分を慰めてみた……と、詩に書いた萩原朔太郎や、同種の思いの中に居た中原中也たちの、パリへの憧れとともに、彼らの夢が、私の胸を打つのである。

 

パリと言えば、私は二十八歳の頃、勤め先での仕事の延長線上のこととして、留学生として、初めてそこへ行った。最初の数ヶ月間は、パリで、国家が運営するフランス語の学校へ通ったのだが、その学校が、パリの中心部の、オペラ通りから少し脇に入った、「スールディエール」という街にあって、地下鉄の「ピラミッド」という駅の近くだったため、授業の後は、オペラ通りの「フラマリオン」という伝統的な古書も買える店とか、主として新刊書を逸早く店頭に並べてくれていたと見られる「ブレンターノ」という、由緒ある、有名な書店へ、教室で知り合った、男女のドイツ人の友人たちと一緒に、先生が推奨する書籍を買いに行ったものだった。

 パリは、北緯五十度に近い、地理的に緯度の高い所にあって、秋から冬にかけては、寒さが早くやってくるので、オペラ通りの街並みが、冬至近くなると、昼頃でも、寒い薄霧と、低い、力の無さそうな陽光に包まれていた。その大通りを、ドイツ人の数名の男女と、たどたどしく、覚えたばかりのフランス語を喋って歩きながら、その町を夢に見た、二万キロも東の、わが国の、朔太郎ら、文藝の諸先輩に思いを馳せたものだった。

 

 そのころも、日本人には、日本にとっての外貨の持ち出し制限があって、海外の滞在には様々な制限があった。しかし、どの世界でも同じように、制限とは破られるためにあるかのごとく、それを破ってパリに現れる老若の男女は可なりの数に登った。統計を知らないので実数も、概数も知らないが、人間は、制限を設けられると、何とかして、その枠を掻い潜って、「許されないこと」を手にしようとする生き物かもしれない。

 

 話を戻そう。歌である。やはり、私は、あの、和泉式部の母子(おやこ)の心意気に、心を惹かれるのである。

 小式部内侍は、母親譲りの「才女」で、歌も巧みだった。そのため、「小娘のくせに……」と、嫉妬心、競争心から、それを妬(ねた)み、揶揄したがる男たちがいたという。それ程、彼女は、歌も巧かった。

あるとき、和泉式部が、夫、安昌(やすまさ)の、丹後(たんご)への出張に随伴して行っている間に、都で歌合わせがあった。それに参加していた小式部に向かって、今は、娘が母親と連絡が取れないタイミングだと判断し、そうした男で、小式部に通う恋人の一人であった、中納言の定頼(さだより)が、母親の、日頃の代作を受け取れない状況に乗じて、彼女を虐めることを思いついた。

―― 貴女は歌がお上手だとの評判ですが、本当は、全部、お母さんに創っ

てもらっているのではありませんか? 本当に歌を詠めるのなら、ご母堂がお留守の今、一句、詠んで見せてください。……心細いでしょう。お母さんの歌を受け取りに出した使者は、まだ帰ってきませんか……などと、言ったという。

嫌がらせである。しかし、内侍は、慌てなかった。

―― そう見えますか? 母は、今、父と、遠い、丹後の大江山方面へ行っ

ていて、私に代わって詠んだと思っていらっしゃる母の歌は、天の橋立の、ずっと先の大江山からは、未だ届いていませんのよ! だって、「幾野」は、こちらから取りに赴くわけにも行かないくらいに遠くて、私は、天橋立にさえ、行ったことがないのですから……

 

大江山 いく野の道の 遠ければ まだ文も見ず 天の橋立

 

と、定頼の袖を捕えて、歌で応えたという。

その返事が、小倉百人一首に採取されている、この歌である。

彼女以外に、誰が、この様に詠めただろうか。

右の名歌は、その様に生まれたと言われている。その男は、唖然として、暫

くは、歌を案じたのだが、上手い言葉を思いつかず、即妙の返歌も口から出せずに、捉えられた直衣(のうし)の袖を振り切って逃げたと伝えられている。

 才能は遺伝だ、という説がある。然し、発揮の環境がなければ、その高さを見せることは出来ない。

 

 ところで、和歌など文芸作品の鑑賞方法はいろいろあるだろうが、私が、この母子(おやこ)の歌で巧いと感じるのは、地名や時空の物理的な距離を、人間の、心の世界の距離にまで拡げて、そこに自分の情念を盛り込んでいることである。比喩が巧みなのである。素養、想像力の問題だと私は思う。

娘は、地理的事情に託(かこつけ)けて、相手の不愉快な悪意を退けているし、母親の歌は、人の生死に跨(またが)る生命(いのち)の距離に、自分の愛の記憶の情念の釘を打ち込む様に、切々とした言葉にして相手に心を送っている。

「死ぬ前に、もう一度だけ逢って下さい」と「命を懸けて」迫られて、その心根(こころね)の迫力に感動しない男性が居るだろうか。この世の、ただ、剥き出しの、心と心の、率直過ぎる叫びである。あの時代の婚姻形態がそうだったのかもしれないが、「不倫」などという言葉が入る余地の無い、「火花」の様な、「心の分子化学現象」とでも呼べそうな「言葉の飛翔」とも解釈出来る。

 

 「私は二十歳だった。そして、私は『思想(パンセ)』の力を信じていた……」と言ったのは、フランスの哲学者、多分、ポール・ヴァレリーだったと思う。

 「人が、『ものを考える』という行為の力」を、彼は信じたのだった。

日本でも、「言葉」を、「ことのは」と言い、それは「言霊(ことだま)」とも言って、「心」と「その飛び交う姿」を「言語」で結び付けて、その作用、動作の有様を、「文字の先輩たち」は忠実に描いている。

 

小式部内侍にとって、母、和泉式部が、その夫に従って旅に出た「幾野の道」は、京の都からは遠かっただろう。一方、私が生まれ育ったのは桑名である。 

ある冬の日、我々、従兄弟姉妹は、その伊勢の北端から、マイクロバスで、関が原を抜けて、伊吹山の西麓の先、琵琶湖の東の、姉川などが創る近江の平野を北上した。信長の姉が浅井長政に嫁していた、丘だけが残る小田木(おだぎ)城址のある丘を眺め、国宝十一面観音の渡岸寺(どがんじ)を横に見て、木本(きのもと)で休憩した。そのあたりから進路を西に転じて、秀吉が権力基盤を確定するまでの、中央権力移行期の、地政学的な、当時の合戦の舞台、賤ケ岳(しずがたけ)付近の山を眺めながら、琵琶湖を迂回して、敦賀から、若狭を、日本海に沿って丹後に抜ける道も、「山桑会の従兄弟姉妹」たちにとっては遠かった。

そうした距離を、終始、言葉の組み合わせだけで私を魅了して、忘れさせてくれた、あの母親と娘は「心の分子化学者」だったのかも知れない。     

終(20100422)

 

News Letter

文教大学講演会

NPOマイスターネットでは、大学とのコラボを目指していますが、過日、文教大学からリーダーシップに関する講演依頼がありましたので、下記の通り、同大学の情報学部の大学生を相手に講演しました。

 

テーマ:ソーシャル・マーケティング、大学から社会へ
~問われるリーダーシップとは~

日時:平成24年12月10日(月)13:20-14:50

場所:文教大学湘南校舎(茅ヶ崎)

レジメ:こちらです

 

講演後、何人かの学生から活発な質問があり、学生の関心の高さを実感しました。

今後も、このような大学とのコラボの機会を設けていきたいと思います。

講演会「リーダーシップ入門」

本NPO理事長の橋本氏が精力的に講演会を行っている。

去る11月18日にイーテクノ株式会社で企業向けリーダーシップ講演会を行い、コミュニケーションの重要性とリーダーシップのあり方について説いた。

講演内容はこちらです。

news_111118

 

講演会 「創造的な生き方の発見」

本NPO理事長の橋本氏が、7月29日に京橋会館で開かれた講演会で、「創造的な生き方の発見」という講演を行った。

「人間は本来80歳~90歳まで創造的な仕事をできるが、日本では制度がそれを阻んでいる。皆、それぞれテーマを見つけて頑張ろう」という主旨の講演でした。

講演内容はこちらです。news_4_1

マイスターネット5周年記念集を発行

マイスターネット設立から昨年末で5年を経過したのを記念して、その間の活動をまとめた「マイスターネット5年間の歩み」というパンフレットが5月に作成された。

 講演やワークショップなど60回を越す活動が題目と簡単な内容で紹介され、何枚かの写真で、雰囲気もうかがうことができる。

  

インドネシアから  頑張れえええええ 日本!

アイコア社の日本語指導をした時のフェルディカさんから東日本大震災の復興激励のメールが、3月末に届きました。

私はインドネシア語の勉強をお休みしていますが、「楽しいインドネシア語」の講座の皆さんに資料としてお渡しました。そしたら石橋さんが訳をしてくれたので、一緒にご紹介します。

インドネシア人の優しさ、彼の真摯な気持ちが伝わってきますね。                         (赤井記) 

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