マイスターネット

「眠れる知財」を掘り起こすNPO法人

 

 一介の「老書生」の身で、生意気なことを言うようだが、私は現代日本の、つまり、二十世紀後半から二十一世紀初頭にかけての、私と同世代の三人の代表的な作家と、ある時期、幸運にも、何度か、言葉を交わす機会を持った。

三人とは、小田実(おだ・まこと)、開高健(かいこう・たけし)、大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)である。

ただし、互いに居宅を尋ね合うほどの個人的な深い交際を重ねたわけではない。彼らの、大勢の友人たちと共に、一定の節度の中で、その周囲にいて、時折、その本人と言葉を交わしていたに過ぎないのだが……。

しかし、それでも、それぞれの人物の人間的な息吹を感じる程度には交際したと自分では思っている。

三人は、現代日本の著名人に数えられていて、それぞれに、自分の青春を生き、その人生で活躍し、その作品が読まれ、人々の話題になり、その存在が意識され、愛され、論じられ、その個性で、私の考え方や生き方にも様々な示唆や影響を与えてくれた。

私にとって、彼らは、印象深く、忘れ難い、得難い友人たちであった。その中の二人は、既に他界してしまっている。

私は、一九三二年、昭和七年生まれで、二〇〇九年、平成二十一年末には七十七歳になる……と、ここで自分の年齢を言っても、特に、意味はないのだが、小田は私と同い年だった。開高は二歳年長だったが、大江は二歳一ヶ月年下である。

私は、彼ら本人、一人一人に向かっては、「小田君」、「開高さん」、「大江さん」などと、会うときには、年長者に対してとか、交際が浅い相手には、必ず、「さん」を付けて呼び、やや親しくなってからは、「君(くん)」を付けて呼んでいたので、文章の上で、こうして呼び捨てにすると、日本人の普通の儀礼感覚では、何か気持ちが落ち着かないのだが、彼らとの交際は、私としては、すでに歴史的な事象となったことであり、また、知己であったことは事実なので、ここでは、客観描写風に、このように苗字のみ又は姓名の「呼び捨て」で呼ぶことにする。夏目漱石と、あの文豪を呼んでも非礼にならないように。

因みに、私より二年と少々若いが、既に、七十代には入っている大江健三郎が書いたものを読むと、彼は、しばしば、内外の、初対面と思われるような人との対話などの際にも、相手を、気軽にか、意識的にか、呼び捨てにしていて、一瞬、驚くことがある。それが親近感のように感ぜられる場合もあるが、何処か、自分の人間観を、そうした日常作法を通して、今日の日本の社会での「新しい対人姿勢」として喧伝したい、といった意図も感じられる。そして、それは、儀礼を飛び越えて、相手を無理やり、無機的に、平等又は同格扱いしているようにも感ぜられるところがあって、私は何となく反発を感じてきた。

儀礼の無視は、一種の親しさの表現ではあるが、ときには、何処か、自分を無理に相手と同じ高さにまで押し上げている様にも採れて、それが、強引だが、淡(あわ)い、己の自慢であったり、自己肥大の衝動の結果であったり、更には、傲慢であったりするようにも感じられるのである。

彼の眉毛に白いものを想像すると、どこか中国、古代王朝時代の外交文書のような雰囲気まで感じたりして……。

しかし、そうした対人的な「呼称」、「親称」、「敬称」、「尊称」などの問題は、極めて個人的なものだから、私は私で、時代のモードに影響されずに、自分自身の儀礼の感覚で終始しようと思う。無礼があったら、お許し願いたい。

また、この、私の態度は、非常に日本的なものであって、外国の場合だと、たとえば、突然、話がフランスのことに飛躍するけれども、アンドレ・ジイドが、サン・テグジュペリの諸作品を論評する場合に、ジイドは相手の、そのアントワーヌを何と呼んでいたのかと、ふと思ったりするのである……。

また、大江健三郎が、数年前の、ある夜、年長の阿川弘之氏に、銀座のバーで、「君は…」と呼び掛けて、同氏の文芸活動や社会的姿勢に関して不遜な内容の言葉を吐き、そう呼び掛けられた同氏が激怒したことを、阿川氏が、自らの文章で書いているのを読んだことがあるが、内容をそのまま信じれば、大江も、いい歳をして、馬鹿なことをしたものだと、その軽挙をたしなめたくなる。  

第三者と自分との関係の描写は、そのくらい微妙で難しいものだと思う。

その時、阿川氏は、人間関係を、特に封建的な序列に沿って考えているわけではなく、また、古い儒教思想に拘って、「長幼序あり」などといったことに固執していたわけでもなかったと私は思う。人間は、互いに心を理解し合い、ある程度、人間的に打ち解けた時点で「親密な呼称」に転ずることが許されるのであり、それが自然だと思っていただけのことだと私は思う。

人の思想や哲学までも含めて、生活態度が「古いか、新しいか」ということに拘りすぎているのは大江の方だったと私は思っている。

それが、自分の心が命ずる普通の対人姿勢なのか、そこに自己主張に連なる一種の「自己演出」が加わったものだったのかは見極めにくかったが、ほぼ同世代の、もう一人の友人、小田実との場合とは対照的だった。

思い出すと、小田は、人に応答するときの相槌が、知遇の度合いに応じて「そうですか」から、自然に「そうなんか」と変化して行き、それに連れて、相手に対する呼称も「貴方(あなた)」から「君(きみ)」に、何時の間にか移行していたように私は記憶している。彼が口にした「あなた」は、標準語と称されている東京地方の言葉では「な」に力を入れているが、彼のそれは違った。それは、「あ」を強く発音するものだったが、本来は、「あんた」が普通だった「関西弁」という「言語生活」の世界にいた彼が、居住まいを正すかのごとく、どこか思い切って「標準語」を口にしているようでもあった。

小田には、勿論、自己主張はあったが「自己演出」は感じられなかった。

また、再会の挨拶も、恐らく、普段は「どや」とか「どやね」と言っていたものを、小田は「標準語」の世界に合わせて、「元気ですか」と言うことにしていたようだったが、親しくなると「元気?」と、どこか女性の言葉の様な、労(いたわ)りにも似た様な言葉が、彼の、あの大きな身体から出てくるのは人知れず可笑しく私には感じられた。

それに較べると、大江の場合は、郷里、四国の伊予の歴史と生活を、かなぐり捨てて、「仏文科」の学識を背景に、「新しいモラル」に「敢然と」挑戦しているような雰囲気が、私には、感じられた。

しかし、「新しいモラルの優等生」を衒うのは、私には、彼に対しては失礼かもしれないが、第二次世界大戦の、戦時中に、逸早く「軍国少年」を衒った気障(きざ)で、危険な軽輩を思い起こさせるのである。

また、もう、当時の状況を覚えている人も多くはないだろうとも思うのだが、敗戦直後、被占領下で、急いでジャズを諳んじ、当時のアメリカでの流行歌の「ボタンとリボン」を、歌唱の中で発音されるのを真似て「バッツンボー」と、意味も判らずに歌い興じる人も多かった。そして、それから、やや時代が過ぎて、暮らしに余裕が出来てくると、主として「売らんかな」の商人の計算の結果でしかないのだが、衣裳、風俗に関しては、「サン・ローラン」が粋(いき)だと聴くと、実際には、単なる冗談だが、己の無知を恥じることなく、「サンSaint」を、「聖者」ではなくて、滑稽にも、数字の「三」とでも取り違えたかの如く、自分は「ヨン(四)ローラン」だ、いや「ゴ(五)ローラン」だとでも言いかねない、賽の目遊びにも似た、ファッションの馬鹿遊びに興じた、流行病患者を思い起こさせる。

また、大江が、というわけではなくて、その時代の風潮の中でのことだが、私には頷けないことがあった。

国際関係の中で、日米首脳が、中曽根・レーガン時代に、お互いを、「ロン」、「ヤス」と呼んだとか、呼ばなかったということが、真顔で記者や編集者の間で扱われたことがあったが、自国の存在状態の国際性とか、自国民と国内世論の国際的自負心に関連して、主として国内向けに自国民を煽って見せるマスコミの不思議な知性の時代の「子供の優等生」にも、彼らが見えたのである。

国家の首脳の知遇の相互の状態を、スポーツ選手や芸能人の交流に擬(なぞら)えて日常次元で話題にすることが、一種の流行となり、真面目な報道機関までもが、外交、内政の責任者の言動や動静を、そのような姿勢で評価、周知するようになって久しい。情報の受け手は、目前の事態の意味よりも、その場面で動いている人物たちの、外面の行動の姿を眺め、それが一定時間継続すると、国内、国際政局に関連する、目前の、現実の事態そのものまでも理解したと錯覚してしまいそうな時代に我々は生きている。

しかし、歴史の流れというものは、もっと雄大で、深刻なものだと私は常に思っているのだが、民族の統率者とか政治権力者などと、その民族自体との距離を、民衆の側が無理に、自分たちに近いものと想像するような状況を、自分の社会の民主的な姿だと考えるのは、一種の自己催眠ではないかと私は思っている。それは寧ろ統治者の論理であり、支配者の側の論理だと私は思う。何故なら支配者は、自分が統治者でなければならないが、支配される者たちには、支配者は、必ずしも、その現実の統治者である「彼」である必要はないからである。言い換えれば、被治者には、常により良い人物を選ぶ権利があるからである。従って、被治者は、常に、冷静であるべきだし、冷淡であるのが普通だと思う。歴史を冷静に見るとはそういうことだと私は思っている。これは、日本人が、時の首相をどう呼ぶかについても当てはまると思う。

シーザーとクレオパトラが、お互いを何と呼んだかに、当時のローマやアレクサンドリアの「市民」が、どれだけ関心を持っただろうか。

 

話が、少し逸れた。元に戻ろう。

大江の言葉使いは、大江自身の、広い意味での「育ち」、つまり、彼自身の人生経験や心の反映なのだろう。つまり、大江は、そこで、既に、彼自身を、率直にか、自然にか、露出しているのだと私は思う。

大江は、「仏文科卒」の由だが、ノーベル文学賞を受賞した時の、彼が口ににしたといわれる英語、フランス語の、我々に知りうるテキストを見る限り、その語学力、つまり外国語を用いて第三者と意思を交換する能力は「相当なもの」のようである。「相当」とは、この場合、彼と同年代の、ほぼ同じ経歴の、彼を知る、私の、別の友人の評価だが、わが友は、それをネガティヴな意味を含めて言っていると言わざるを得ない。

知人である大江に関して、それをここに書くのは、私には、非常に心苦しい。然し、現実には、ある意味では、それは、日本人の平均的な外国語の駆使能力と言うことも出来て、彼、大江も、外国語の実技については、もう一歩、明日を目指しての、努力や訓練が求められるという水準らしい。正直に言えば、私も、いい勝負である。彼も、多分、外国語の飛び交う場面での、その言語による鮮明な自己主張や、自己説明が必要な場面を、余り経験していないのだろう。

大江を「厳しく評価」した、先ほどの私の友人にしても、私は、放送協会に在籍中に、嘗て、彼をジュネーヴに尋ねたことがあったが、そのフランス語も、ヨーロッパ放送連合の会議やレセプションに一緒に出席した私と、「いい勝負」だった。

「『仏文科卒』即、フランス語の達人」というのは、二十世紀では、若干の例外的な「才人」を、私も数名知ってはいるが、一般には、日本的な「べき論」を前提とした、単なる「神話」だったと思う。

 

後年、アメリカのダレス国務長官を大磯の私邸に招き、サンフランシスコ講和会議では「全権」だった、当時の首相の吉田茂は、どの位、英語を話せたのだろうか。英語に堪能だと噂の高かった宮沢喜一はどうだったのだろう。ケンブリッジ大学で勉強して、終戦直後の日本で、吉田首相を補佐し、「通産省」という組織を示唆したと言われる、キングズ・イングリッシュを流暢に駆使したと言われた白州次郎は、どの位、話せたのだろうか。上手だったと推測する。

ふざけたことを言うようだが、「バべルの塔」の故事の本質は、今も地上に生きていると私は思う。

外国語で買い物が出来たり、その国で、レストランで食事が出来ることと、自分の存在を賭けた「業務」に関連して、過不足なく、その言語を駆使出来ると言うこととは同じではないのである。日本には、言葉には堪能だが、実際の役に立たない「外国語通」が、実に多いことも、私は実例で報告できる。

しかし、彼、大江の名誉のためには、ここに、もう一件、私の、ある知人の話を披露した方が良いと思う。

私のその知人はフランス人だったが、日本語に極めて精通していて、彼、大江健三郎の作品の仏訳も手がけていた。その、然る女性の話では、彼の文章の構文がフランス人には判り易くて、従って、フランス語に訳し易かったとのことである。結構なことだと思う。ただ、それが、書いた側の日本語としてどうであるかということとは別の問題かもしれないけれども。

彼は、若しかすると、「話す言葉」の世界の「文人」ではなくて、「書く言葉」の世界での「勇気のある文人」とでも呼ばれるべき人かも知れない。「文人」、即ち、古典的に、「文字の人」であるという意味に於いて。

ただ、しかし、また、その「文字の人」の「自筆の文字」に関して、ここに、若しかすると私の記憶違いかもしれないことが一つある。

大江が書いた「大衆」という文字である。私以外にも、別のところで、その文字を見たことのある人も、大勢いると思う。

私は、四十代の頃、放送協会の国際局の欧米部長の責に任じられていたことがある。そこは、短波を用いたラジオの放送を手段として、全世界に日本の実情や日本人の考え方などを知らせる「国際放送」の実施部局だった。

その頃、世界に向かって、日本の文化を紹介するプロジェクトがあり、私は、その「班長」でもあった。様々な企画の一つに、日本の著名人に依頼して、その人たちに、日本の文化、つまり、自分の生まれ育った国の文化の特徴を語ってもらうという、受信者から、やや期待してもらっても好い番組があった。そして、事実、好評であった。  

その企画の中で、大江にも出演して、自論を語ってもらってはどうかという提案が、若い職員から出た。私は賛成だった。皆も賛成した。

原稿が来た。私は直接の編集責任者ではなかったが、作業が終わって、重要資料を保存に回した後、廃棄のために、その若手の担当職員が区分していた、不要になった関連資料の中に、偶然、大江の手書きの原稿のコピーの一部が残っていた。台本作成用の、直筆の原稿の、作業用のコピーらしかった。藤原定家、弘法大師つまり空海、夏目漱石や三島由紀夫など、様々な人の手書きの文字に興味があったので、そうした興味から私はそれを手にした。

大江の書いた日本語の手書きの原稿は、多分、彼の郷里、松山郊外の内子町にあると聴く「大江記念館」にも保存、展示されていると思うのだが、そのとき私が目にしたものに関しては、はっきり言って、その文字は余り上手なものではなかった。達筆、名筆でもなかった。文字の大小は不揃いで、一種、「殴り書き」のようにも見えた。然し、それも好い。元気のある文字だった。

ただ、一点、一つの文字に、私は目を疑った記憶がある。誤字である。しかも、知性、人格に関われるとでも思われる誤字である。何度も見直したが、「見間違い」ではない。その一字、一箇所だけではなく、その文字が数回繰返されていた。

「大衆」と書く積りの文字だった。然し、「衆」が私には、そう読めなかった。ここにプリントされているように、「衆」は「血」の下に、「人」を意味する記号を三つ並べたものである。「血」を同じくする人たちが大勢集まるという意味だと小学校でも高学年の時だったが、聴いた記憶があった。その頃の「手習い」で、自宅で毛筆を手にして机に向かっていた時に、八十に近かった祖母が「『豚』の右側と間違えてはイケン(「駄目」)よ、それはイノシシのことだから」と笑いながら、伊勢桑名の士族訛りで言うのを聴いた記憶が私にはあった。「国語」などの試験の前には、「血の下に人、人、人……」と、この文字に関して自分に念を押した記憶が私にはあった。

ところが大江の「大衆」の「衆」には「我がバアチャン」が注意していた「イノシシ」が元気よく書いてあった。

勿論、こうしたことは、大江のノーベル文学賞には、直接的な関係はないだろうが、その名誉ある受賞者の、全人間的な完成度とでもいうものを問題にするとすれば、少し惜しまれる現象ではある様に私には思われるのである。

大江の「作品」が印刷メディアに載る時には、必ず編集者の目と手を経ているはずなのだが、そうした中間介在者には、一種の「寛容さ」があって、文字という「符号」の奥を読む能力と習性がある。本人に指摘しない。

書かれた「文字」は、単なる符丁であって、その巧拙に問題はない……の、かもしれない。

しかし、「正誤」は、やはり、本当は、一つの、大きな問題ではないか。

放送……ラジオやテレビでは論者の文字を目にすることはない。声や表情は論者についての多くの情報を与えてくれるが、それらは、思考や思想の内容の根底にある、その人の人間的な「価値」や「特性」を充分には伝えていない。我々は、どこかで「適当に」頷き合っている点がありそうである。

しかし、また、「文字は人なり……」という言葉があるし、その言葉の意味も、まだ廃れてはいないと私は思っている。鴎外や漱石たちは、その点、どうだったのだろう。モンテーニュやパスカル、サルトルやボーヴォワール、孔子や孟子には「誤字」や「あて字」は無かったのだろうか。

また、大江は、「仏文科」だから好かったのであって、若し「国文科」だったら、漢字の使い方という点では、一寸、卒業のための点数が充分ではなかったかも知れないと私は思う。

 

それら総ては私の記憶違いであり、「事実の誤認」であったことを、今、私は願っている。これも、「交際の過程で知りえた事実の漏洩」に当り、私は「友情の倫理」に違反する「不埒者」であろうか。

 

職業上知りえたことを根拠に、ある人物の、当人にとって面白くないことをこのように記述するのは、その仕事を私に与えていた組織の社会的尊厳に対する、私の個人的な背信だろうか。業務執行の過程で知った不都合については「時効」というものはないのだろうか。

私としては、友人の、ある特性を話題にして、その友人の今後の活動上、やはり、それを自覚させて、彼の次の、今日以降の活動の堂々たる進展の参考にしてもらいたいと願っている。それが私の本心である。至らざるを指摘するのも、一つの友情と考えて欲しい。どうも、何度考えても、この問題は私の中で煮え切らない、田舎者臭い倫理観と闘わざるを得ないのが私の本心である。

友愛なのか、友愛に名を借りた私の個人的な憂さ晴らしなのかの区別がつかないのである。

しかし、それも、やがて半世紀を過ぎようとしているので、一方的に、もう時効だと思うのだが、全てが私の錯覚であったことを祈りつつ、この誤字の指摘が事実と異なるものであった場合には、私は謹んで深謝したいと思っている。

 

その、大江の作品を仏訳したフランス人婦人ではなくて、彼の外国語の会話の能力を推測した、先に挙げた友人が言ったのだが、大江はまた、「観念の中では、まだ《仏文科》にいる男」かもしれない。

私の職場周辺にも、数えてみると、そのような「観念の中での《仏文科》」の人が四、五人はいた。しかし、それはそれで、日本の社会の中だけでだが、その人たちの、一つの幸運であり、それで良いのだろうと私は思っている。

話が少し反れるが、私は、嘗て、インドネシア共和国のジャワ、ジョクジャカルタにある、インドネシア政府、情報省の、「ラジオ・テレビ放送訓練センター」という施設の、日本側の代表を二年間ほど務めたことがある。そして、そこには、私の指揮下に「東大仏文科卒」の人が一人居た。その人は、スタンダールを「研究した」とのことだった。しかし、彼には、その文豪の、「南国イタリアへの情熱」を語る姿勢は見えなかった。彼はまた、ジャワにあっては、「仏文科」と、どういう関係があったのか、自然食品に対して、一種、宗教的、狂信的とでも言える、異常な興味を見せ、と言うと聞こえが好いかも知れないが、異境に来て、要するに「日本食」に、異様に執着して、ホテルの部屋での自炊に固執していたのだが、フランス語が読めず、また、それ故に、当然、フランス語を話せなかった。

 

その施設は、日本が少なくない財政支出を伴う協力によって開設されたもので、かの国の自慢の施設だった。諸外国からの「見学」などの訪問者も多かった。その中には、「ユネスコ」などの国際機関の高位の要人も含まれていて、その様な人たちは、インドネシア側が差し出した色紙のような紙片に訪問の所感を書き残していった。殆んどが、当たり障りの無い賞賛の言葉だったが、インドネシア側にとっては貴重な「戦利品」のようにも見えた。そうした色紙には、フランス語で書かれたものも数枚あった。その殆んどは、卒なく国際儀礼を満たす文言のもので、それなりに、書いた人の知性や品格、人柄などを物語る立派なものであった。

 

赴任当初、私は、正直なところ、慣れないインドネシア語での生活に疲労を感じることもあった。フランス語が懐かしいと言っては気障(きざ)かもしれないし、大袈裟だが、私はパリやノルマンディなどに、合計で三年余、暮らしたことがあるので、その種の文書の内容の意味や価値は判る程度の読解力はあった。

それらを読むと、「途上国発展の一つの鍵は若い世代の知的水準にある……」などとも書いてあり、その訓練センターの、その国での今日的で、歴史的意義を強調するものが多かった。それを見ると、諸外国の要人の考え方が判るので、私はそれを、我が「東大仏文科卒」にも読むように勧めた。

ところが、彼は、そのマニュスクリト、即ち、手書きの文書(もんじょ)が読めなかった。こんな下手な字は読めないと言ったので、私が筆写して、メモで渡した。すると、これは「外国人」のフランス語であり、自分はパリの、本物のフランス語しか判らないと、「本物」が判る人なら、絶対に言わないことを言った。その辺りから、彼が「偽者」であることが判り始めた。「田舎のフランス語」は自分には判らないとも言った。改めてその経歴や海外旅行とか海外生活などの体験を糾したら、大分県出身の、名医の娘と結婚していることが自慢の、妙に些細なことについての記憶だけが確かな人物で、嘗て、その田舎で「神童」だった彼は、「未だ」パリには行ったことがないと言った。

不幸な例外であって、一般化は危険かもしれないが、彼は、依然、自分は「東大仏文科卒」だと言い張っていた。あんな男でも卒業できたとはと、「東大」の、世に言う「貫禄」の正体が察せられるような男だった。面倒なものは、早いうちに排出してしまえという、新陳代謝を急ぐ生体の作動原理が東大にはあったのかどうかまでは判らないけれども……。やはりそこも、ある意味では、組織生命体一般と同様に「歩留まり」の世界だったのだろう。そのため、彼は、東大が、江戸幕府所属の「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」だった頃の、その事務所の、不出来な「書生」でもあったのかと私は思うことにしていた。

 

私は、定年退職後、関連団体の放送出版という会社で数年間働いた。そこの総務部の「偉い人」も「東大仏文」の由だったが、「気位」以外には、その証拠としてのフランスについての知識や「センス」を私には見せてくれなかった。

あるとき、外部の、ある人物ついて、フランスに関する現実的な知識に偏りがあると見えたので、私は、その委嘱に反対したのだが、その候補の翻訳家は、パリ西郊、デファンス地区、ヌイイの近くの、その頃出来た、やや新しい建物、「国際会議センター」が「パレ・デ・コングレ」と呼ばれているのを、その人は「国会議事堂」と訳していた。私は、それを明かな誤訳であると指摘し、パリのコンコルド広場の、セーヌ川を渡った南側にある「アサンブレ・ナシオナル」が、「国民議会」と呼ばれる、フランスの、言わば、国会議事堂だと説明したのだが、私の言っている、そのファクト、或は、彼の自慢のフランス語で言う「ル・フェ」(事実)の意味が彼には理解できなかった。不思議な「仏文出身者」だった。言い換えれば、歴史も政治も、そして地理についても、勿論、真剣に考える姿勢と能力のない者の、それは知的な意味での視野狭窄であって、世俗の常識を知的な財産と取り違えた、極めて日本的な現象だと私は思う。

 

その職場では、私は、当初、ラジオのフランス語講座のテキストを担当したが、後に、翻訳書全般を扱う係りに転じて、その後任に、別の「東大仏文科卒」が来た。その人は、腰の低い、謙虚にも見える人だったが、フランスについての知識も、水準的に「謙虚」だった。フランス語については、東大で何をしてきたのか、腰ではなくて知識の水準が低かった。つまり、フランス語の基本的な特徴については、ほぼ無知だった。

彼の、その作業の執り扱いに関して、僅かに、これだけの材料で彼の人間的な価値にまで論及するのは、失礼であり、危険かもしれないが、彼の年次の「仏文科」は、何か、卒業証書が、乱発気味だったのではないかと私は思った。

 

そのラジオで学ぶフランス語のテキストには、私が担当していた時には、普通、フランス関連の読み物を添えて発行してきていて、それにもある程度、人気があった。その編集方針は、その後も継承されていた。

ある日、その「謙虚」氏が、真っ黒になって怒っていた。穏かな人にしては珍しいので理由を糾すと、「東大の恥だ!」という。穏かではない。詳しく聴いたら、彼は、先ず、私も「東大仏文」と思っていたらしい。

しかし、私は違う。七人姉妹の母の、末の妹の夫である叔父は、「東大仏文」で、その叔父がバルザックの作品を訳して、それが出版されたことはある。しかし、私は「名大経済」だと言ったら、急に彼の態度が変わった。

「名大経済」は、彼らから見れば、不見識にも「ゴミ」らしかった。「名大経済」には、知る人ぞ、知る、ジョン・メイナード・ケインズの代表著書「雇用、利子及び貨幣に関する一般理論」などを翻訳して、わが国にその理論を紹介した塩野谷九十九(しおのや・つくも)教授も居られて、私もその教授に教わり、それを勉強し、イギリスで、歴史の早期に成長発展し、欧米各国や世界各国でも作動していた、基礎的な意味での、現代社会の経済構造や、その動態の学術的な追跡、つまり、現代産業社会の作動原理の考察の参考にしていたのだが、そうした研究者は、「人間精神の高級な上部構造の追跡者」である、不幸な「仏文」の卒業者の彼にとっては関係のない存在らしかった。

 

東大へ行かなかった私が、東大を出た人の中の、何故か、比較的多く見かける、人格的に疑問を与える人のことを論評すると、ほとんどの人が、私には、「東大コンプレックス」があるという。日本的な言いがかりである。

 

東大を出て就職すると、官僚の世界では勿論、一般の大小の企業でも、早く要職に付けるし、従って収入や生活水準にも恵まれるために、それを狙って子女を教育するのが、ある意味で社会的な流行になって久しい。

直ぐ後で話すことになるが、私は、行けなかったのではなくて、行かなかったのだが、それでは説明になっていないらしい。

些細な私事だが、昔、恋人同士になりかかっていて、それが稔らなかった、ある妙齢で、西国から東京へ出てきていた、聡明な早稲田大学文学部卒の、美しいお嬢さんも、私にそう言った。

察するに、東大へ行こうとしなかった私は「損な人」だったらしい。

彼女は、その頃、片思いの「東大仏文」のサルトル愛好者を追って、留学で、彼が住んでいた、パリ十四区の「大学都市(シテ・ユニヴェルシテール)」の構内まで、羽田(当時は、長距離空路の基点は羽田だった)からジェット機でシベリアを西に飛び、その寄宿するパビリオンへ、遥々と思いを遂げに行った由である。

だから、人は、私が彼女に「振られた」と解釈し、私の言葉は、自分の失恋の「腹癒(はらい)せ」だと言うに違いない。どうぞ、そう言い続けて下さい。彼女との愛の遍歴や顛末については、一時期の彼女の恋人の一人であった男の仁義として、私には、これ以上には、一切それを詳述、他言、論評する意図はないけれども……。

 

日本は、本当のことであっても、それを深くは考えずに、その一方で、皆にそう見えるというだけのことを大切にして、それを一般化できる、気楽な、面白い国だとつくづく思う。

 

有名大学へ、行かなかったのか、行けなかったのかは、その人の事情に過ぎないのだが、それに今尚、拘るのは、情報狭窄的な、一種の後進国現象かもしれない。

アメリカに「ハーバード・コンプレックス」、フランスに「ソルボンヌ・コンプレックス」、イギリスに「オクスフォード・コンプレックス」とか「ケンブリッジ・コンプレックス」があるのだろうか。いや、スペインのマドリッド大学に、イタリアのローマ大学に、ソ連のモスクワ大学に……。中国の北京大学に行かなかった「大人」も大勢いると思う。そして、インドネシアにもジョクジャカルタの名門、ガジャマダ大学に行かなかった人で、立派な人が大勢いるではないか。

日本へキリスト教の布教に来た、フランシスコ・サビエルは、スペイン北部国境地帯のピレネーの山中から、城主であった父の後継者になるべく法学を勉強する目的で、遥々とパリへ出てきて、パリ大学へ入り、そこでイグナチウス・ロヨラに出会い、その影響を受けて神学に転じて、我々の知る経緯を辿った。

また、勿論、これは飛躍だが、イエス・キリスト、その人の青年時代の遍歴は知らないけれど、釈迦、シッダールタは「インドの名門大学」へは行っていないし、数世紀後の、ニュートンはイギリスの、どのような「最高学府」へ行ったのだろうか。彼が「万有引力」の「発見」に到達した動機は、ロンドンの下町、ピカディリー・サーカスの雑踏に落ちていた「物理学」の本だったと聴く。このあたり、話が、一層、飛躍しているのは判っているが、人が己の人格の形成に至る道は、確かに狭いけれども、それに巡り合う機会は、一般的に言って、世間の人たちが決め込んでいるほどには数少なくはないと私は思っている。

むしろ、人事に関して履歴書や、世俗の風評的な評価だけで組織の構成員を選んでゆく、一種、名目倒れの既製品志向とでもいえる、今の日本の社会の脆さが、顕在化していない、この、日本という国は、国自体が遅れているか、それでも皆が仲良く生きてゆける、物質などの諸条件に恵まれた、人類歴史上の珍しい国なのではないかと、私は、やや本気で考えている。

 

民が貧しく、教育機関が未成熟で、国の全般的な教育水準が低い場合ならいざ知らず、書籍印刷機関が健全に成熟し、住居も、食生活も、電灯、光熱装置も充実していて、何時でも好きなときに読書も出来るこの国では、普通に「読み書き」が出来る教育を受けた者が、どこで高等教育を受けようと、大切なのは、その当人の、社会生活の場での、知的且つ人格的な問題であって、「出来る人」になっていれば、その人が、どこの大学を出たかは、実は、余り問題にならないのだと思う。はっきり言えば、未だに、それを論じる者は一種の「暇(ひま)人」か、「物好きな人」だと思う。特定の百貨店でしか物を買わず、鞄は、例えばルイ・ヴィトン、ネクタイはエルメスだ、などということに拘るのに似た、一種の「人格判断狭窄症」の人間だろう。

 

そんな人は、パリではなくて、バリの、サヌールの、カブパテン・デンパサールのジャラン・ダナウ・タンブリンガンの、プラウ・ペニダ・ビーチ・ホテルの筋向いの店「アルジュノ」の、製造工程の都合で、数少ない鞄が、これは事実なのだが、欧米の、女優何某、名優何某たちと、某国、領事夫人愛用の、未だ余り知られていない、「HAR」の図案が小粋な、隠れた名品だと聴けば、明日の朝にでも「ガルーダ航空」のカウンターに、早めに並ぶと好いだろう。値段の交渉に備えて、やや複雑なインドネシア語の、三級程度の実力を前提にしての話だが。

 

右にも言ったように、「東大仏文」だった叔父を通して、その世界を推測する環境は私にあった。

高校三年生の八月、バレーボールの選手だった私は、熱海で行われた東海四県高校選手権大会に三重県代表チームのフォワード・センターで出場し、当時の強豪……、栄誉を語るのだから名前を出しても、迷惑にならないと思うので、それを挙げるが、「水野」という、長身の、精悍、絶妙のフォワード・センターのいた韮山高校に敗退した後、東京世田谷の経堂にいた叔父を訪ねた。

初めて独りで行った東京だった。叔父は、上野の国立博物館などを案内した後、僕の母校だといって本郷の東大の構内も案内してくれた。学部ごとにパビリオンが分かれていたように記憶している。叔父は多分、私用もあってか、フランス文学科の研究室の図書室のようなところへも連れていってくれた。真夏の構内の階段でも蔵書の紙の独特の匂いが心地よく鼻を衝(つ)いた。

 

「文学か……」と、その学問の分野のことを私は考えた。伊勢桑名の、田舎の高校生だった私には、国語の時間などで習う鴎外や藤村や漱石などが、自分の生活の範囲を超えた、とても高いところの人で、人生の諸相や人間の生活や生き方の描写や解説は、自分は、それを「窺い」、「学ぶ」位置にはあるが、人生という「実際の生活」が確立していなければ、そうした「大それた」ことは出来ないし、また、すべきでもないとも思っていた。樋口一葉の「おおつごもり」などを読むと、やはりその見方が正しいと思うと考えていた。

「文学」は、社会の上部構造を成すものであり、生きてゆく個人にとっては、それを生む社会そのもの、いわば「社会の下部構造」の習得が先ず必要なことに思われた。文学は、実生活の、どの場面からでも生れる潜在性を持つ、人文現象だと思うのだが、それを描くためには、それを叙述する生活の体験が無ければならないし、そのためには、生きてゆくための、広い意味で漠然と考えられる「生活の力」が個人にか、家系になければ、一つの人生を生きてゆけないではないか、だから、「文学」というものは、「物心共に余裕のある人」の勉学の対象であり、九州の佐賀から出てきている叔父も、家が、やや裕福で、彼が長男ではなく次男だったから、彼も東京へ出てくることが出来たのかもしれないと私は短絡的に彼を判断していたのだった。

「文学」は、そして、「フランス文学」はフランス語という手段を用いて、一つの民族の精神的な活動や、その文化的な遺産を眺める、いわば「人類の文化現象」の一つを、「その余裕がある人」が考究するものだと十八歳の私は判断したのだった。

ヴェルレーヌやアルチュール・ランボー、ヴィクトル・ユゴーやバルザック……。モンテーニュもパスカルも……、真実や情熱を、明快で、美しい言葉で表現していると見られる、かの国の言葉の豊かな林、その中を悠然と逍遥出来たら「かっこよくて」善いだろな、いつの日か、自分もそれを覗いては見たい、その「人類の文化現象」を見ることは忘れてはならない。然し、それは、「何れの日にかの、自分の宿題だ……」。それがそのときの私の結論だった。

 

伊勢桑名の、戦災で焼けた後の、私の家の隣の「お兄ちゃん」が、名古屋の、当時、旧制の第八高等学校へ行っていた。「金色夜叉」のお宮を熱海の海岸で蹴った間貫一(はざま・かんいち)が着ていたような黒い「マント」……後に、六十歳も過ぎてから、妻と観光旅行で行ってみて判ったのだが、それはポルトガルの、古い大学都市コインブラの大学の、大学生の伝統的な衣裳だった……が恰好よくて、自分も着て歩いてみたい風情だった。

 

中学校四年生になれば、「勉強さえ出来れば」、その「八高」へ行ける。敗戦で、学校制度は変わったが、桑名の中学校からも、戦後の複雑な学制改革の流れの中で、高校のバレー部の先輩にも、私の思っていた、その、「八高」であった名古屋大学へ行く人が居た。「それにしよう」と私も決めて、「よく勉強して」私は「名大経済」へ行ったのだった。

 

経済学部は、当時、第二外国語は、ほぼ自動的にドイツ語を専攻することになっていた。私も、大学では、最初に習った第二外国語はドイツ語だった。

ドイツ系の経済学者たち、ゾンバルトやヒルファーディング、マックス・ウェーヴァー、エンゲルスやマルクスを読む前には、ゲーテ、リルケ、トーマス・マン、ヘルマン・ヘッセなどの文学作品も読んだ。特にヘッセは、「青春」というものの描き方が感動的だった。小説「ペーター・カーメンチント」の中だったと思うのだが、少年が、空を流れてゆく雲を眺めて「オー・ディー・ヴォルケン!(おお、雲たちよ!)……」と、空を行く、その、空気中の水蒸気から発生した白い塊りに、夢と、謎と、可能性などを想像して我が身の将来を考えている情景が、私の心に暫くの間、宿り続けていたのを思い出す。

しかし、「名大経済」で経済史を専攻していた時、それは日本経済史だったのだが、日本の農村の、封建社会末期の動向の一部に、フランス革命に至ったフランスでの、一時期の農村の変化過程に類似したものを読み取れると書かれた論文をどこかで読んで、日本の近代化の過程の勉強の、一つの手段としてフランス語の習得の必要を感じたのだった。しかし、学部ではカリキュラムは進むし、フランス語の初歩に舞い戻ろうにも、学科の組み合わせで、今更、フランス語の初歩の講座を選択することは「名大経済」の勉学過程では望めそうになかった。それならば「独学」でと、私は名古屋市内の広小路の「丸善」書店で、白水社の「フランス語の第一歩」という薄い入門書を買って読み始めた。

一方、名古屋の、カトリック系の、南山大学は、前身が「名古屋外国語学校」だった由で、そこにはフランス語の夏期講座があり、また、市内のドレスメーカー女学院の、授業が終った夜間の教室では、名古屋大学と南山大学のフランス語の教授、助教授たちの、地方文化への貢献、サービスと同時に、多分、副収入を目的とした「フランス語講座」があった。

特に、詳しくは、お名前の総ては挙げないが、両大学の錚々たる先生たちが、その夜学の私の先生だった。山川さん、松岡さん、木村さん、工藤さん、成沢さん……。

パリでスタンダールを研究して帰国したばかりの、片岡美智さんが教室へも現れてくれた。そのフランス語、音として初めて聴くフランス語に私は魅せられた。面白かったし、私は幸せだった。あの女性に出来たのだ、真似をすれば自分にも遣れる、きっと遣ってみせる……、と自分に誓いながら、講座が終わって、夜も十一時に近い、名古屋の池下(いけした)で、市電の架線の青白いスパークを浴びながら交差点を渡ったのを今でも覚えている。

その後、放送協会へ入り、その組織内に開設された海外留学制度の第二期生として、フランスへ、パリへ、そしてノルマンディのカンへ行った。パリでは、フランス文部省の管轄下と思われるのだが、パリ大学にも属する由の、在留外国人向けのフランス語教習機関、「アリアンス・フランセーズ」へ行き、三ヶ月間、集中的な研修の後、基礎学力が確認できたことを意味する証書を貰った。それには、フランス共和国の領土以外で、フランス人以外に対してなら、フランス語の初歩を教えてもよいという「資格」が含まれていた。私は、鎌倉などでフランス語を講じているが、偽者ではない。そうした技能と知識を背景に、放送協会でも種々の経験を積んできた。その経験は、私に、修めるべき目標を次々に示唆し続けている。

 

それを知らなかった彼、「東大仏文」は、パリから戻り、ジャワから戻った私が、「人類の文化現象の一つとしてのフランス語に通暁している」ことが不思議だったようである。然し、ともかく、フランスとフランス語については、私の方が詳しかったし、当面、私は彼にとっては便利な存在だった。

 

先ほどの話に戻って、その「東大仏文」が憤慨していたのは、パリの南東、ほぼ九十キロの、シャンパーニュ地方の、世界遺産にも登録された「中世市場都市」プロヴァンを、自分の無知から南仏のプロヴァンス(地方)と取り違えていたことが原因だった。同じく「東大仏文」の、そのテキストの原稿を書いた講師は、その町の、十二世紀の、大きな角柱を思わせる、有名な「シザーの塔」を、正常に、紹介していたのだが、「謙虚」氏は、勿論、その中世の町のことを知らなかった。彼はまた、勿論、南仏のプロヴァンス地方へも行ったことがなかった。その南仏の一角を舞台とする映画や小説は沢山あるのだが、彼は何故かそれらにも接して居なかったらしい。彼は、執筆者である「東大教授」から届いた、編集前のその原稿を一読して、「プロヴァン……」と見ただけで、彼には、その世界遺産の町が地中海に面した、あの「情熱の天地」の一角にある町に思えたらしかった。

「東大仏文」ともあろう者が、大事な原稿で、地名の「…ス」を書き忘れている!……。母校の恥だ!と真っ黒になって怒る自分が「母校の恥」であることを彼は認識していなかった。日本は、フランスとの距離、多寡が二万キロの距離を頭の中で克服できない「秀才」の国なのだろうか。

 

大江に戻ろう。

私には、また、彼の対人呼称法に関して、私にも判るフランス語の常識を当てはめて、一点、感じることがある。

 

日本語の二人称は複雑で、「君」「貴方」「貴女」「貴殿」「貴方様」「そちら」「そのほう」とか、「お前」「あんた」「手前」「貴様(きさま)」などと非常に多い。そしてそれは主に封建時代以来の主従などの人間関係を反映している。

一方、フランス語の場合も、歴史的には色々な表現があったようだが、現在では、尊称は「ヴvous」、親称は「チュtu」と、簡便化されてきているように思われる。複数は地位、立場に関係なく、総て「ヴ」である。そして、親友、家族、夫婦、愛人、学友、同僚、同輩とか、共同作業の、単数の仲間はすべて一般には「チュ」であり、子供や、いわゆる「目下」に対しても「チュ」である。フランス語では、その動作を「チュトワイエtutoyerする」という。そして、それが日本語の「君(くん)」「さん」「ちゃん」などと呼ぶ行為に当るのだと思う。

また、「チュ」の代わりに、相手の姓名をそのまま、「呼び捨てに」呼んで、「親しさ」を現す場合もある。

大江は、自分が属する社会での言語の慣習を押し破るのを、何かの壮挙であるとでも思ってか、それを真似ているのである。言い換えれば、「仏文科卒」の、インテリの、そこはかとない「フランスかぶれ」かもしれない。恰も、私の住む「湘南」が、中国の地名の強引な模倣であるかの如く。

 

私はまた、少しインドネシア語を解するが、あのアウストラシア系の言語でも、一人称と二人称は複雑である。古い叙事詩「ラーマヤナ」や「マハーバーラタ」を生んだ文化に連なる「古代インド」の礼式が、あの南海に拡散したものと思われる。然し、二人称単数には、「アンダ(anda)」という単語があって、これが、「俺」、「お前」ほど「むき付け」には聴こえず、さりとて「貴方様(あなたさま)」ほど大袈裟ではない点が私は好きである。日本語で「あんた」と言っているような、相手との間に一定の距離はあるが、冷淡でもない言葉として好ましく私には思えている。また三人称の複数の「彼ら」は「ムレカ(mereka)」であって、多分、偶然だろうが、それが私には何時も「群(むれ)か?」に聴こえて、微笑ましい気持ちになったりするのである。

 

より一層、余談に流れるが、あのアウストラシアの言語には一人称複数の、我々が一般に「我々」を意味する言葉に二種類ある。そして、それは厳格に区別される。即ち、その「我々」が、話をしている相手を含むか否かで、言葉が使い分けられているのである。即ち、話をしている相手を含む「私たち」、「皆様とご一緒の私たち」は「キタ(kita)」であるが、相手を含まない「こちら側だけ」の「我々」「俺たち」は「カミ(kami)」である。その音声が、私には「神」という言葉を想像させるので、この日本列島に流れ着いた我々の先祖の一部が、排他的な一人称複数を「カミ」と称し、それが、同族の、先祖の最高者を崇めて呼ぶことにも通ずる言葉として「神(かみ)」という言葉を生んだのかもしれないと、南国のジャワやバリの海辺で妄想したものだった。

インドネシア人たちが国際社会で、英語で「我々(we)」と叫ぶ場合は、彼らが広く「我々人類」(「キタ」)と言っているのか、「私たち、この多島国インドネシアに住む国民」(「カミ」)を指して言っているのか、我々は、その二つの「我々」を弁別して聴くべきだと思う。

 

大江健三郎が、阿川弘之氏に対しても使ったように、彼が常用する「君(くん)」、「君(きみ)」や「呼び捨て」は、日本の一般的な慣行を強引に無視して見せた、フランス語の「チュトワイエ」の利用の実例であり、一種の「フランスかぶれ」であることの、彼の、密かな自慢だと私には思える。

それは、その言語を、日常的には、余り用いていていない、憧れの、遠い目標を意識し続ける田舎紳士に多いように見える姿勢だが、大江ともなると、その世代や時代をリードする、残念ながら不発に推移した、一つの「精神的なファッション」の芽だったのかもしれない。

 

しかし、また、四国出身の大江は、若しかすると、その遠い先祖の一部が南海から、この列島に流れ着いた人たちであって、その言語感覚の中には、「人称」を今の我々と異なる感覚で用いる点では、彼の中には、古代インドやアウストラシアの言語感覚が受け継がれているのかも知れない。彼もまた、「生粋」の日本人であって、その言語感覚には、「黒潮の子」、「潮流の子」としての「渡来の痕跡」が読み取れるのかも知れない、と言ったら失礼だろうか。

本人に確かめたわけではないが、そして、確かめても、照れ臭いか、馬鹿馬鹿しいかで本当の返事はしないだろう。いや、無理にでも、違った返事をするかもしれない。

さりとて、大江の流儀に逆らって、誰に対しても「さん」とか「様」とか「氏」をつけて呼ぶのも、それが必ずしも、この国一般の礼儀に適(かな)った態度でもないように思われる。真(まこと)に、人間は難しい自尊心の動物であると私は思う。

 

何か、大江だけを特に意識してモノをいっている形だが、三十年ほど前に、あの、大江の「大恩師」であり、「フランス・ルネサンス期の人間精神」についての名著を残されたことで、わが国のインテリといわれる青年男女の間でも著名だった、渡辺一夫(わたなべ・かずお)教授も出席して居られた、有楽町の、然るホテルでの、職場の友人、「東大仏文卒」の、評論家の小中陽太郎(こなか・ようたろう)の結婚式で彼と遭ったときに、その会場で、「君」とは「喧嘩をした仲だ」と、突然、予期していなかった言葉を彼から聴いたのだが、私は、彼の意識の中で、自分が、そんなに「昇格」していたのかと、驚き、且つ、戸惑ったことがあった。その、彼の、二十代後半のころの、その発言の根拠は、半世紀近く経った現在でも私には判らないので、私は、自分を、相当、鈍感な男だと思っている。

私が、彼は他人の言動を過剰気味に意識する人のように見るのはそのためである。

 

その頃、小中陽太郎が、仕事で来日していた、ある外国人女優との一夜の、かなり強引な恋と、それに続いて長期無断欠勤してフランスなどを旅行してきた、その顛末を、然る週刊誌に自ら「叙述」し、それが、非情にも、出版、販売され、放送協会から解雇されたことがあった。彼のその「解雇」を巡って、その友人たちが喧々諤々、議論していた。知性の兄のような、当時、「日本の素顔」などのテレビ番組で、「アクチュアリティのドラマチックなリコンポジション(現実素材の劇的な創造的再構成)」を基本思想としたアメリカの本に学んで気を吐いていた、彼の、理窟上の先輩である吉田直哉(よしだ・なおや)という「名プロデューサー」などは、小中がしたことには論及せずに、「彼も、僕たちに、もう少し心を打ち明けていてくれていたら、有効な助言を出来ていたのに……」などと、百点満点の、敵なのか味方なのか判らないことを言って、結果的には、事件を利用した自己宣伝に終始していた。

余談だが、その吉田を部下に持つた、得意の、当時の彼の、ある上司は、ドキュメンタリーについて、吉田を自慢にするまでは良かったのだが、吉田が言っていたことを取り違えて、ドキュメンタリー番組制作を、「『現実』を劇的に創造することだ!」と、若いプロデューサーたちを叱咤していた。『現実の素材の創造的な再構成』を、滑稽にも「歴史的な現実を創造して」と取り違えて、「歴史の創造」などと、「天地創造の神」を模倣するようなことを言っていた。彼は、シーザーも、平清盛も、信長や、ナポレオンでもしなかったことを、いや、出来なかったことを部下に訓示していた、「歴史の論理」と、ドキュメンタリーという、一種の現代的な「手芸」とを混同し、浅薄皮相な興奮以外には、日本語と現実の自国の歴史にさえ理解の乏しそうな、「気合い」だけの無知な男だったが、その彼も、「東大卒」だったとのことである。

 

小中は、名古屋時代の二年年下の私の友人だったので、東京へ転勤していた私は、当時、放送協会の新宿、柏木の単身寮に居たのだが、そうした、「友人」の生活の機微に関わることを話題にした飲み会には、私も同席していた。

ある夜も同じで、最初は、西銀座の、新橋に近い飲食街で騒いでいた我々も、より安くて、より寛げる店を求めて、タクシーで新宿方向へ移動していた。年長だったこともあったのか、私が運転手の横に座り、小中と大江ともう一人の小中の友人が後部座席に乗っていた。このくらいのことで小中を解雇するという放送協会は怪しからぬ、とか、大体、日本では、いやこのごろは、若者の行動の本当の意味について、日本の社会は無理解であり、無感動であって許せない、などといった意味のことを叫ぶ酔客の乗った車だった。

雰囲気では、放送協会を代表する形になってしまった私は、別に法理論を踏まえたわけではなかったが、常識的に言って、組織の中での行動の規範は……と、言わざるを得なかった。すると、後部座席から大江が大声で、勢い込んで叫んだ。車は、帝国ホテル旧館の前から田村町方向へ向い、日比谷公園を、大きな銀行の前、公会堂の裏で右折して、国会議事堂のほうへ、緩やかな坂を登っていた。「そういう考え方と言動に僕は反対なのだ!……」と、車の暗い隅から彼が言い続けていた。反対は自由だけれども、その理由を納得させるのは、かなり難しいことではないか、と私が言ったら、渡辺先生は、人間には「自己発見」の努力が必要だと言っておられる、人間の精神は自由だと言った。精神ではなくて、行動の責任だと私が言ったら、君は「反動だ」、と解釈出来そうなことを彼が言った。そんなことだから日本には進歩がないのだとも言ったようだった。摩り替えてはいけない。日本の問題ではなくて、一人の友人の、組織内での行動規範の問題ではないか……、と言い返そうと思ったが、タクシーの座席の前後でのやり取りにしてはテーマが重すぎた。論争に負けたわけではなく、彼らの言い分に賛成したわけでもなかったが、「フランス好み」で言えば、アルベール・カミュだったら私と同じことを言っただろうと、そのとき思ったのだが、心に疲労を感じて私は口を閉じた。委細についての記憶は薄れてしまったが、小中がそのように行動したことに対する評価を巡って、我々は意見が違った。沈黙の後、我々は新宿で車を降りた。その時のタクシー代は全額、私が払った。

 

当時、私は、放送協会の報道局の政治経済番組部に居て、ラジオやテレビの国会中継番組実施の、現場要員の一人でもあった。政局が沸騰する時には忙しかった。そのため、当時の若干の政治家の風貌や考え方にも少し通じていたし、国会の建物の構造についても、各種委員会の開催場所や、役員とか政党ごとの控え室とか、たとえば、議員食堂とか、どこにトイレがあるかなどといった、瑣末なことまで知っていた。雑談の中で、そのようなことを言った記憶があったが、それを根拠にか、彼らは私を「体制側」の者だ、と思っていた形跡がある。折に触れて、彼らが私に対して、攻撃的、批判的なことを言っていたのは、その点が、彼らの印象に強く残っていたせいかも知れない。そして、そのため、そこからが、多分、大江の側の、飛躍した想像だったと思うのだが、私は、彼にとっては、腐りきった反動的な政治で「僕たち青年」を苦しめる「反動的政治家たち」の論理を追い求める、堕落した、「反動の走狗」に見えていたのかも知れなかった。彼の言葉から思い出せることはそれだけである。彼がその時に言った、「君とは喧嘩をした仲」の意味は、それしか考えられないのである。

そのため、彼は、何か、現実の装置に驚いて、眼の前で推移する事柄の実態や本質を冷静に把握出来ていなかった、「純粋だが、同時に、無知で無責任な、幸せな青年」のようにも、当時の私には見えたのだった。ただ、それが「大江個人」だったのか、「大江たち」としての彼だったのかの区別は、今でも付かないのである。

 

大江の処世の実像を見ていると、原稿が売れたことと、社会を生きてゆくこととの間にあるものを弁別する姿勢は誰も彼に教えてくれなかったのである。

突飛なことを言うことになるかも知れないが、西欧の貴族社会……、私はそれを崇めて模倣する積りはないが、一定の社会的自覚と、それを内側から支える精神的な自覚的姿勢とでも言うものが、その社会の構成員たちにはあった。いや、あったのではなく、あるべき規範があっただけかも知れないが、あるべきであるとする思想はあった。

日本の封建時代の武士にも、やや押し付けがましい雰囲気だったが、武士道というものがあった。私は、それを個人的にだが、一つの社会を生きてゆく個人の、その立場としての原則だったのだと思うことにしてきた。

それに較べると、ノーベル賞受賞のインタヴュの中で、「助かります。賞金の九千万円で、暫く食べてゆけますから……」と彼が、気を許してか、下世話を衒う如く、そう言ったときのことも、妙に私の記憶に残っている。昔の話ではあるけれども。

 

このあたり、ここに登場する人たちについての、記述上の私の態度は、相手を、呼び捨てだが、素朴な気持ちからの「親しさ」を伴うものと受けとっていただきたい。同僚、先輩についても皆、態度は同じと理解していただきたい。私の、心の中の敬意と友愛の気持ちは、誰に対しても同じなのだから。

 

話題を、私の「世代」に移したい。

一九四五年、昭和二十年、私が中学校の一年生、十二歳のときに日本は第二次世界大戦、太平洋戦争に負けて、終戦を迎えた。私は、自分の十二歳の夏が、わが国の戦後の再出発の時だった世代である。ここに、敢えてこのように年齢を明示して書くのは、この短い物語を読んで下さっている方が、この中に登場する、私の知己、仲間、友人たちの人生や生き方を、自分の青春や人生と比較して推測なさる参考になるだろうと思うからである。

 私にとっては、戦中と戦後が、「子供」と「大人」の差異と重なることになる。そのため、人間として成熟してきた過程と、所謂、日本の「近代化、国際化」の過程とが重なることになり、その点が、私の生育過程の特徴であるようにも思われるのである。

 その中で一番大きなことは、成人する過程で、私は「徴兵」を考えなくてもよかったことだと思う。勉学の進路とか、職業の選択に際しても、伝え聞く、当時の年長者たちの、人生の進路の選択に関する工夫に含まれていたと思われる「徴兵対策」の必要が、私にはなかったのである。それが無くて当たり前という時代を生きてきたのである。

 

千年ほど前から、日本人男性は、「国に所属する男の義務として」、例えば「防人(さきもり)」として、「西国防衛」のために、「自己負担」で、「国の防衛」に参加しなければならなかった。時代が下ると、封建社会の下では、士族と呼ばれる階層の家の子弟は、自分の一族を食べさせてくれるのが殿様だったから、その殿様がどこか他の殿様と争うときには、自分の「俸禄」を懸けて、その戦いに加勢しなければならなかった。「武士」とはその様な「職業」だったのだと思う。そのようにして千年ほども続いてきた、個人と共同体の利害とのかかわりについての、個人の「人生の消耗」の義務が、昭和二十年の、日本の敗戦、「終戦」で、幸いにも「雲散霧消」した。と、そう言うのが大袈裟だとしても、大きく変化した。

終戦の年の八月十八日には、一部の優秀な友人は「陸軍幼年学校」を「受験」に行くことになっていた。然し、「八月十五日」で、その話は消えた。それは、私にとっては「時の成り行き」に過ぎなかったけれども、私よりも年長だった人たちにとっては、そうした「徴兵」や「受験」は、自分の人生の進路の選択に、非常に大きく影響していたのではなかったか、と私は推測している。

敗戦、終戦の年、それは、日本では、「個人と国家」、人間の、民族的集団としての「社会の構成要員」である男子の権利と義務の内容と範囲が、私の場合には歴史的に大きく変革した年だった。

 

古代国家時代以来、なし崩し的に、当然のように行なわれてきて、明治体制下で、近代国家の装いの中でも継承されていた「国民皆兵(こくみん・かいへい)」は「終戦」とともに無くなった。

現代の日本は「国民皆税負担者」(国民皆税)、「国民皆年金受給者」(国民皆年金)、「国民皆健康被保険者」(国民皆健保)の時代、そして「国民皆有権者」の時代である。政府が、「民主主義」という政治原理によって、建前としては、我々全体を捕捉していることになっている時代なのである。

 

 人間とは何か、個人とは何か、社会とは何か、そして、幸せな生活や生涯とは、どのような日々を送ることかということを、あからさまな欲望や利己心を離れて考えることが出来るような時代に我々は生きている……と、言うのは大袈裟だとしても、歴史的、経済的に、そして、特に国際的な環境の中で、それに近いことが出来ていたことを、私は幸せに思っているのである。何故なら、その頃から暫くの間、そして最近までは、少なくとも我々は国内では「平和を謳歌」出来たが、その間にも国外、海の外では人類社会の「体制」をめぐる熾烈極まる激動が続いていたからである。

 

 小田実と、最初に会った場所はテレビ番組の制作現場だった。私が、三十歳になったばかりの頃のことで、東京、新橋、内幸町の、今では、他の企業のために完全に建て替えられて跡形もない、当時の放送会館の西側、奥の、テレビ放送の急激な拡大に急かれるように造られた新館の五階か六階の広いスタジオの一角だった。私は、放送協会の要員で、放送番組制作側の一人、彼が放送出演者という関係だった。番組の生(なま)放送終了後、烏森(からすもり)界隈で、関係者で雑談し、その後も、それが縁で時折、歓談したが、お互いに仕事が多忙で、頻繁に交流したわけではない。

 

日本中が、一九六四年十月の、東京オリンピックの開催で成功したと浮かれていたころ、そして、第二次世界大戦での敗北後の、再出発国家として、軍備を放棄し、経済発展主体の、いわば内部発酵的な努力に、自らの民族的、国家的エネルギーを集中させていたころ、海外では、世界的に緊張が続いていた米ソの政治的対立、いわゆる東西対立がアジアの一角でも火を噴いた。

フランスのアジアでの植民地の一角であった、インドシナ半島のヴェトナムで、フランスの植民地支配からの独立戦争後の、その国の存続形態をめぐって、実質的には米ソの代理戦争の形で戦闘が激化したのである。そのため、日本国内での、教科書的な、理念として論議されるのみの「世界平和」と、国際情勢の現実の事態との関係を、我々は直視しなければならなくなっていた。

一九六四年八月二日と四日のトンキン湾事件が発端となり、東京オリンピックを挟んで、そうしたアジアの一国の経済的繁栄を、地球規模で言えばローカルな、一つの国の、ささやかで自己陶酔的な楽しみ事であると決め付けるかのごとく、翌年二月七日の、それ以後は「北爆」と呼ばれるようになった、大規模爆撃作戦などに始まるアメリカ軍の戦闘行動がアジアで活発化した。

そのようにして始まった、アメリカのヴェトナム内戦への介入が、アメリカの青年たちを巻き込んだ、長期的で、苛烈な軍事行動となり、戦場へ駆り出されるアメリカの若者たちには、自分たちの人生の意味が判らなくなってしまっていたようだった。

ヴェトナム共産党や南ヴェトナム解放民族戦線の背後には、ソ連をはじめ、中国や、その他の共産主義勢力があり、アメリカ合衆国を先頭とする世界資本主義を、人間の不平等を当然視する資本家集団の独善世界を強行するものだと、その東側は言い、一方、西側は、共産主義理論を掲げる大国の背後には、民族や国家の間に苛酷な支配、被支配関係があり、その世界には経済的な豊かさとか、自由と人権の保障がないとする判断と立場があった。しかも両者は対立と敵対関係にあったため、現実の展開をめぐっては、過剰な宣伝が交錯し、工作員と思える人物の隠密裏の往復や、また金銭、物資、武器などの露骨な「援助」合戦も表裏で活発だったと伝えられている。

そうした世界規模の対立は、陣営存続の人類倫理的な是非の判断と併行して、人間そのものに関して、個人と社会の関係や、その認識、判断を、わが国の若年層にも考えさせ、迫るものであった。

然し、正直なことを言うと、そうした国際緊張や、対立当事国も、わが国にとっては経済的な意味での輸出生産物の顧客である側面が大きく、若干の貿易品目に関して、問題の国々も日本にとっては、主として、一つの、貿易相手国であった。

 

その様に、国際政治の動向や、諸国の政治家たちの思惑で世界が動いてしまっている現実、実質的にはアメリカ合衆国を先頭にした現代資本主義世界と、ソビエト連邦が先頭に立つ国際共産主義国家圏の世界制覇をめぐる軋轢という現実について、素朴と言えば素朴だが、このあたりで一度、我々自身の頭で世界や国家、民族や社会や人間個人の生き方やあり方を考える必要を訴えようと、二年間のアメリカ留学から帰っていた小田が言い出した。

然し、我々、といっても定期的に顔を会わせるグループがあったわけではない。三人、五人と、その時ごとに、都合がつき、気の合う者たちが、新宿、渋谷、新橋、銀座などの大衆的な酒場のある界隈で任意に放談を重ねる、同世代だが、拘束性の全くない、あたかも、海に漂う藻や海草のような自由な集団だった。少なくとも、私には、そのように見えていた。

そうした状況を重ねるうちに、一九六五年四月二十四日、その訴えを具体的に称えようとするグループを、「ベトナムに平和を! 市民文化団体連合」とでも呼んだらどうだろうと小田が言った。そして、仲間もそれに頷き、それが、誰言うとなく、略して「ベ平連」と呼ばれるようになった。

 

中国の、ヒマラヤ山脈に連なる、雲南の奥地に源を発するメコン川などに育まれてきた、インドシナと呼ばれる地域の、南シナ海に面するその地域は、普通は、「ヴェトナム(ヴィエト・ナム)」と呼ばれているのだから、喧しく言えば、その集団も「ヴェ平連」だろうが、日本人の普通の会話の中では「ヴェ」の音は無いので、その地域を「べトナム」と呼び、彼らは、一般には「ベ平連」と呼ばれてきた。

 

その集団には、体格や挙措、態度から小田実が中心的な存在にも見えたが、実際には、それは、特定の中心人物に頼る、意思や感情が劇的に激しく逆巻く様な渦ではなかった。言い方を変えれば、中心が幾つもある一種の集合的な運動だったと言えるかも知れない。

 

小田の他にも、私が僅かに記憶する限りでは、新鮮で骨太な知性を覗かせる若手作家の開高健、終戦直後の首相の一人、吉田茂(よしだ・しげる)の縁者に当る、核廃棄物の安全処理を唱えていた佐久間稔(さくま・みのる)とか、東京大学のフランス文学の大御所とされていた、渡辺一夫教授の直弟子を自認する、先述来の、小中陽太郎などのほか、結晶寸前の高濃度の知性に、どのような形を与えるべきかと模索を続ける、純粋な、多数の若者たちがいた。後に知ることになったり、名前だけを聴いたりした後は、結局そのままという年長、同年、若年の男女も多数いた。当面の哲学的興奮を、直結的に、己の価値の根拠として当世的な評価に結びつけることの方に熱心な、一種、短絡的な自己完成を急ぐ者もいたようである。その時代の若い知性の、ある種の熱気を孕んだ一種の星雲が、そこにあったと言っても好いだろう。

他にも、哲学や思想史などの人文科学、社会科学、理数科学などの、他の分野の明敏な論客も多数居たようだが、その頃のことについては。私には、私の視野と、行動範囲内のことしか判らないし、記憶も無い。

ある意味では、それほど広範な「運動」だったと見てよいのかも知れない。

 

しかし、それは、本来は、ヴェトナムで戦う、あるいは戦わされている米軍兵士に働きかけるとか、アメリカの為政者に国際的行動のあり方で議論を挑むものでもなかった。第三国の冷静な知性が、人類平和のあり方を国際社会に訴えるというものだが、人間には最低限、してはならないことがあるという、素朴といえば素朴な、幼児の理窟のような、当然のことを訴え直す行為に過ぎなかった。しかし、その辺りまで降りてみなければ、現代の経済理論や企業経営哲学、国家繁栄や世界平和のための政治哲学や国際政治理論が本当に正しいのかどうかが議論できないではないかというのが、彼らの発想だった。そして、「べ平連」は、特定の政治的な団体ではなくて、平和の推進、実現を願う者なら誰でも参加できる、そうした意識を共にする市民の集団であると自分たちを説明していた。

然し、それも、組織化された、統一的な合意に基づくものではなかったので、こうした動きの社会的位置付けや、個々人の行動理念には、その人物なりの、様々な個人的特徴があったのも事実だった。

ただ、唱える中味の方向は、大方の賛同を基に、同じ流れを形成していたのは事実だろう。

 

その具体的な当初の行動として、小田の二年間のアメリカ留学の経験を前提に、現状についての日本人の意思をアメリカの市民に訴えるためにアメリカの有力新聞である「ニューヨーク・タイムズ」紙に意見広告を掲載したらどうかと開高健が言い出した。「真ん中や! 中心や! 狙うのは……」と彼が言っていたかどうかは思い出せないが、彼の気持ちの中には、それが在ったと私は思っている。

アメリカ合衆国は、多民族が様々な価値観を前提に、ヨーロッパ大陸での、古い封建社会の発想に基づく精神的桎梏から脱却して、あの大陸に新しい民主主義社会を造り上げた複合的な国家だが、言論が自由であって、民衆が一つの狭隘なドクトリンに従属させられていないと見える国で、健全な知性が民衆の間に多数存在すると見てよい国と考えて、広告掲載には、私も賛成だった。

然し、誰がその作業を実際に推進するのかが問題だった。

ともかく、それを実行、実現しなければ意味が無い。しかし、現実には、殆どの者は自分の職業に追い回されていて具体的に作業を引き受ける者がいなかった。実際に意見広告をアメリカの一流紙に掲載を求めて、原稿を作成し、議論して、推敲し、それを通用する英語に書き直し、効果的な写真映像も選定し、広告代理店などを通して、実際にその新聞社に広告掲載を申し込む……、それらのすべてについての財源を確保し、明快な精算を行うなどの実務の作業があった。また、賛成者の多くは、そう叫ぶことでエネルギーの大半をすり減らしてしまっていて、その「実務」を引き受けるものが殆んどいないのが実情だった。

そこへ、久保圭之介(くぼ・けいのすけ)という、映画で横須賀米軍基地を舞台にした、当時の日本人の群像をつぶさに眺める映画「豚と軍艦」で助監督を務めた、ややシニカルな……とも見られる、現実主義者が登場した。泥をかぶる才能というか、人間のだらしなさや、間に合わなさに対して寛容で、忍耐強く目標を見失わない男だった。その仕事の意義を素早く直感的に悟った彼が、その「広告掲載」の作業を買って出てくれた。

私は、それほど頻繁に久保に会っていたわけではなかった。活動の財源をどうしているのかは私には判らなかったが、作業を考えれば、口で叫ぶだけではいけないと考えて、以前から、勉強のつもりで、仕事の余暇を縫って、ある学者のフランス語の下訳をして得ていた、内職の、僅かな翻訳代金の一部を拠出して、資金面にも少し、個人的に参加した。

その会は、翌年十月十六日に「ベトナムに平和を!市民連合」と名称を少し変更した。意見広告は、その年の十一月に「爆弾(複数)がヴェトナムに平和をもたらすことが出来るだろうか?Can bombs bring peace in Vietnam?」という太い書体と、背中合わせに鳩と鷹を組合せた、異文化人に向けた信号のような図柄の目立つ意見広告が、「ニューヨーク・タイムス」紙に掲載され、翌六十七年四月には、画家、岡本太郎が「殺すな」という毛筆文字を組み込んだ図柄を含む意見広告が「ワシントン・ポスト」紙に掲載された。

これらの行動は、今も言ったように、国際政治の現状を動かすために、政治家や外交官として、その当事者に直接接触して言葉を交わし、次の事象に即効的な変化をもたらし得るものではなかった。見方によれば自慰的な、犬の遠吠えのように見た人もいると思う。我々にもそのことは判っていた。一部インテリの自己満足的な「祭り」だと言いたげな顔も多く見た。しかし我々は、この行動を見聞し、行動に触れたり参加したりした人たちが、個々人、己の行動として、次にとるべき自分の判断や、世界観を確認するのに役立たなかったとは思っていない。歴史という河に、杭を一本打つのだという気持ちだった。当時の考え方を、小田はこうした言葉使いでは表現していなかったが、敢えて描写すれば、そのようにもなると私は思う。

そうやって「ベ平連」の初期に小田と言葉を交わし、折に触れて話し合い、彼の考え方と思考の本質を私は理解したと思っている。その後のこの運動の展開については周知の通りである。

 

そのような接触を通して小田を眺めた私の印象では、小田は繊細で、鋭利な剃刀(かみそり)ではなく、鉞(まさかり)のような男で、強靭な意思を秘め、やや直情径行、しかし、その挙措の波紋や飛沫の掛かる人間たちについても、いちいち具体的な始末までは出来なかったが、敏感に気配りする男だった。運動の参加者に関しても、相手によっては、「俺は《ええ(好い)》けど、彼には《きつい》やろ」などと呟くこともあった。先述の小中の問題に関しても、彼は「そんなことをしたら、《食べて行けんやないか》、後を、どうする積りなんや?」と、我々に言った。小中の母にも彼は、同じことを言っていた。言い換えれば、小田には、事態の推移を客観的に予測する、一定の世間知とでも言うのか、下世話な感情を蔑まない側面があった。「社会」という、「集団」の中での個人的な行動に関しては、個々人の状況の、その時点での現実的な利得や感情にも配慮する、人間味ということを大切にする、人間の体温を身近に感じさせつつ、尚且つ、知性や理性の冷静さを保とうと心掛ける男だった。それがある意味では彼の陰影であり、彼に、活劇のヒーローのような、的確、冷厳で、動作に無駄の無い、素早い果敢さを求める者たちにとっては、一種の、意外な女々しさとさえ映ったこともあった。旧式な言い方をすれば、彼はダンディでもなく、スマートでもなかった。また、そう言った外側の姿勢を気にする男でもなかった。風のように空を過(よ)ぎる、隼(はやぶさ)ではなくて、己の一念だけを見据えて、泥田を這って、重い犂を、口数少なく曳いて行く牡牛にも似ていた。

しかし、小田は、心の、見事に透明な男だった。それでいて、いや、それだからこそと言うべきか、時には、自分の意見の背景についての説明は省略して、「そう思うから、そう言うのや」と、堪りかねたように言うのが彼の口癖だったようである。

そんなときの彼は、小鳥や山羊、牛獣鶏禽の群れの中で、澄んだ声音(こわね)で、思いつめたように高く吼える、孤独な猛獣のようでもあった。

 

小田実に関しては、他に、私より、もっと立派で、頭の良い、経験豊かな人たちが大勢いるし、現代的な意味での彼の価値や、彼を刺激や触媒として自分が目覚めた人も多いと思うので、その側面での評価はその人たちに任せたい。ここで書いていることは、当たり前の話だが、私という「メディア」を通してのみ語っていることであり、描写の濃淡粗密は、すべて私の耳目に触れた状況の反映でしかない。

 

 然し、この、平和を希求する問題は、小田や開高たちの情熱や知性を超えた、現実の世界の動き、つまり、彼ら個人の理知的判断を超えた、歴史の現実の展開と、彼らを含む同時代の個々人の総和の問題でもあった。現実は、彼らの叫びや、それに呼応する個々の個性の判断や行動の空間からも離れた、別の遠いところで展開していて、そこでは現に我々と同じ世代の青年の生命が、自分では納得できない、自分の国の動きによって、大袈裟に言えば、時々刻々、失われていた。西にも東にも、どこかに最終的な判断、決断の主体はある筈なのだが、その双方の主体が判断を下すための情報の背景は、偶然も含む複雑至極なものであって、あたかも個人の意思を遥かに越えた、力と力の揉み合いに終始しているように見えた。

……だからこそ、一つの力を感じさせる叫びが必要なのではないか、というのが小田の立場だった。主義主張の、どの派の、どの流れと規定しにくい立場だった。抽象的だから弱く、幼稚だといわれる側面もあったし、どれかの主義からは、未熟と呼ばれ、見えない勢力から計算づくで「利用」される「隙」も充分にあった。しかし、自ずから沸き上って、力の赴くままに打ち寄せてゆく海の波には意思はない。不用意と謗られる隙さえあったかもしれない。しかし、小田は、目標が正しければ、仕方がない、「それでも、ええやんか……」とでも関西弁で言っているようだった。

仮に日本の外務省など職業外交官たちが小田のように、個人的にも深く考えた上で行動したとしても、その外交官は、近代化以来でも、既に一世紀を経ている日本外交のあらゆる利得の計算の上に行動することになり、小村寿太郎たちをはじめとする諸先輩の行動パターンが脳裏を去来して、結局、時の政権の判断に基づく姿勢しか執れなかっただろう。

つまり、あらゆる利害に縛られた政治が動かなければ政府機構は動けないということである。とすると、犬の遠吠えの如きものとあしらわれたかも知れない行動の方が、現実に与えたインパクトとしては貴重なものだったのではなかったかと私は思っている。

また、同世代の青年たち……と言っても、年老いて、二千年紀に入った今では、あれから、ほぼ半世紀後の世代の官僚や政治家から「後期高齢者」などという、同じ時代に生きているという共感の感じられない、統計分類技術の用語しか駆使できない、情緒欠損とでも呼ぶべき、友愛という気持ちの乏しい、人間的な冷静さとも異なる、歪んだ人生観、社会観、世界観で扱われる世代の者たちだが、彼らも自分の環境がもたらす情報の範囲内でしか行動できない多忙な生活者たちだった。しかし、彼らも、小田たちの言っていることには、心のどこかで頷いていたと思う。その意味では、小田も一つの時代を生きたのだと私は思っている。

 

その彼に、私の後輩というか、少し特徴のある友人が、テレビドラマの台本執筆を依頼したことがあった。私が名古屋にいたときの、二歳年下の、先ほどから、既に触れてきている、エリート・プロデューサーの小中陽太郎だった。頭の良い男である。私が名古屋の放送局から、放送協会で、留学生としては制度発足二年目で、最初のフランス留学生としてパリやノルマンディへ行っていたころ、東大仏文を出た自分がフランスへ行けないのを悔しがっていた男である。名古屋を出発する前に、何でもいいからフランスから感想を送ってくれと言っていた彼に、私は、ヨーロッパへ来て見ると、日本で過ごしていたときにも薄々感じていた通り、日本の現代の知的な世界を牛耳っている人たちの多くが、失礼ながら、私には一種の視野狭窄に見えたので、戦後の国際的、社会的経緯に照らすと、日本はまだ、本当のインテリにとっては鎖国、夜明け前だと思うという様な意味のことを雑感に混ぜてパリから書き送ったことがあった。すると鋭敏な小中は、その「鎖国」というテーマで小田に何かドラマを書けといったらしい。小田にもこちらが言っている意味は判ったようだったが、本来、現実を現実の問題として論議の対象にすることが主な関心事だった小田には、ドラマという「虚構」の工夫、案出は気が乗らなかったらしい。小田は、「要するに、吉田松陰(よしだ・しょういん)の心境を理解する様な人間が増えんことにはあかん」という程度のことを口走ったらしい。

小中は、他の脚本家に小田のその感想を伝えて、台本を依頼し、名古屋放送局のローカル番組として「一青年が浜の小船で沖の外国船に向かってゆく……」といった感じのテレビ・ドラマを演出したようである。しかし、私は話に聞くだけでその作品を見ていない。

そのころは、テレビジョンの機器は未発達で、映像は、勿論、モノクロ(白黒)で、それをビデオテープという、電気的な信号で保存する態勢や、それを具現する機材、機器も、地方局の一つだった名古屋の局には、未だ充分にはなかったので、それが、どのような「作品」だったのかを検証する方法が無くて、私は、残念ながら、それは、話に聞くのみである。当時も、歴史的な記録として、よほど大切な、保存価値を認められる、動く映像については、テレビの画面をフィルムで同時撮影する、キネスコープという、光学的な収録方法はあったけれども、その番組は、その「キネコ撮り」に値しないとされたのか、それとも小中自身が、その手法に通じていなかったのか、ともかく、その「作品」の映像は資料室にも残っていない。

 

私が一年間のフランス留学を終えて、名古屋の任地へ復帰した後、翌一九六三年、昭和三十八年の夏、東京の政治経済番組部という部署へ転勤したのは、私が、三十歳の秋のことであった。東京オリンピックで、語学記者と呼ぶ外国語要員が要るという、一種の必需品臨時調達人事のようだった。

 

私の、彼ら小田や開高たちとの具体的な接触は、先に挙げた小中陽太郎という二歳下の演劇やドラマの番組の制作を目指す、気鋭の新人プロデューサーや、その一歳年上の、やはり軽音楽や演劇番組の制作者となることを希望する林叡作(はやし・えいさく)というプロデューサーを通してだった。

小中は東京大学フランス文学科卒業で、そのころ仏文青年たちの慈父のごとき存在と呼ばれていた渡辺一夫教授の門下生を自負していた。彼、自らは、筆名ロートレアモン、実名をイジドール・デュカスという、作品に「マルドロールの歌」という長編散文詩のある、フランス十九世紀半ばの作家を「研究」したというフランス文学の優秀な学生だった。しかし、若干の例外はあったが、殆んどの仏文科の卒業生と同じように、彼も、フランス語の読解、作文、会話などは充分、堪能には出来ず、今後の努力を求められる程度の実力と見受けられた。専攻した外国語を、その言語が話される、その言葉の母国で、生活を通して体験できない、当時の日本では、致し方のないことだった。中国へ渡ったことのない漢学者の中国語をフランス語に置き換えたようなものだった。

林は、父親が「毎日音楽コンクール」の審査員をしていた名バイオリニストで、良き時代のパリにも滞在経験のあるエリート芸術家の一人息子だった。彼は父親の才能を継承するには不似合いな、慶応大学の経済学部を卒業していた。しかし、父親のその音楽的才能を、軽音楽と、その世界の人脈的な動静の把握に発揮していたらしい。彼は特定の楽器の名手ではなく、またフランス語は使いものになって居なかったし、英語も日本の普通の大卒者程度、つまり、欧米人との実際の会話に直ぐには役立つものではなかった。現代東京の最先端の空気を素直に心に孕んだ、最先端の日本の青年の一人だったけれども。

 

私はここで、大切な友人である彼らの人間的な水準や努力の成果を誹謗、蔑視しているのではない。当時の日本には国際環境と日常生活で実地に自らを鍛える機会に恵まれる環境がなかったと言っているのである。つまり努力のフィールドの狭い国際的環境を脱却できない社会環境の中の青年たちだったとでも言えばよいのだろうか。要するに、少し意地悪く言えば、二人とも東京の有名大学を、ある程度の成績で卒業した、閉鎖文明国の、やや恵まれていると同時に、公平に見て能力発揮の場面に恵まれずに、力をもてあましているお坊ちゃんプロデューサーたちだった。

然し、小中については、彼の名誉のために言い添えると、小中は、その年次の放送協会の新入職員の序列は一番で、今はもう影も形もなくなってしまった、新橋、田村町の放送会館の第一スタジオでの「入社式」では、新入職員を代表して、後にフランス大使になった古垣鉄郎(ふるがき・てつろう)会長の前で、「私たちはこれから全国に散ってゆきますが、虹のように電波が輝くでしょう」(小中の自著「ラメール母」175ページ)などと、フランスの幼児絵本「キャロリーヌ」の一ページのような決意の挨拶を述べた男だった。そのときの経過としては、成績は優秀な男だった。

 小中は、後に問題を起こして放送協会を解雇されたが、その遠い原因は、私のフランス留学にもあった。しかし、それを話し始めると長くなるので、その話を詳述する機会は、多分、もう無いだろうが、ともかく、それは、他の機会に廻すことにして、小田との関係の始まりに話を移す。

 

 確かに、あのころの青年たちは、すでに戦後の状況下を、大きな規模で動いている国際社会を、肌で、直接、経験的に知る機会を持ち得ない、日本独特の島国的条件の中で生きる不幸な若者たちだった。具体的には、明治以来膨張してきた、客観性の乏しい自尊心の一つの結果として大戦争に敗北したあとの、わが国の国際的な経済力の劣勢が原因で、庶民にとっては、外国へ行きたくても、渡航費、滞在費、活動費に当てる当該国通貨を入手することが非常に困難だった。当時、米ドルが国際通貨と看做されていたが、日本国内で米ドルを自由に取得することは先ず無理で、市中の銀行でアメリカのドルを買おうにも外国為替管理法の厳しい制限があった。公的に認められた者でも外貨の持ち出しは一年間に二百ドルしか認められていなかった。政治家、政府関係者以外では、政府留学生になるか、重要企業の公式の海外派遣者とか、海外の篤志財団などからの支援を享受する者である場合を除いては、海外への「留学」などの渡航は出来ない時代だった。小田が喩え話として言ったように、日本は、経済的な意味でだが、まるで幕末の鎖国と同じ状態が続いているようだった。青年たちは、世界の新事情を知るべきだと自覚して浦賀でペリーの船に近づいて果たせなかった吉田松陰にも似た状況だった。

 

ただ、このように私が想像し、引用しているテーマに関して、現在も、浦賀で、ペリー来航当時の事情を、現存する資料を通して出来るだけ詳しく知る努力をしている私の知人の話を聴くと、松蔭の「悲劇」も、ペリーの側の密出国者に対する外交的苦情とか、幕府側の不寛容という通念的な解釈が必ずしも正しいとは言えないことのようである。

 

「松蔭」を閉塞時代の「情熱の象徴」とする見方にも、冷静な考察が要るように私には思える。別の角度から見れば、情熱や欲求の吐露とは違った次元での、外部接触の際の、人間としての基本的な行動様式や態度の反省も必要ではないかと私は思う。

 

彼らは小船でペリーの軍艦に乗りつけ、艦上で渡航を懇願した。相手には「懇願」の意図は判らなかっただろうが、渡航の「意思」は判ったと思う。一般に、航海の雑務には人手は要る。だから彼らも、的確と思える者なら、水夫、雑役夫として使ってもよいと考えていた。現に軍艦には中国人など非アメリカ人の乗組員はいた。末端の通訳として、無名の日本人もいたようである。現に幕府の「厳戒網」を破ってその艦まで来ているのだから、密航だ何だと「こと」を荒立てなくても、彼らを「無害」または「利用価値あり」と感じれば、平気でその青年たちを連れて行っただろう。国家間で咎められれば、漂流民の「海難救助」という「人道的行為」だと言い返す方法だってあったのだから。

 

ところで、彼ら「青年たち」は、多分、着物に袴をはき、草履ばきだっただろう。それもよい。ただ、当時の日本人の、その種の旅行者に共通していたことだったと思うのだが、そして、失礼だろうが、若しかしたら、身体は汗と垢にまみれて、異臭を放っていたと思われる。虱も襟元で動いていたかもしれない。

地球上で、温帯に属する日本は、その程度の衛生状態でも、特定の難しい疾病気で一般の庶民が非常に大きな不幸には、見舞われることのない国だった。勿論、過去には、天然痘の感染によって、北方在住のアイヌ民族が大きな被害を蒙ったり、マラリアが沖縄で猛威を揮ったりした事態はあったのだが、全般には西欧でのペストや黒死病のような矯激な伝染病からは免れて、運良く、安全だったと見られてきている。

一方、ペリーたち船乗りが最も警戒する事柄に「防疫」があった。不潔な者が持ち込む伝染病などの船内への感染には常に強い警戒心を抱いていた。松陰たちが口にしている「目的」は判らないが、「渡航」の希望の「意思」は判る。「黒船」側は、必要な、あるいは「有用な人手」としての人間の収容くらいは平気でやっていたと思われる。然し、「防疫上」問題になる種類の人間の接近は、そちらでも管理してもらいたい……ペリーの日本側への通知は、密出国者の摘発ではなく、「衛生管理」の観点からの港湾管理の要求ではなかったのか。

こんな言葉は無いだろうが、あえて言葉にすれば「衛生の国際化」とでも言える自覚が、異民族との接触を通じて、少なくとも船乗りの責任者たちの間では自覚され始めていた時代だったのだと思う。

私は山口県の萩へも行ったことがあるが、そこは清潔な街である。松下村塾も、松蔭神社も感慨深く見た。当時の建物を利用する、彼の「精神」を継承する学校の存続も敬意を持って見せてもらった。半世紀前、父も松蔭に対する敬意を私に教えていた。だから私自身と日本人の間にある松蔭に対する敬意は微動だにしないのだが、やはり、それ故にこそ言わなければならないことがある。

未知の人間との接触に際しての、方法、手順、作法の工夫の知恵の必要である。どうしても知る必要のあるものへの接近の工夫と、その実現の知恵である。松蔭はアメリカの黒船の船上で何と言ったのかは判らない。しかし通じなかったし、信じさせること、警戒心を解くことは出来なかった。その「知恵」が必要だったと私は思う。

「汝の国の実情を知りたい、俺は本気だ。いい加減な男ではないのだ……」、松蔭はそう言っていたのだと思う。それをペリー側に、どうすれば理解させることが出来たのだろうか。

しかし、ここで言うべきかどうかを躊躇うが、中国の哲人、孔子(こうし)は言っている、「知なき愛は、すなわち狂、知なき力は、すなわち暴」と。

孔子が難しすぎたら「一休さん」の知恵でもよい。

その配慮や知恵の欠如を私は、非難めかして言っているのではない。その必要までも、身を持って我々に教えている松蔭への敬意を、私はここで述べている積りである。

だから、男はトップ・ファッションに類するブレザーなどを着ろ、ローションを使え、英会話を習えなどとは言っていない積りである。笑われるだろうが、ただ、人に会う前には、特に、異国の要人と会う前には、日本の、この風土の中では、ともかく風呂には入って身体を流しておこうよ、と私は言っているだけのことである。

実は、これは、単に生活上の動作の問題ではなくて、日本人の精神生活面での、自分の人生の問題としても、そうした動作の認識の必要性の自覚を、強固で、新鮮で、清潔で、同時に柔軟な心の姿勢として保っているべきことだと私は思っているのだが……。

ペリーたちは、確かに「進んだ文明」を背景に日本へやってきたが、その文明は何処かの超人がアメリカで彼らに特別に与えたのではない。それは彼らが苦しみや失敗、様々な試行錯誤の上に創りあげたものであった。彼らの生活様式がスマートで合理的に見えたのは、彼らに優れた衣装センスがあったからではない。どうすれば安全で快適な生活が出来るかを工夫している中で、一寸したセンスが働いて、それらが生れたのである。一般に、民族衣装の優れた合理性はそこから来ているのだと私は思う。それを着たらその民族のように行動できるかのごとく、様々な物真似の衣裳が、最近のわが国、国内の、首都の目抜き通りに溢れるのとは話の主客が違うのである。そうした状況下でペリーたちは船で海を、太平洋、大西洋、インド洋と経巡り、渡り、瘴癘極寒の海で生き残る工夫も重ねるうちに、伝染病や風土病などで、恐らく何名かの病死者も出す経験を経て、仲間に加えて好い人間かどうかを見極める対人接触技術や未知の人物に対する衛生面での対応基準を持っていたのだと思う。

ペリーが、文明度の高いという意味での、「進んだ異人さんの世界」に育った優秀なお坊ちゃんだったわけではない。あらゆる面で生き残ること、執拗に生き延びることを弁えた男が、新しい世界との接触のために東京湾口へ来ていたのである。

 

あの時代に来航した諸外国人を、横浜で馬車に乗るためにやってきたお洒落な異人さんと見るのは間違いである。

何も工夫しなくても、と、表現するのは言いすぎだが、それなりに安全で、それなりに豊かに生きることが出来ていたのは、地球上の温帯地域に生息し、寒暖の苛酷さには、さほどは攻められず、山海の食物にも比較的恵まれた風土の中の、島国日本の人間だけである。   

日本は美しい国だと外人は言う。言う人の国にもよるが、概してその言葉は彼らの本心だと思う。日本はまた、最近でこそ飲料水の汚染が問題にされているが、元来は、天然の水をそのまま飲める国だった。境遇の、恵まれた特殊性を、地上の一般的で普通の状況と考えて組み立てる世界観は、それ自体が歪んでいるのだが、幸せに過ごしてきた者には、その幸せの意味さえ判らない。それを自覚させるのはかなり難しいことだった。犠牲者が出なければ人々はその怖さを自覚できなかったのだから。そうした状況は、実は今でも余り変っていないと私は思っている。

松蔭自身が、ペリー側が警戒しなければならない病気を持っていたとか、いなかったという問題ではなく、また、松蔭も威儀を正して行ったかもしれなかったのだが、ペリーの側から見て、その総体が、彼らの「常識的」な基準に照らして「通常」なら収容したかもしれない密航希望者とは受け取られなかったのである。松蔭の日本脱出失敗は高くついたのである。

 

 以上は、私の幼稚な想像力を基に考えてみた推測でしかないのだから、これを読んで、何と幼稚な!と感じられた方や、より一層、詳細で正確な情報をお持ちの方は、寛い心でそれをお教えいただけると有難い。

 

フランスへ発つ前に、私は小中に名古屋の広小路界隈の、とある小さな酒場で言った。俺は幸運にも外国を見てくることが出来るが、君も何とかして、局内の試験を突破して外国へ行けよ、と。日本は、二十世紀の今になってもまるで鎖国だと思うなどと私は言ったし、学習時代の専攻学科の関係で、農村調査などで社会の実態についての学問的判断を導き出す考え方に慣らされていたので、思弁の裏には、出来るだけ直接的な体験や実態の調査が必要だという当たり前のことを、当時の青年たちの状況にも当てはめて考えていたのである。

 

その留学生制度は、詳しく書くと長くなるのでここでは簡潔に記すに留めるが、昭和三十四年の秋、たまたま放送協会の社内報「ネットワーク」誌、創刊第一号の企画で「会長と語る」という記事のために、入局十年前後の若手職員十人が会長を囲む座談会に、偶々、私も呼び寄せられたのが契機だった。

 

私が参加者に選ばれたのは、その社内報の企画直前に東海地方を襲った「伊勢湾台風」の惨状を、農業番組面で報道したプロデューサーの一人だったからのようだった。

 

因みに、その台風は、最低気圧八百九十五ヘクトパスカル、最大風速七十五メートル、カテゴリー五の「スーパー・タイフーン」と後に記録されているもので、強烈な伊勢湾台風は、一夜にして死者五千人、負傷者三万九千人という深刻な人的被害をもたらしたが、農業面では、台風被害を回避するために開発されていた、新しい「早期栽培」に適した品種を用いて、台風シーズン前に刈り取りを計算して栽培していた稲の、収穫直前の田んぼが全面的に冠水し、稲には水田で、穂が発芽、所謂、「穂発芽(ほはつが)」したものがあり、数週間後には、九月末の高温の所為もあってか、水田で、立ったまま腐り、枯れてしまったものも多かった。被災農村ではまた、栽培計画が成功して、その年の稲作は巧く行きそうだったのだが、それでもタイミングとしては、将に「収穫直後」で、俵に詰めて出荷直前だった米を、家の中の、「床(とこ)の間」などに積み上げてあった処も、そうした米俵が家屋ごと、ことごとく流されてしまった家が多くあった。  

また、田畑を侵してしまったのは真水ではなくて海水だった。そのため水が引いた後には田畑に多量の塩分が残留することになる。それが、もう一つの災害だった。

来年、米が出来るのか?

稲が育つ条件は、土壌の塩分濃度が、多分.〇、一五パーセント以下(?)でなければならない。いや、具体的な数字は、今忘れてしまったが、再び多量の雨が降るか、上流から、木曾、揖斐、長良などの河川から「真水」を流しこんで、田畑を「洗わ」なければならない。風と海水によって作物とともに家屋敷も破壊され、流されたが、若しかしたら、実質的には「来年以降の米」まで流されてしまったかもしれないのだった。それを知った農業関係者たちは今日の被害に耐えるだけではなく、「明日の被害」まで背負ってしまったのだった。

 

東京から「急遽」遣ってきた、先述の「ドキュメンタリー番組の天才」吉田直哉一行には、予備の乏しい災害取材用の、我々が使っていた長靴や移動用の車まで提供した。彼は精力的に仕事をしてくれた。彼の番組の中の「ナレーション」の「骨格論理」は「海が、ここで、元の姿を取り戻した」だった。よく言ってくれた。判り易かったために、その番組は見る人たちを感動させた。然し、強調すべきポイントが、もう一歩、弱かった。

彼の「名原稿」の中では、「元の姿を取り戻した」その「海」が含む「明日、来年、あるいは、若しかしたらもっと先までの稲作の可否の、心許ない不安」にまでは触れては呉れていなかった。彼の制作した番組には、災害の、未曾有の規模を、その規模相応の「今日の」悲劇として速報してくれたことで満足すべきだったのだと、私は、そのとき思ったのだった。

 

彼が書いたナレーションは、伊豆の山を越えてきたら、沖の小島に波の寄るのが見えたという、日本の古典文学の「雄大で美しい」発想に連なる表現にさえ、私には思えた。書斎の優等生の自負と、己に対する鈍感さの麻痺した、狭い世界のエリートそのものの言葉に聞こえた。そして、被災地の者たちが一番恐れていたのは、「水の量」のみならず、自分たちを侵している「水の質」であり、「今日」も確かにそうだが、心配なのは、悠長な「古典文学鑑賞の素材」ではなくて、「明日以降」の生活であり、自分たちの人生だった……。

 

水で孤立した地域では、日が経つにつれて食料が不足してきた。役場などは、僅かに水面上に残る高台へ、そうした必需物資を、その近隣地区での、調和の採れた分配も期待して、自衛隊に依頼したヘリコプターや、組合で調達した小型のボートで運びこんでいた。しかし、被災者たちは、事態の長期化を心配して、他の集落の人たちへの分配を渋り、沖の方で孤立した集落では、自分たちの備蓄の最後のガソリン全部を使って、偶然、流されずに一艘だけ残った、焼き玉エンジンの小舟で、代表数名が役場のある高台へやってきた。

「食べるものが、もう全く無い!……」、我々を見殺す気か……と、血相を変えて村の幹部に迫る場面にも我々は居合わせた。一瞬、力ずくの、備蓄食料の強奪劇発生の殺気さえ流れたようでもあった。

録音を採りつつ、目線が遭うと、録音だと……?、こんな、生きるか死ぬかの瀬戸際で、何を悠長なことをしているのだと、水の中へ叩き込まれそうな気配さえあった。

私は持っていった、自分の昼食用の「お握り」三個を、三個ごと彼らの中の一人に渡した。

彼は私に礼を言い、「口に入(ひゃあ)るものならよ、笛でもええんだわ……」とも言った。その期に及んでも、不幸の涙の中に諧謔を忘れない、そうした農民に、私は、思わず胸が熱くなった。

家族のために「乾いた紙が欲しい」とも言った。持っていた「ちり紙」は総て渡した。首に巻いていた汗拭きのタオルやハンカチと、新しいタオルなど、その予備も渡した。未使用の、予備の原稿用紙一冊も、「揉(も)んで使うからよ!……」の言葉で渡してしまった。

 

私の、座談会への出席、召喚は、そうした深刻な被災農村を歩いて、実情を「海抜ゼロメートル地帯に生きる」という番組などを企画し、報道していた、地方局の農林水産分野担当の若手プロデューサーの一人としてであった。

 

台風災害から一年を経た、同じ「災害シーズン」にも、我々は、テレビでも「海抜ゼロメートル地帯」を提案したが、「ゼロメートル地帯」という言葉は、当時のマスコミの用語には当初は無かったと思う。

 

その番組を共に制作したのは、その台風の年の春、新入職員として配属されてきた二歳年下の同僚の安藤龍男、鵜飼満と、辣腕の先輩、霞堂宣夫氏が東京へ転勤した後を継いで、僅か二年間の経験で、その年四月に「番組デスク」に任ぜられていた二十六歳の私の三人である。私は、その三人が、あの台風の大災害の後、二十代の社会的、人道的な義務感に後押しされながら、深夜まで、あれこれと議論を繰り返し、締め切りもあったので、ある晩秋の深夜、「企画提案書」に、その呼称を、ラジオの定時番組「農村の歩み」(日曜日午後七時三十分から八時までの第二放送)の、名古屋局提案番組のタイトルとして自分が書いたのを覚えている。

 

「その言葉」は、企画が東京の提案会議を「通過」して、我々の番組を新聞に「予告発表」した時点で、ある全国紙地方本社の、確か三嶋さんという、ラジオ・テレビ欄担当の記者から、番組担当プロデューサーとしての取材記を求められる原因となった。然し、嬉しかったけれども、放送前の内容を、事前に詳述して、あたかも番組を早期流産させるようなことは私には出来なかったので、「筆力の未熟」……を訴えて、その内容の「事前吐露」を丁重に辞退した。

一方、地元の、ある民放テレビ局は、その一年後、「伊勢湾台風一周年」の、テレビ番組「海抜ゼロメートル地帯」の「新聞発表」を見てから、臆面もなく、その同じタイトルの番組を、当時の私でさえ、自分に許される予算を超えそうで実行を控えていた、ヘリコプターによる、被災地域の広範囲を捕捉する、かなりの規模の空撮まで駆使して、大急ぎで制作して、先回りして放送したりした。道義的には一種の、臆面の無い「テーマ泥棒」「タイトル泥棒」だった。然し、それは、ただカメラが、「大変だ!」「大変だ!」「大変だった!」「大変だったよ!」と叫びながら、爆音高く、デルタ地帯の被災現場をあちこちと嘗め回して大袈裟に叫ぶことに終始していて、当時の現地の素顔と災害の分析などを踏まえた本質的な問題点の正しい報告ではなかった。彼らの動作は大きかったが、災害の深刻さと、そこから生れた問題点を正確に認識した、真摯な報道番組とは思えなかった。タイトルを盗み、映像を先取りして、報告対象を取散らかしただけの、被災者たちに対する同情とか、そうした自然、社会環境の中で生きる人間としての戦いの共感も窺えないものだった。つまり、彼らには、皮相な功を焦るだけの、こちらに頷けるような、行動の「哲学」が感じられなかった。

あの人たちは「記録上の先鞭」で興奮していたようだった。ヒマラヤ最高峰の初登頂合戦でもあるまいに……。

彼ら、一部の民放のプロデューサーたちは問題にもしていなかったようだが、誰が言い出した言葉であろうと、大向うが大きく頷きそうなことは、発案者の尊重などと言った事は無視して、先に称えた者が勝ちだという、恰も、ゴールドラッシュ時代のアメリカの「西部の山師」を髣髴させる考え方が彼らの間では働いているようだった。

しかし、それは、瞬間的に大向こうを狙うだけの、子供の大立ち回りのように思えて、私は何も怖くなかったし、悔しくもなかった。

俗に言う、「抜かれた!」と言った被害者意識も、まして、「抜かれた」敗者意識もなかった。

また、我々の番組がラジオで放送された数日後には、「政府は、江東《ゼロメートル地帯》の災害対策として、東京都東部の臨海地帯の防災に熱を入れることになった……」など、と言ったニュースが、早くも、新聞の第一面や、テレビやラジオの、ヘッドラインの項目で流れるようになったのは事実である。

 

「海抜ゼロメートル地帯に生きる」……。

この種の表現は、誰でもが思い付き得ることだから、我々が、その言葉の創造、案出者だと自慢げに、臆面もなく称える積りはないが、この言葉には、我々には、我々なりの発想の経緯があった。

その頃、私は、両親と一緒に住んでいて、三重県の桑名市から電車で、朝夕、名古屋の放送局へ通っていた。その鉄道の路線、国鉄関西線は、木曽川、長良川、揖斐川の三大河川が伊勢湾に注ぐ、河口の水田地帯、濃尾平野の一角を貫いて、朝夕、満員の乗降客を乗せて走っていた。そして木曽川と長良川の下流の広大な中州地帯の弥富(やとみ)という駅には、日本の何処の駅にもあるように、駅名を示す、畳一枚ほどの、横長の白い表示板があり、駅名の傍らに、その土地の名称や歴史的な由来を簡単に示す案内表記があった。国鉄「弥富駅」のそれには、「水郷地帯」とか、「標高マイナス四メートル」などと書いてあって、関連書物には、そこが日本で標高が一番低いところにある国鉄の駅であると説明されていた。その書物には、また、一番高いところの駅は、長野県の「小海(こうみ)線」の「野辺山駅」で、標高は千三百七十五メートルであるとも書いてあった。

「弥富」一帯は、標高がマイナスであるため、その低地を河川水、海水から守るために、大河の堤防や、海岸の護岸堤防が驚くほど高く築かれているのが、その土地の特徴だった。その地方の村落を注意深く見れば、直ぐに気付くことだが、家々は石垣を築いた高台にあり、その母屋(おもや)の裏に、もう一段高く石を積んで、そに「倉」を兼ねた、現地では「水屋(みずや)」と呼ばれる二階建ての、緊急避難住宅を兼ねた倉庫があった。その「水屋」の二階には、その家の歴代の「母たち」が嫁ぐ時に持って来た、嫁入り道具の「長持(ながもち)」が、数本、埃を被って並んでいて、その土地の人間の歴史を伝える家具、什器の役割を果たしていた。そこには、また、住居地一帯が浸水、孤立した場合に備えて、家族、ほぼ十人程度の生活のために、ほぼ一か月分程度の米、味噌、醤油、副食物類、薪などが常に備蓄されており、軒には小船が、更にその地域が増水するなどした場合の、緊急脱出、及び連絡確保の手段として一艘、吊るしてあるところだった。

こうした事実を前提に、我々には、そうした生活舞台を表現する言葉を探したのだった。こもごも、「水面下」とか「海面下」という言葉も浮かんだのだが、角度を変えて考えて見ると、そうした表現では、潜水漁業の、素潜りでアワビを採る、志摩半島の、和具などの、アワビ漁の「海女さん」たちを髣髴させてしまう恐れもあった。それでは正確な描写から遠いのだが、指摘すべきは、ともかく、常に自分を取り巻く水の存在と、その恐怖を意識した生活にならざるを得ない暮らしが展開する天地の実態である。

そうした人間の自然の生活環境を安全の側面から自覚、または警告的に示す表現は時代によっても、様々に工夫され繰返されてきた。大河川の河口に近い流域の河床が、堤防の外側の田畑や住宅地よりも高いという事実から、つまり、ひとたび、川の堤防が決壊すれば、流域の村の家や田畑はたちまち水没するところに人々は住んできているのである。そのため、「家の天井よりも高いところを流れる川」として、その種の川を「天井川(てんじょうがわ)」と呼ぶ呼称が、一時期以来、新しさと、警戒、諦観などを含む言葉として唱えられてきている。私も、「人文地理」の用語として、そのことは高校時代から知っていた。

そうしたことを眼の前の事態に当てはめて、結局、その土地の特徴に関しては、端数切捨てのような考え方で、水と戦う出発点としての「高さというものがそこには無い」という意味も込めて、「ゼロ」で好いのではないかと我々は話し合った。

歴史を振り返ると、封建領主たちも苛酷であった。尾張徳川家は、対岸の美濃地方の堤防が自領を囲むそれよりも高くなることを許さなかった。そうした背景を、我々は簡潔に番組のタイトルの組み入れたかったのである。

その結果、「海抜ゼロメートル地帯に生きる」が、名古屋の広小路の、栄(さかえ)交差点の、深夜に近い閉店間際のビアホールで、枝豆を摘み、串カツを齧りながら、安藤、鵜飼、長谷川の、二十代後半の三人のプロデューサーが、額を寄せ合って合意したことで生れたタイトルだった。

 

また、私が偶然にもフランスへ行けることとなった、その留学生制度は、その様な経緯で召集された私が、東京の中央の、「殿の御前」とも知らずに、自分の希望と判断を一般化しようとして言葉にしたことに端を発していた。

私は、世界の素顔や実情を、外電や、特定の、少数の特派員の記事で推察しているだけではなく、体験的に、自分の目で冷静に見てくることが、この種の職業の青年にとっては必要と思われるという当り前のことを、一般論的な希望として言葉にしたのだった。

「……たとえば、ロンドンへ行ったり、住んだりしなければロンドンのことは本当には判らない筈ですし…」と、その座談会の席で、私は言い募った。

野村会長の表情が「真顔(まがお)」になった……(と、私には見えた)。

 

放送協会若手職員留学制度……、それは、報道取材や、番組制作要員のみならず、協会の各分野の職員の育成に関しても、そうした経験が出来るような、訓練上の配慮の必要であると、図々しくも私が自論を切り出したことが、偶然、元朝日新聞の辣腕の政治記者で、言論取材活動の大御所とも言われていた、当時の会長、野村秀雄(のむら・ひでお)氏に聴き入れられ、同氏が、それに瑞々しく反応してくれて、何と、それを、即刻、実現するのだという意味の言葉を発するところとなり、人事当局の困惑のうちに局内に、急遽、創設されたものだった。

 

衆知の通り、野村秀雄氏は、「夜討ち、朝駆け」という取材方法で、政治ニュースを迅速、正確に捕捉したことで、政治記者の辣腕の先輩として知られていた。然し、私が、その座談会で、その有名な取材方法の動機や実情を尋ねたら、野村さんは言った。

「……僕はね、気の弱い政治記者だったんだよ。有名な……、実力者の……どうしても話を聴かなければならない政治家は、威勢のよい者たちが、逸早く二重、三重に大勢で取り囲んでしまっていて、中々、近づけなかった。しかし、僕には確認したいことがあった。そうしないと記事は書けなかった。仕方がないので、夜が更けて、皆が帰ってしまうまで会える順番を待っていたよ。それでも会えないときは、翌朝、皆が未だ出て来ていない、早朝に、申し訳ないがと、その政治家の家へもう一度、出直して行ったんだ。どうしても確認したくてさ、……確認だよ。責任だものな……正確に書くことが……それだけなんだ。……《夜討ち、朝駆け》だなんて、そんな「あだ討ち」のようなことをしていたのではないよ……。」

 

野村会長は、弟か息子に昔を語るように、私の目を見て言った。その、眼鏡の奥の眼差しと、声、言葉は、その後は、そして、今も私の記憶から消えていない。そして、大袈裟なことを言えば、それ以来、私には、その野村さんの言葉が、私にだけ話してくれた言葉のように聴こえてしまって、私は、放送協会でだが、仕事上の「確認のため……」に、作業内容は、報道取材とは違ったけれども、放送協会の一職員として、「責任だから……」熱帯、酷暑瘴癘のガボン共和国や、赤道直下の、椰子やバナナの葉陰から見える南十字星だけが漆黒の闇夜の友である、インドネシア共和国の古都ジョクジャカルタなどへも単身で行ったのだった。彼は、「人間の仕事の責任」とはそんなものなのだと私に教えてくれたのだと、今でも私は思っている。

 

座談会では、私の発言に対して、「……良い考えだ。私は、《朝日》にいた頃、そのようなことを考えたことがあったが、実行までは出来なかった。然し、それは必要なことだ。うん、実現させたいものだ……」と、野村会長は言った。

 

座談会では、私は「ロンドンのことは、ロンドンに住んでみなければ判らないと思います……」と、思ったままを言っただけだった。

それなのに、単なる、一人の、白面の、二十六歳の若造である私の言葉にさえ、内容に聴くべきものがあれば正気で応えてくれた、野村会長の、心の澄明さと、その瞬間的な反射の鋭さに、私は、その人の、心の寛さと、人格的な「凄味」の一端を読んだような気持ちだった。

 

留学制度、それは、対談の中でのことだったが、そして、本当に実現するまでには若干の経緯や経過はあったが、私はその対談の二年後に、放送協会の公式の、第二期の留学生としてフランスに一年間滞在することになった。

 

放送協会が、次年度から、一年間に若手職員を十人海外へ研修留学に出すという制度を創設したのである。ただ、初年度、台風の次の年には、私のいた名古屋局は、人事部が事前に決定した派遣者選定対象管区外だったので、第一期の海外留学生は、東京からの八人と、大阪、札幌管内からの各一名だった。私は、実際には「言い出しっぺ」だったが、それは、単なる提案者だったのだから、一部の者が部内で言っていたように、私が会長に海外留学を「直訴」して、ちゃっかりとフランスへ行ったというのは事実ではない。私が留学を許されたのは、その翌年である。

 

余談だが、事実だから書くと、私は、東京での座談会に出席して、名古屋へ戻った時、職場で、呼び付けられて、上司から叱られた。

「東京人事部が怒っている……」というのである。

あのようなことを会長に直訴するような男がやってきて、実は困ったのだと東京は言い、「東京では怒っている……」と、名古屋は恐縮しているとのことだった。論客を中央へ派遣する時には、以後、気を付けて欲しいということだったようである。一種の、小役人めいた「思想チェック」の要求である。しかし、それを言った東京の人事部も人事部だが、現所属局の上司が、「東京」を恐れる、その様な卑屈な感覚だったことも、驚くべきのことのように私には思えた。私に、どうしろと言うのかと尋ねたら、派遣した私の東京での発言に関して東京に詫びるのは放送部長だから、ともかく、その「ご迷惑」の責任を負わされた放送部長に謝りに行けと言う。

変な話である。座談会の企画元が怒っているのなら、「東京」は、直接、私にその怒りを向けてくればよいのに、組織としてそのような人物を派遣したとして、「発言者」の所属部署の上長に怒りを投げつける神経が私には理解できなかった。「東京」には、知らないところに、そうした、二階で宴会だけをやっているような「官僚病患者」が居たらしいのである。

こちらとしては、座談会に入る直前、人事部の担当者は、控え室で、その「会長を囲む若手職員の座談会」という企画が不発に終ることを恐れてか、参加者には、会長に、「若さを発揮して」何を尋ねてもよいと、煽るようなことを我々に対して言っていたのだから、私は何も疚しいことはしていない積りだった。それを後になってから、「組織」に名を借りて「怒る」のは卑怯じゃないか。また、会長との座談会には、速記者が二人も居たのだから、都合が悪ければ、示し合わせて、何時でも何処でも記録は消せるものだとも私は思っていた。

然し、記録の問題ではなくて、会長の口頭の、「トップ・ダウンの」命令が実務化される動きとなってしまって、記録の削除や、その留学計画策定の業務の停止は、既に、無理だった。「東京の怒り」は「役人の泣き言」だった。

「好いでしょう、誰にでも、何処まででも説明に行きますよ。本当に良くなかったと自分で納得出来れば、勿論、私は謝ってもいいのですから……」。

そう言って、私は、直属上司と共に放送部長のところへ行った。

しかし、その時の部長は、そんな経緯には余り関心は無くて、話の「筋」、「条理」を大切に考える、「普通の」男だった。東京での顛末を、私は事実通りに簡潔に説明した。

すると、その、名古屋中央放送局の鹿児島幸治放送部長は私に言った。理性とか「冷静さ」などといった大げさなものではなくて、普通に、彼は言った。

「善いことを言ったじゃないか。元気があって宜しい。心配するな、東京とは、俺が話しておく…」と言って、彼は、それ以上は何も言わなかった。

 

どうやら、この件は、やや大袈裟に伝わってきたのが事実らしい。また、放送協会が、如何にも官僚的であることの例の様に解釈するのは誤りだと思う。  どの企業にも年度予算というものがあり、秋の半ばに、突然、新規事業が、会長の判断または命令の形で、「上から降りてきた」ために、次の春からの新年度計画として、当時窮屈だった、外貨支出を伴う計画案が唐突に、とも採れる形で出てきたことに事務当局が困惑したというのが実態だと私は思っている。その時代は、それほど外貨が日本にとって窮屈だったのだと私は解釈している。その中で、その制度を善く精力的に発足させてくれたと、寧ろ、私は実務担当者の努力に感謝しているのである。

若しかしたら、その年は、伊勢湾台風の後は、偶然、事故、災害の面で、比較的平穏な年だったので、名古屋局管内の打撃は深刻だったけれども、年度末が近づいたこともあって、災害対応のような、全般的な緊急事態のために準備していた臨時経費の未消費で済んだ分があり、その一部でも工面して、初年度の、異例の会長命令を、誠意のある柔軟性で実行してくれたのかもしれなかった。実際は、違っていたかもしれないけれど、そのように解釈して、私は、今でもあの制度の発足に感謝している。事務当事者たちも、腹には据えかねたが、遣るべきことは遣ってくれたのだと……。

 

また、あの時、名古屋の深夜のビアホールで一緒に枝豆を摘んでいた同僚で、若手後輩の「安ちゃん」こと、安藤龍男も、後年、東京へ転勤した後、その留学制度で一年間、ボン、ケルンなどの、自分のテーマに即したところを訪問先に選んで、ドイツへ留学して帰国した。彼は東京大学のドイツ文学科を出ていて、マルチン・ルターの時代のドイツ語などにも詳しく、ドイツの社会の近代化の胎動期の経緯の委細についての学識も相当なものだった。

華やかと思った放送協会へ入ったところ、何と、彼も、私と同じように、俗に言う「百姓番組」のプロデューサーが振り出しだった。しかし、彼は、それに臆することは無かったが、私もフランス農村史の「洗礼」を受けていたので、彼にはドイツ農民戦争(バウエルス・クリーゲ)の時代の、彼の地の歴史経過を思い出させて、我々は、人類文化の歴史の本筋に即して現代の日本の現場を、今、この目で見ているのだ、だから怯むな、と彼を鼓舞したものだった。

彼は後に、東京へ転任してから、精勤、努力の末に放送協会組織の中でも理事になった。私が一足先に停年となって、放送出版協会へ転じた二年後に、彼も、その出版協会へやってきたが、その時、彼は、その出版会社では社長として登場したのだった。

嘗ての後輩が、私の上司となったのだった。私は、他人事(ひとごと)ならず嬉しかった。彼の人間的な実力が判っていただけると思う。

 

然し、日本放送出版協会社長の安藤龍男は、二千七年の暮に、七十歳代の前半で、早々に逝ってしまった。彼の心の中のドラマを詳述する資料や能力は私には無いが、人生というものの流れは冷厳で、私の青春の世界の一角は、既に「蝕」に入り始めているのだとつくづく思う。

夫人への弔意と共に、彼の冥福を私は心から祈っている。

 

もう一人の後輩、鵜飼満は、中央大学法学部で民法、刑法、刑事訴訟法などを専攻した後に、放送協会に入ってきていた。最初は、プロデューサーとしてではなく、報道取材を行なう「放送記者」だった。徹底してファクトの実態を追跡する男で、また、「社会正義」に照らして物事を考える姿勢を尊重していて、その意味では「農業、農村番組」は彼には少し拍子抜けしたように感じられていたようだった。その点では、彼は意欲の不完全燃焼に悩んでも居るようだった。然し、「正義」というものは、具体的に、手に採り、目に見える形で、単独で存在するものではなく、人間の実際の様々な行動を貫く人々の姿勢とか、価値判断を行なうときの基準、いわば、裏または基礎の論理として、それぞれの場面で論じられる問題であり、それらを通して詮議の対象となるものであるから、その意味では眼の前の社会的な現実を忍耐強く凝視することが大切なのではないかと、私は先輩面をして彼を宥め、励ましたものだった。

彼も、それはよく理解していて、事実、彼は、冷静に諸現象を観察する忍耐力を具えた男だった。同時に、心に余裕も見せていて、台風の災害現場を一巡、取材して帰ったときには、被災農家のある主人が録音の中で、土地の言葉で、「家はよお、まあ、相撲場みてやあになってまってよお!(家は、台風のために吹き飛ばされて、柱が三、四本残っただけの、まるで野外相撲の土俵の様なものになってしまったので)……」と叫ぶのを聴いて、「相撲場(すもうば)」という言葉の比喩的な妙味に感じ入っていた。

彼は、その言葉に、被災農民が、自分の不幸の現実を客観視する、一種の余裕と生命力を感じると、繰り返して言った。青黒い、被災地の田んぼの泥も、未だ少しこびり付いた、収録してきた十五分ずつの小捲きの八ミリの録音テープを収めた、濃いグレーの、幾つかの、小型の金属の箱の山をいじりつつ、顔に含み笑いさえ湛えて、しきりに、その「……相撲場!」を繰返して感嘆していたのが印象的だった。

鵜飼満は、退職後は、郷里の、尾張の東部、鳴海(なるみ)で、その土地での、明治の初期の「廃仏毀釈運動」についての調査をしたりして、その地方における、宗教、信仰と政治権力の時代的変転の痕跡を検証するのを、一種の個人的な「学問的趣味」としているとのことである。

お互い、年老いて行く身だが、彼の健勝を何時までも私は祈っている。

 

さて、伊勢湾台風の二年後に、ともかく、私はフランスへ行った。ところが、先述のように、小中は東大仏文科卒なのにフランスへ行けなかった。私は、名古屋大学の経済学部出身で、経済史を選考して、農村調査の経験があったためか、農山漁村番組のプロデューサーだった。小中の目から見れば、私は、「放送局」にいてもドラマや「バラエティ」、西洋音楽や演劇の番組の演出さえしない、非芸術的なプロデューサーに見えたのかもしれなかった。私も、心の奥では、音楽に関しても、音や舞台の美学についても、充分な関心と、若干の知識も持っていたのだが、周囲の、こちらの感受性を無視した、一種、遊民的で、似非(えせ)都会的で、田園饗宴的な狭い価値観からの格付けで、私は、局内では、先輩や同輩からも「おい百姓!」と呼ばれていた。

悔しいなどと言った気持ちよりも、「放送」即ち「文化」……従って、高尚な文学、芸術、芸能、演劇……そうしたものに携わる「身分的にも自分はお前とは違う」……というニュアンスの濃厚な、ある種の「階級的、差別的な」口調で、こちらをそのように呼ぶ、その時代の老若の「似非文化人」たちが、私には、逆に、気の毒に見えた。どこか、田舎大名の閉鎖的なサロンのような社会が、外側の、現実の社会を冷静、確実に見据える力も、知識も、気構えも無いままに、自己陶酔的に内部的な運動をしている様にも思えたのだった。

社会番組の花形とされていた「時の動き」や「県民の時間」、文化的教養番組と自負される「学校放送」、「婦人の時間」、更には、劇場中継や和洋古今の音楽を取り扱い、専属の管弦楽団や女声合唱団、放送劇団の男女の集団に指示を出す「芸能番組」の担当者たちからは、言葉は悪いかも知れないけれども、一種の「知性や人間的な素養の階級意識」までも振り被られている様にさえ思えた。

私に対する呼び掛けが「おい百姓!」ではない処では、「若さ」が「未熟」と同義語に採れる、妙齢の女性の合唱団員たちからは、ソプラノやアルトの音程で、素直な蔑視の感情をこめて、無邪気に、声を揃えて「お百姓さん!」と、まるでそこに、突如、インドのカースト制度が眼の前に出現でもしたかのような雰囲気で、そう呼ばれることもあった。

しかし、私は、そんなときにも、そうした相手に向かっては、「じゃ、あんたたちは、穀(ごく)潰しの遊民かね?」といった顔をして、平気な顔をしていた。余計なことだが、人間が生きる情熱には常に敬意は抱いていたけれども、彼女らはそれぞれに、その後、どのような「幸せな」結婚生活を送ったのだろうか。ラ・ヴィタ・ルスチカーナに聞き耳を立てる余裕は私には無いけれど。

言葉は少し過激だったが、そんな場合、私は、どこかで読んだ「馬鹿は、馬鹿であることで、既に罰せられているのだ……」という言葉の意味を噛み締めていた。

 

後年、私はパリで、ある秋の午後、あの、今でもラジオの正午のニュースの後の番組で、各地の農村の様子を伝える、私も、月曜日と木曜日に、毎週二本、「名古屋ローカル」として制作していた、ディスクジョッキー番組「ひるのいこい」の、開始、終了テーマ音楽や、「お便り」の背後に流れるブリッジ音楽の作曲者で、日本の農村の雰囲気などを美しく音で描いた、稀代の民衆的大作曲家、古関祐而夫妻を、初対面の来客としてモンマルトルへ案内した。

「良き時代」の絵画、彫刻、音楽などの、様々な芸術家たちが活躍した、パリ十八区に聳えるサクレ・クールの丘や大聖堂の界隈を歩き疲れて小休止。夕暮れの、薄暗い桃色の空と、灰色の混じった紫色の霧。暮れなずむモンマルトルの坂の先の、灯りの見え始めた下町の窓や屋根を縫って流れる、セーヌ川の微かな霧を、そのテラスから一緒に眺めながら、興奮した古関氏が「これが、あのベルリオーズを育んだパリの夕暮れなのか!」と七十歳に近い、まだ少し残る髪も、既に白い頭を軽く揺さぶって、多分、涙ぐみさえして、判る人たちだけには判る、美しい、愛の心の遍歴の末に結ばれた、最愛の老夫人の肩を、残照、薄暮の下で、そっと抱くのを、石の階段に並んで、私は、横から、控え目に口数少なく、密かに見守ったことを思い出す。

そこには、あの時、名古屋で、私に向かって「お百姓さん!」と、ソプラノ、アルトで声を揃えて元気に叫んだ、私などとは無縁の、あの自己陶酔的な閉鎖社会での「歌姫たち」、名古屋放送女声合唱団「花のコーラス」の、若くて、美しくて、魅力的だった女性たちは、残念なことに一人も居てくれなかった。

 

小中が、彼、彼女らと同じ考えだったとは思えなかったが、職場の雰囲気から察すれば、その様な、自分についても鈍感と見える、口数の少ない「恥知らず」の、二歳年長の男が、自分を差し置いて、他ならぬ、パリへ行くなどというのは、世の中、間違っているとまで思っていたようだった。都会育ちの、何でも、良さそうなことは優先的に自分に廻ってきて、それが当然だと考えていたらしいお坊ちゃんには我慢できない状況のようだった。それなのに私は一年間フランスへ行くことになった。「彼の地」の言葉も、全人類に通用する、微妙な考え方のフランス語による表現も、私の方が出来るようになって帰ってくる状況になった。しかし、彼にも現実直視の感覚があって、ともかく海外の新事情、フランスの素顔についての情報や私の感想を、第一番に私から聴き出したいと真剣だった。

 

放送協会の留学制度は、一定の役割を果たしてはいたが、小中が外国へ行けなかったことについて、彼の側には何も問題はなかった。彼の勤務態度が悪かったわけではないし、制作した番組の質が悪かったからでもない。ひたすら、日本の外貨事情と、そのころ、まだ、日本では外国での経験を、一昔前に「洋行」と言って、特別の行動だと見ていたのと同じ感覚でしか評価しない雰囲気があったことが彼を阻んでいただけだと私は思っている。

 

小中や林のような、文科系だが優秀な男性にして、そのような状態だったのだが、では、意識に目覚めて、その職場を選んで採用されてきた、と思われる女性たちは如何だったか。私が自分の周囲で見ていたことだけを見てみよう。

 

そのころ名古屋の放送局には女性アナウンサーに、小中と同年輩の、立教大学の英文科を出た美女、才媛の、野際陽子(のぎわ・ようこ)がいた。容姿端麗、声の質や伸びは、勿論良かったが、同年輩で寛いで話しているときに、半ばふざけて何者かの口調を大胆に真似るときの演技が絶妙だった。

アナウンサーという職業は、一見、大切そうで、華やかで、有意義な職業と見るのが一般の考え方だった。然し、自分の考えを述べるわけでもなく、他人の書いた原稿を、読み違えを警戒しつつ真顔で読む仕事は、職業としては、当分、廃れることはないだろうが、真剣に人生を考えて生きるためには、永くは続けないほうが好いと私は思っていた。

「アナウンス」という言葉が含む、西欧社会のキリスト教文明的な原義の一つは「受胎告知(アヌンツィアチオーネ)」である。イタリアのフィレンツェには、フラ・アンジェリコが描いた、見事な「告知場面」の壁画を収めた壮麗な教会があり、その前には「アナウンス広場」とでも訳せる広場がある。

「アナウンス」……、それは、神の言葉、「真実」、「真理」、「真相」を人間に初めて告げる行為を指している。そうした「お知らせ」の作業をする人物が、本来のアナウンサーなのである。そこには、自分などは無い。「アナウンサー」は、人間ではあるが、同時に、一種の、神様の声や言葉や意思を伝達する役割を果たす「言葉の魂」の使者なのである。浅薄な思い付きを、「標準語で口にするだけの自分」を、何か特殊な、先端的で、花形的な職業人だと考えているようでいて、自他共に、その役割の本義を理解していないような日本のある種の、「肩書き倒れの」老若男女のアナウンサーの方々に、そっと申し上げたいことである。

私は、それを彼女に言った訳ではなかったが、勘の好い彼女は、私がフランスへ行っている間にさっさとアナウンサーをやめて、「自分の才覚を言葉に出来る」フリーのテレビ・タレントになっていた。私の帰国の情報を、どこかで聴いたようで、会いたいと言って来て、彼女の関西での仕事の帰途、私は留学研修のイタリア旅行の際にナポリで買ってあった、やや大きいけれども、高価なものを買う余裕も無かったので、公平に見て粗末なカメオ細工のブローチを土産に用意して、名古屋で彼女と会ったことがある。そのとき、私は、独立してやってゆくのは難しいものよ……という彼女を、努力は何時かは実ると思う、頑張れよ……と励ましたが、彼女も後に私費で単身フランスへ行った。

彼女とは、私が名古屋の「丸善」で、入局の年の暮れのボーナスでやっと買ったリンガフォンの円盤レコードを使ってフランス語を勉強したこともある。そのためか……と言うのは「こじ付け」だが、英文科を出ていたために、巧拙は別にして、彼女には外国語駆使の度胸だけはあった。その時に貸したテキストには彼女が遠慮がちに書いた細かい鉛筆の書き込みが今も残っている。その後、フランスへ行ったり、女優としての試行錯誤を繰り返したりして、彼女にも己の人生航海があった。しかし、彼女は女優であることで、日本のドラマ演出家たちにとっての、この時代のユニークで、掛替えの無い、絶妙の、珠玉の演技者(コメディエンヌ)の一人だろう。

 

私は今、ここで野際陽子を、「コメディエンヌ」と呼んでいるが、それは、「俳優」、「女優」という意味である。「コメディ」という言葉は、日本語では「自虐的な言動と題材で人を笑わせる商売」のような意味に「汚染」されているが、それは日本人の、フランス語の言葉の意味と歴史の無知から生じた、英語、フランス語の誤用である。フランスでは、ジェラール・フィリップは「コメディアン」であり、ダニエル・ダリューは「コメディエンヌ」である。そして、そのタイトル、呼び名は、客観的にも愛情と親近感と敬意を含む「尊称」である。

私の人生も残り少ないと考えて、忘れないうちに言い残しておくのだが、その野際陽子は、私にとっては「日本のダニエル・ダリュー」だった。そう言っても、今更、彼女に迷惑はかからないだろう。

そう言えば、彼女は、どこか、そのフランスの永遠の名女優、ダニエル・ダリューに似ていないだろうか。人柄も含めて……。

 

 もう一人の、同じ時期の、元女性アナウンサーで、名古屋時代に私が担当していた「趣味の園芸」というテレビ番組の、「バラの管理と楽しみ方」では、絶妙のホステスを務めてくれていて、私が、自分の名古屋時代以来の親友だと思っている、早稲田大学国文科を卒業している下重暁子は、現在は、私にとっては「エクリヴァン(作家)」である。その人間的な佇まいを手短に述べると、次の数行の通りである。

 

昭和三十七年十月下旬、私はヨーロッパからの帰途、十日間のギリシャ滞在を許された旅で、エール・フランスの南回りのジェット機で羽田へ戻ってきた。十日間のギリシャ滞在の後、私はアテネを東に向けて飛び立った。

深夜のテヘラン空港の、初めて目にするイスラム世界の生活の片鱗や砂の匂いに、何時の日かの再訪を胸に描いた。深夜の南西アジアを東に飛び、ヒマラヤの連山の、朝焼けのシルエットに感激した。夜明けの空の下は、ビルマ西部国境山岳地帯の山襞の上で、第二次世界大戦での日本人たちが苦闘したインパール作戦の修羅場の悲劇を想像させられたが、そこを飛び過ぎて、チャオプラヤー河流域の平野の上空へ入った。洪水の後のような、バンコク周辺の、青空の雲を映す水田の広がりを眺めて、思わず去年までの仕事場だった木曾川下流のデルタ地帯の被災農村の記憶が蘇ってきた。アジアへ帰ってきたのだと実感したところで、当時のヴェトナム、アメリカ軍戦闘機が爆音を轟かせて発着するサイゴンのタンソンニュェット空港のただならぬ様子が目に入った。滑走路が短いために着陸時の減速のために開いたパラシュートを機体の後ろに引きずる戦闘機の群れが、何のためにそこにいるのかをつい考えてしまった。そのあと、返還前の香港の夕景などを次に見て、そのイギリス植民地の空港を後にして北上した。香港の夕景の彼方に中国大陸南部が、濃い紫色の底へ消えていった。

数時間後、東京タワーを窓の外に見ながら、「……御覧いただきたい、あれがエッフェル塔より三メートル高い、日本の東京タワーだ」という機長の説明を聴きつつ降下した。どぎついネオンが輝くパチンコ屋や飲み屋街の連なる蒲田付近の上空を旋回して羽田の滑走路に着陸したエール・フランスのジェット機、シャトー・ド・シャンティー号の客席には、外気取り入れ口から流れ込む東京湾の、胸を突くヘドロの臭気が機内に充満した。悔しく、忌々しい自己嫌悪と隣り合わせの、懐かしい日本の現実だった。

地上へ降りて空港内に入った羽田の到着ロビーには、伊勢、桑名から態々出てきた、一年ぶりの父と母が居てくれたが、偶然、元名古屋局の、野際陽子と並ぶ、もう一人の美人アナウンサーで、現在は作家、随筆家の下重暁子(しもじゅう・あきこ)が近くにいた。目線が遇って、貴方じゃないの迎えに来たのは、と正直に、しかし、彼女らしい強靭な知性を、その細身の身体に包んだまま、照れくさそうに言ったが、そのころ彼女は、然る有名若手音楽家との噂があるとのことだった。海外について、そこを経巡ってきた青年音楽家を通して、彼女も「世界」を知ろうとしていたように、私には思えた。彼女も青春多忙だったのだ。

 

彼女は、後に、一つの経緯の後、エジプトのカイロにも住んで、「コーランの聴こえる国で……」といった、自らの異文化体験を纏めた本を書いている。

 

私自身は、恵比寿の親戚へ一泊して、翌日、東京の人事部へ帰国挨拶した後、午後、渋谷の東横線の駅で小中を待った。とめどなく流れ出る乗客の人の波に辟易しながら、危うく今日は何の祭りなのだと尋ねそうになって、哂われるのを辛うじてこらえた。

パリはどうだったか、フランスはどうなのだ、と矢継ぎ早に尋ねるのだが、関心の幅が広すぎて質問の範囲や意図が判らない。気持ちは十分に判ったが、即答が親切な返事だとも思えなかった。まあボツボツ話すよと言って雑談になった。そのころ日本では、坂本九(さかもと・きゅう)が唄う「遠くへ行きたい」という歌が流行していたが、遠くだけでは何をしたいのか判らんじゃないか、俺は遠くから帰って来たが、遠くというだけでは、そこには何も無いぞ。自分は今何をしているのか、そして、出かける目的とその目的を達成する覚悟と能力の自覚がなければ意味がないぞと言ったら、行ってきた者は暢気なことを言うよと切り替えしてきた。いや、漠然と行くだけでも意味はあるというようなことを言っていたが、発見の意慾と問題意識がなければ無駄だし、駄目だと、私は賛成しなかった。私の実感だった。

 

私は、パリでのフランス語の確認的な再研修の後、特に選んだノルマンディのカン大学の法学部で、自由聴講生として、どの授業でも担当教授に依願すれば聴講できると法学部長の許可を得ていたのだが、講義の聴講に出てみた結果、正直に言って、私は自分の力の至らなさ、悔しいから言い換えるが、決定的な準備不足を痛感していた。フランス語の講義が殆んど判らないのである。その、フランス語が聴き取れないのである。このまま時が流れれば私は殆んど何も学ばずに日本へ帰ることになり、その経緯を告白しても、日本では、既にその失敗が大変有意義な経験だったと言わぬばかりに賞賛されそうだった。それでも、カン大学の教室では、フランス語の能率的な、普通の、巧みな言い回しよりも、学問上の共通言語になっているような言葉、経済史の叙述に用いられることの多いフランス語の単語や言葉を頼りに、私は辛うじて講義をフォロウしていた。そして、そうした心許ない「心の聴覚」に頼りつつも、私には、何故か浄福感があった。

ノルマンディの農村を育み、フランスという国の、この一角を歴史の中で駆動させてきた生産活動の実態と同時に、この土地に展開してきた社会慣行や制度を私は知りたかった。フランス農村史のバイブル的存在だったマルク・ブロック教授の「フランス農村史の本質的特性Les caractères originaux de l’Histoire Rurales Française」(「フランス農村史の基本性格」として日本の学界で喧伝されている)という本も、辞書を一冊読み潰すほど引きに引いて、その本意の理解に務めた。日本の農村の、封建領主に支配されつつも農村の内側で蓄積してきた生産力の向上の累積と、それを、時代を重ねながら高め続けてきた日本の農村の制度や慣行システムと、フランス革命に至る歴史経過の中の、かの国の農村での具体的な歴史展開との共通点と相違点を私は知りたかったのである。

つまり、遂には人類史上の一大事件として、「王者」ではなく、努力し、目覚めた民衆の個々人が、社会の本当の主であることに気付き、自覚し、叫ぶ、フランス大革命として歴史が動くことになった一つの現場、底辺を、フランスで、実際に見て、その舞台の構造について知りたかった。それを通して、人間が土に働きかけて生活し、社会を造り、その社会という、多数の人間の集団が展開する社会活動の特徴の東西比較を試みたかった。

しかし、そのためには、私には膨大な準備が必要だった。充分な言語駆使能力、この国の歴史、地方史、社会制度史、法制史、物理学、化学、生物学、動物学、植物学、一般の農業史、農業技術史、この国の政治史、経済史、更に、この社会での、日本とは異なる、麦以外にも、羊やチーズやワインなどが「献上」または「収奪」される、「年貢」としての「生産物地代」の様態や構造など、など……二年や三年では学び尽くせない数々の知的技術である。

そして、私は事実、ノルマンディで、そこでの農業活動に関連した歴史経過を説く講義を聴き、実際に、現地の数人の農協の組合長とも知り合いになり、パリの中央官庁の高官との接見の機会も僅かに得て、何とか漠然とその分野を理解し、ほんの少しその土地の素顔を観察して、今、帰ってきましたと言って職場へ戻った。留学と言っても、言語の習得に大半の時間を費やさざるを得なかった私のノルマンディでの生活で判ったと思っていることは、距離を置いて冷静に見れば、ほんの、ミルクの皮のような程度のことでしかなかった。そして、また、その事を特に重視もしない放送協会では、私は、「フランス帰り」という、「能力」をある程度認められて過ごしてきた。

正直に言えば、誤解も甚だしいし、情熱の生殺しである。それなのに私は、それでヌケヌケと生きてきてしまった。企業組織というものの中で生きている者の「留学」とは、そのようなものかもしれないが、素朴で、正直な者にとっては、精神衛生的には気味の悪いものである。

そして、もう一段、正直に言えば、それ以後、自己嫌悪と情熱の不完全燃焼の、自己責任の不成就者として、一種、罪の意識の中で生きてきてしまった。その種の行為は、「世間知」を振りかざして、一定の歩留まりを前提に考えても好い……などとという場合もあるそうだが、そうしたことは、自分には許し難いものなのだ。

 

軽率だった私が、もし、その、自分が抱いたと思っている情熱に、本当に真剣に取り組みたいならば、それも出来ないことではなかった。まず、放送協会へ心境の変化を伝える。留学経費相当分期間の勤務を求めてくるかもしれないが、人事も切迫しているとして辞職を認めるだろう。私は職場を辞める。後をどうするか。大学の母校の教授に相談するか、自分の関心に、より密接した機関、フランスでも日本でも研究継続可能なところを探す。生活をどうするか。もう一度親に泣きついて、何とか稼げるまでの援助を頼む。あるいは、何かの奨学金とか、その時点で出来る内職を探す……。

それら全ての作業を私はしなかった。

幸運な留学帰りとして、真面目にだが、自分の心の叫びを聴きながらも、判っている、判っていると、心に、無責任に応えながら日々を過ごした。そんな形で、私は自分の生活の情熱を葬ってしまった。それ以後、私は、自分に対する裏切り者だと考えて、己に対する侮蔑とともに今まで生きてきている。誰にも言えない、自分の罪悪感を抱き続けて……。私は、自分に情熱があるような振りをし続けるサラリーマンに過ぎなかった。その時点で、私は自分の青春を絞め殺してしまったのである。サラリーマンとしての生活の安逸に屈してしまったのである。悪かったのは、私自身だった。

いや、サラリーマンと言っても、それ以後の担当業務には、テレビの衛星中継による、放送素材の送受信という、電気的信号の国際的授受などの仕事もあったから、在来の「古典的な」業務執行メニュにないことの連続だった。評価をしてくれる者も居なかった。多分、測定の物指しがなかったのである。昼夜の区別はなかったし、作業の相手は、主として欧米人だが、異文化人には違いないので神経の疲労もかなりなものだった。いや、それに加えて、その種の作業に関係する場面での、日本側の者たちとの交流、接触も神経を逆なでするものだった。羨望と、蔑視と、懐柔と、利用と放棄の、要するに、遣らせておいて、無責任な感想と判断で、成果だけを横取りしてゆく者たちの中で過ごしていたのだった。彼らは自分が手にした放送素材が、今、自分の手の届くところにある、その事態の経緯を正確には全く判っていなかった、「立場の利点」でそれがあること以上に、それをそこへ齎した、私に対する、感謝ではなくても、少なくとも友情くらいを示す余裕も持っていなかった。私にとっては、時間と体力の過剰消耗、俗に言う単なる「配達屋」とのみ解釈される「貧乏くじ」のまま歳月が流れてしまったのである。

その彼らが、実際に誰々であったかは、私の記憶には鮮明に残っているが、私はそれをここに書くほどの心の狭い、寂しい人間ではないので何も言わずに措く。恐らく、将来も口にはしないだろう。ただ、私だって、その種の「評価」は、本当は欲しかった。しかし、評価できる人物がいなかった。私もまた、知らぬ間に、別の面で、その種の「ご恩」、恩恵を蒙っていることは大いにありうるのである。その意味では、そうした消耗は、先端を歩く者の快感だけが自分の孤独な喜びだった。

しかし、それも、今思い返してみれば、私は、人生の流れの中の、稀な幸運な部分を、当たり前のことと考えて、賢(さか)しらに苦情を並べているに過ぎない。

然し、また、あるとき、私は一つの幸運に恵まれた。いや、幸運という言い方はいけない。一人の先輩、一人の上司に恵まれた。私の、放送協会での生活の末期、ラジオの短波放送で「日本の声」として世界各国向けに二十数言語で放送する、国際放送の責任者の一人を務めたときのことである。

それまでに私は、ノルマンディへ行った、最初の留学から帰り、東京オリンピックも過ぎて、私が東京の政治経済番組部へ転じた後、留学から十数年後に、私は、パリのヨーロッパ総局へ特派員として転勤になった。そこでは、取材記者には、共に今は他界して、もう居ない、経済担当の木村千旗、政治、社会担当の二見道雄たちが記者として活躍していた頃だった。東京からパリへ、新任でやってくる若い記者も、意慾に溢れる、優秀な記者たちだった。自慢や、「贔屓の引き倒し」で言っているのではなくて、放送協会は、受信者、つまり国民の負託と期待に充分に応えていたと私は証言できる。航空機にハイジャックが頻発し、記者もカメラマンも、その種の事件にも振り回され、ロンドン、ボン、ブリュッセル、ジュネーヴ、ローマ、ベイルート、カイロなどの特派員たちが各地を駆け回った時代だった。仲間それぞれの名前までは、ここには挙げないが、他にも番組の企画、制作に当たるプロデューサーやカメラマンも多忙を極めていた。私は、テレビジョン信号の国際間伝送システムの組み立てを専門とする、当時の言葉で、「サテライト・コーディネーター」だったので、フランス放送協会や、ジュネーヴに本部があり、ブリュッセルに技術調整センターのあるヨーロッパ放送連合との連絡、連携が大きな仕事だった。そして、それが、後に国際局へ転じた後の、「国際放送ラジオ・ジャパン」の世界的受信改善の作業にも、システムの知識と人脈の両面で非常に役に立った。

思い返せば、あるとき、私は、勿論、真剣に書いたのだが、その、かなり複雑で、込み入った報告書を、「部下の汗」として誠実に読んでくれる上司が居た。私が、国際局の欧米部の、フランス語・イタリア語班の班長を務めていたときに、私を、「まあ、出来ねえだろうが……」と、欧米部長に任用してくれた、木村鍈一(えいいち)国際局長である。

 

私は、その頃、赤道直下の、西アフリカの国、ガボン共和国へ行って、相手国の関係者と、日本を代表して、外務省の市岡参事官、郵政省の大井放送技術課長らと共に、現地の日本大使館の要員の協力も得て、その国にある送信設備を賃借して、日本の国際放送の、地球上の、その地点から良好な状態で到達可能な、ヨーロッパ各地や、南米地域など向けの送信を行なう同意を得る交渉に当ったことがある。相手は、ボンゴ大統領の縁者と伝えられ、辣腕の貴公子とも言われていた、国営「アフリカ・ナンバーワン」短波放送局のピエール・ムヴラ会長と、その関係者だった。また、フランスからも、この種の作業の運営の補佐として、バルビエ・デ・クローズという能吏が、関係機関から国際協力要員としてガボン共和国へ来ていて、我々に対しても現地の案内役などを引き受けてくれた。

バルビエは、後に、私がジャワへ行っていた頃、カリブ海の、ある島国から、突然、電話してきて、日本の衛星通信機器や施設の優秀性、安定性を讃え、その種の日本のメーカーの、機器の専門家の紹介を私に依頼してきた。その長距離電話で、俺はカリブ海、君はジャワか……、お互いにガボンは遠くなったな、と話したのを思い出す。この種の作業では、結局、私は、インドネシアの放送の近代化に関しては、歌舞伎の舞台で言えば、一種の「黒子」だったのだが、そう言えば、バルビエは、「黒子」の私のカウンター・パートだったことになる。

その施設は、ガボン共和国の南東部の、隣国コンゴ共和国との国境近くにあり、その近くの、熱帯雨林の奥の、赤土のサヴァンナ台地の、モヤビという所に、フランスが、いわばODA(公的開発援助)としてその国に供与していたものだったので、フランスは、東経十三度、南緯二度付近にある、その、三百キロワットの送信機四台からなる高出力の大送信施設の、第三国による賃借、利用によって自国の利益を損ねる恐れのあることには非常に神経質だった。

 

因みに、その送信所の威力は絶大で、私が、各地での受信状態を調べるための「発局確認信号」の積りで、東京で作成して、ガボンへ持っていって渡してきた、東京の、女性の、当時、若手だった、目方頼子(めかた・よりこ)アナウンサーが爽やかに読み上げてくれた、日本語を始めとする、各国から招いてあった、英、独、仏、伊、西、葡など、数ヶ国からの報道専門家のそれぞれの母国語による「こちらは、西アフリカ、ガボンにある、モヤビ送信所です……」という「発局アナウンス」を繰返しつつ、日本民謡のメロディーを時間的に等間隔に収録した音声信号は、北半球北部にある、パリ北郊ロワシーの広大な平坦地に展開するシャルル・ドゴール空港の待合室でも、また、緯度、経度で見ると、地球のほぼ裏側に近い位置に当る、鎌倉の私の自宅ででも、予定された時刻には明瞭に受信できた。

余談で、後日譚だが、五十五歳の頃、二年後の停年を前にして、私は、インドネシアのジャワ島のジャクジャカルタへ、国際協力事業で単身赴任していたとき、日本の大晦日から新年にかけての時刻に、短波受信機を二台用意して、それぞれを、日本の茨城県にあるKDDの八俣(やまた)送信所発信と、アフリカのモヤビ送信所発信の、それぞれの周波数に合わせ、その二台のラジオを、赤道直下の我が家の広間の左右の壁面に配置して、ふざけたことを言えば、「紅白歌合戦」を、「国際的、地球的なステレオ」で、独りで聴いて、「ジャワの孤独」を自ら慰めたこともあった。西アフリカ、モヤビ発の「ラジオ日本」は、終始、健在だった。

ガボンからは、東京のNHKを発局とした、KDDの山口衛星通信所経由の衛星伝送で放送素材が、リーブルヴィル経由でモヤビに送られた番組が放送されるので、東京からの、その音声信号は、ガボンのアンテナから発信されるときには、インテルサットのインド洋上の、高度三万六千キロの宇宙空間で作動する通信衛星を往復経由する、少なくとも一秒と少々の時間的なズレが生じるため、日本からと、ガボンからの信号を個別に捉える左右の受信機からは、その素材伝送のズレの分だけ時間差のある放送が聴こえてきた。そのため、それは、遥か故国からの放送であるという、一種、宇宙的であり、地球的でもある「幽玄な」心理的効果を、面白く私に与えるものでもあった。それは、ベンジャミン・フランクリンが、嵐の空に凧を揚げて、大気中の空電現象を確めたのにも似た嬉しい実験だった。

 

ガボンでの送信施設の国際的な賃借に関して、表向きは、ガボン共和国という一つの独立国が、自国「所有」の施設を第三国との正常な交渉によって、その友好国、例えば日本に貸すのは「正常な」行為だった。だから我々は自由にガボン側と折衝すればよかったのだが、それでも、やはり、我々としては、わが国と、その施設の国際的な供与国であるフランス共和国との友好にも配慮しなければならない。そこで、我々は、ガボンへ向う途上、パリでもフランス放送協会の関係者から、この件についての了承は採ってあったが、その国に、圧倒的な影響力を持つフランス外務省の、最前線の関係者とも友好、平和的な話し合いをしておく必要があった。

ガボン共和国にあるフランス大使館は、ギニア湾に面した、文字通り赤道直下の首都リーブルヴィルの、白砂の、椰子の木も立ち並ぶ浜を背にした景勝地とも言える一角にあった。そして大使館の玄関脇には、道路に面して、装飾と、建物保護と不法侵入阻止とを兼ねた巨大な岩石が据えつけてあった。それは日本の感覚で言うと、一種の石碑であって、その表面には大きな文字列が刻んであった。Aux Français morts au Gabon.(「ガボンに死せるフランス人たちのために」)と読めた。そこは日本の野口英世が、あのドイツ人医師シュヴァィツァー博士と共に、黄熱病の研究で若い医師としての情熱を燃焼させたところでもあった。酷暑瘴癘(こくしょ・しょうれい)の土地なのである。その土地は、そこへ出かけていって、喩え自分の野心のためとは言え、フランス共和国の、結果的には「尊厳」のために死んだフランス人も多かったことを物語っている。意図はともかく、結果的にはフランスのために死んだと、その同胞を遇して、その心を国家的機関の建造物に、哀悼の言葉として残しているフランス共和国の人間たちの篤い心が私には判った気がしたのである。

搭乗機が、南仏のニース空港で最終的な、長距離飛行に備えた、早朝の、最大限の給油の後、地中海と、アルジェリアと、熱砂の大サハラ砂漠の上空を、ほぼ一日掛けて南下して、その日の夕方、文字どおりの「熱帯夜」が始まった頃に、やっと大西洋岸のギニア湾奥に出るのだが、その地点の都市の一つにガボン共和国の首都リーブルヴィルがある。航空便の本数も多くは無い。

それなのに、旅行日程が長過ぎるのではないか、パリに……あの面白そうなことが山のようにあると言われるパリに、そんなに長く滞在したり、何度も行ったりする必要があるのか、取材、交渉のための前渡金が多過ぎるのではないか、精算が正しいのかなどと、性悪説で想像できる限りの、まるで、それを言う人物の心の中を物語るような、視野狭窄的な、嫉妬のような猜疑心で「出張者」を眺める故国の男女の「同僚」と、つい、その心根を較べてしまうくらい私の胸は熱くなっていた。

熱帯アフリカの、何処までも続くようなジャングルの上空を、日が落ちて、尚、ひたすら目的地の空港の、オレンジ色に滑走路に沿って輝いている筈の照明標識と、その脇に拡がっている筈の小さな都市の、慎ましい明かりを求めて飛び続ける、数トンのジュラルミンの塊りに命を託して移動しながら、自分で操縦していたわけではないのだが、あの、対流圏を、母港からのモールス信号だけを僅かな情報の対話の相手として、有視界飛行で飛んでいた時代のサン・テグジュペリの心にも浮かんだと思われる世界を想像し、それを体験できる自分の幸せと、その直ぐ下にあるかもしれない、多分、密林に呑み込まれて、遺体の収容さえ出来ない一瞬の破局の恐怖とは、朝夕のタイムレコーダーの打刻に挟まれて一日が過ぎて行く人たちの人生では絶対に判らないものかもしれなかった。

私は、そんなときでも、故国の友人たちの、哀れとも同情すべき、独断的で、狭隘な精神世界での人間理解に関しては、心の中では、もう「孤独」を感じていなかった。

「肉体的にも、精神的にも、本当の困難を知らずに済むことで、幾多の実際的な恐怖や苦痛を知らないまま、その自分の幸せの意味を知らずに済む人は、常に居るものなのだ……」と、私は自分に言いきかせていた。そうした精神的消耗は、人によっては苦痛となるが、人によっては、常にある種の勉強にもなると、私は思うことにしていた。

 

こんなことを書くと、私が自分を大作家に、無理やり擬える不逞の輩と採られるかも知れないが、そんな体験を通して、私は、アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリが、あの「人間の土地」や「南方郵便機」、「夜間飛行」などを書いた気持ちが判ったと思っているのである。

「ル・プチ・プランス」を、捏造的に「《星の王子さま》」などと「異訳」して、彼の魂をペットもどきに弄んで荒稼ぎする日本の出版マスコミ関係者や、「大先生」たちには、余計なことかも知れないけれども、フランス語の単語や文法の解釈の奥に流れる彼、アントワーヌの心が何処まで判っているのだろうかと私は密かに思うことがある。また、あの「王子さま」には、実は、兄が居るのだと言ったら、そうだと判ってくれる人は何人居るだろうか?

 また、あの、私が、やや意地悪く「表題捏造訳本」と呼ぶ、あの本には、随分初歩的なところに数箇所、誤訳もあると、然る、「日仏協会」で言ったら、その先生を識っていて、愛し、尊敬して止まないという、「信者」の様な、「仏文科を出た」不幸な女性から「じゃあ直せばよいのよ!」と言い返され、狂信的に、激しく非難、罵倒されたけれども、直せば好いと言った問題ではなくて、そんな基礎的なことさえ判っていないことが問題なのだと言ったら泣き出した。私は何も彼女から彼女自身の精神的疲労の自慢話を聞きたいわけではなかったのだけれども。

あの「立派な訳本」では、「エンジンle moteur」のことを「モーター」(昭和三十八年十一月三十日、第五刷発行とされる本の十ページ、第二章)、「故障la panne」のことを「パンク」(同前)と訳しているなど、当時の「文科系大学者」の、現代人には不可欠な、機械工学など現代社会全般に関する知識の、初歩的で、悲劇的で、致命的な無知が想像できる。他にも、一人だけで、自分の小惑星に君臨する「小さな星の王様」の台詞の邦訳も辻褄が会わないが、それは、ある意味では「原著者」サン・テグジュペリに対する深刻な冒涜ではないだろうか。

また、飛行機に取り付けてある駆動用の機器はエンジンであり、その故障は、決してパンクとは言わないことは、その書籍の編集者には判った筈だと私は思う。その意味では、訳者の先生、勢い込んで翻訳出版に挑んだ大先生にとっても不幸なことだったと私は思っている。

「大先生」は、大往生されて、もう、おいでにならないし、愛弟子を任じる彼女からは、未だ、その「訂正版」は届いていない。

 

そうした経緯の中で、我々は、灼熱、熱帯の、黄熱病の予防注射なしには出かけることの出来ない、灼熱の土地、ガボン共和国にある、フランス大使館の領事と交渉した。その領事は、精悍だが、小柄な男だった。まるで、インドシナやモロッコ、アルジェリアの戦線を渡り歩いて自らを鍛えてきたような、意志の強そうな、眼光鋭い、小柄なフランス人だった。日本がなさることには、我々はとやかく言える立場にはありません。しかし、あなた方を国際社会の、ある意味の競争者と考えた場合には、わが国が営々と築いてきたこの場所の便益を利用して、言葉は悪いかもしれませんが、正直にいって、無神経な競争者によって、我々の友情の相手の領域と思っているところへも無神経に踏み込まれるようなことになり得る事態には、出先の責任者として、どんな気持ちであるかを察して欲しいのです、と彼は、自分をさらけ出して率直に言った。勿論、人間は自由です。我々は自由を尊重しています。然し、気持ちだけは聴いて下さい。彼は、そう言った。それは、意地悪な邪魔立てや嫌味ではなかった。何故、それを黙過したのかと、辣腕の彼自身が、パリから激しく叱られる可能性もあったかもしれないのだった。

我々がアラビア語の番組もそこから近隣諸国向けに放送したいと言っていたことが、特に気になったらしい。長い年月と、多くの犠牲も払って、折角、自分たちが築き上げた、信頼と友情の舞台であるアフリカ・アラブ圏に向けての、日本人たちによる放送を警戒している様にも採れた。

私は、即座に、いや我々は、レマルクの有名な小説の、「西部戦線異状なし(イム・ヴェステン・ニヒツ・ノイエス)」の様なことを実施する積りはありませんと言った。それは、第一次世界大戦中の、嘗てのドイツの出先機関の、中央政府向けの報告を揶揄的にキャッチフレーズ化したものであり、当時のドイツ国内の話だったけれども、事実を正しく伝えない行為を表わす例を意味する言葉としては、官僚が惰性的に仕事をするような社会なら、日本ででも勿論、また、時代の如何を問わず、何時でも、人間社会ならば、何処にでもありうる話であった。つまり、話を拡げれば、国際放送という言葉に、下世話、通念的に付き纏っている様な、無神経な謀略放送とか、中国の古典で「四面楚歌」と呼ばれている戦略的な偽計、政略的なフェイントを、人間には行う可能性は大いにあることである。そして、我々も、それを疑われても仕方がない状況だった。そのため、私は、先方の「信用」を得るためには、敢えて言葉を重ねざるを得なかった。我々は、その種の、一種の意図的な国際的作為を行なう意図は持っていない。アラビア語であろうと、スワヒリ語であろうと、そして、将来的には、ハウサ語の放送など、どの地域、どの国の言語を用いるのであっても、ここからも、国際的な相互理解を維持、促進するための、真実の報道を、「地球市民(シトワイヤン・プラネテール)日本人」として放送する積りなのです、また、不幸にして予知された場合には、受信地域の人たちの安全のための、噴火や、有害火山ガスの噴出、津波や、その他の自然災害、また、この時代なら、不幸にして在りうるかもしれない「衛星落下」や、常にある「流星落下」の危険情報も入手すれば直ぐにも出せますと、彼の目を見つめて私は言い切った。

「シトワイヤン・プラネテール(地球市民)の義務を果たすのです……」と私が、特に言葉に力を入れて、繰返して言ったのは、やや教科書的な台詞だったが、それは本心だった。それでも、猜疑心のある人からは、盗人は、常に、言い訳を用意していると言われてしまえば、それでも効果の無い説明だったかもしれない。然し、我々は決して盗人ではないのだし、私は、黙っている訳には行かなかった。

すると、彼は、黙ってこちらの説明を聴いていたが、扇風機が鈍く音を立てて廻り続ける、赤道直下の大使館の応接室の机の脇で、やがて、固く、暫く、私の手を握り、ややあって、静かに、「私は、言いたい事は、貴方に言いました」と言ってくれた。私も、彼の青い目を見つめながら、黙って、その手を、こちらの両手で、力一杯、握り返した。

「判っている」、「判ってくれて有難う」……それら総ての気持ちを込めて。

それは外交交渉などというものではなかった。一つの行動に関する、人間同士の話し合いだった。

日本とフランス共和国、日本とガボン共和国という、重複する二国間の作法に関してはリーブルヴィルの日本大使館や東京の外務省などの外交専門家たちには、熱心で精力的な作業を通して、当時の国家元首ボンゴ大統領を日本へ招待するなど、外交実務の面では、多大の世話にもなったのだが、その結果……道義的にも、我々は、その施設の賃借利用が出来るようになった。

 

木村局長はその報告書を仔細に読んでくれた。

……そうか、彼らはアラビヤ語の放送に、そんなに敏感なのだ、と。

そして、その時に、私がフランス人高官と交わした言葉を、了解したという様な意味の態度を見せてくれた。

 

私は、フランス人にも、木村局長にも、それを言って良かったと思ったのだった。感傷的かもしれないが、私の心身の疲労や不満は、不思議なことに、その局長の態度で一挙に消えたような気持ちになったのだった。

 

フランスへは、東京大学をはじめ、日本各地から「仏文の英才」が主にパリへやってきた。そこでは、彼らは、自分で問題を発見し、指導を受けたり、議論の相手になってもらえる人物を発見できたりした時は幸せとして、二、三年程度で帰国していった。その中には、留学帰りという、自分にだけ判っている不成就感を押し殺してこの国で生きている人物もいるだろう。また、ぬけぬけと、彼の国の文明を征服、理解してきましたと公言して憚らない者も、さぞ多いのではないかと想像している。いや、私自身、定年後の、第二の職場で、フランス語のテキストの制作業務に関連して、実際にそうした人物の何人かにも出会った。自分を知る者は自分である。そうした自分を隠して、自らの破廉恥に気付くことなく暮らしている者も相当数居るのではないか。

話は跳ぶが、中国から、奈良の唐招提寺へ苦難の末に来てくれた鑑人和上に思いが及ぶ。彼を招いた大和政権の本心は仏道礼賛を口でだけ称える、当時、増えすぎた、仏道者の真贋の鑑定にあったという。仏道を称えれば国家が、それだけで抱えてくれる時代だった。その種の者が、生活の安定を求めて群がり寄ってきたために奈良の官庁の財政が危うくなったという。そうした人物たちの真贋を確かめ直す必要があったという。その種の、人物の真贋鑑定を、現代の「洋行帰り」に当てはめている機関は今のところ日本では何処にもない。フランスは一つの例だが、「外国留学」の人間的真贋の判定を行うところは何処にもないのである。成果や、効果の薄い「留学」は、錯覚の横行のまま野放しなのである。

冗談じゃない! 

行けば何とかなるものさという勇敢な姿勢の足の下に待っている、この問題は、今でも日本人旅行者とか留学希望者にそのまま差し上げたいと私は思っている。いや、勇ましいだけの、個人、個別の渡航希望者だけではなく、国民が知らない間に、政府官庁や有力私企業などから「研修」に出される「エリート」たちにも。

喩え、行って、見ているうちに激しく、深く、大きく目覚めることはあり得たとしても……。つまり、超絶的な天才が何時現れるかもしれないという謙虚さを、常に考慮したとしても、である。理窟の問題ではない。後は、現実は、それを行った人間の、自分の責任である。

 

時間は前後するが、私がフランスから帰った、数日後、未だ、任地名古屋へ戻らず、東京にいたときに、小中は、小さな劇場のようなところへ私を連れて行ってくれた。最先端のアーティストと言われているという混血の小柄な青年が、仔細ありげに何やら首を傾げたりしながら声を出すと喝采が起こっていたが、何に感激して皆があのように叫ぶのかが私には判らなかった。アメリカの芸能人の模倣のようだった。自分は田舎者なのだろうと思ったが、借り物、お仕着せの興奮には、やはり付いてゆけなかった。

私は、田舎のプロデューサーという位置付けなのか、入局して七年経っても、そして、フランスへ留学してきても、元通り名古屋の放送部へ帰って行くことになっていた。しかし、東大や慶応といった東京の大学を出た者たちは、それ自体は滑稽な現象だが、あたかも「本丸の侍」であるかのごとく、二、三年の「地方」勤務で東京へ「帰って」いった。小中も東京の芸能局へ「帰って」いた。どうでも好いことだが、当時、特にアナウンサーの世界では、「地方勤務」から東京へ転じてくる仲間に、「お帰りなさい」という、知性を疑いたくなる様な挨拶が当たり前のように行われていた。自分たちを「何様」と思っているのか、また、自分が生かされているこの国の社会や文化の背景を、鈍感、無頼の網元が「漁場」とでも呼ぶかのごとく振舞っていた。自らが蒔いた傲慢の種は、いずれ自分で刈り取らなければならないことは、その後、判った筈である。

 

十月に帰国した私は、籍は報道部、仕事は教養部という変則的な身分で、ほぼ十ヶ月間、名古屋局で過ごした。しかし、日本が経済復興の成果により国際的な競技大会を主催できるようになったことを世界に示すという「東京オリンピック」の取材放送態勢が組織され、外国語を駆使できる要員が必要となり、社会部の末端の語学要員として駆り出された。私は、身分は報道局政治経済番組部員だったが、その時期が近づくと、私は「語学担当」という、意味不明の外国語要員として、代々木公園内のオリンピック村に設置された前線基地の取材要員の一人になった。

東京オリンピックの、競泳女子百メートル背泳決勝戦では、フランスのクリスチーヌ・キャロン選手が本命視されていて、優勝した場合にはテレビの生中継で彼女にインタヴュするために、私はプールサイドで待機していたが、キャロンはコンマ二秒差で、アメリカのキャシー・ファーガソン選手に破れた。

放送はされなかったが、私が、念のためにと収録インタヴュしたら、彼女は、髪がまだ濡れたままの姿で応えてくれた。「頑張りましたね、感想は如何ですか」、「率直に言って、優勝できなくて残念です。しかし、私は全力で泳ぎました。満足です」と。私が「それでも二位だし、トリコロール(フランスの国旗)がセンター・ポールに揚がったから立派じゃないですか」と言ったら、彼女は意外な問いと思ったのか「それは結果です」とだけ言った。祖国の代表という意識は、希薄に感じられた。「次のモントリオールを狙いますか」と尋ねたら、尚更、意外な問いと思ったのか、周囲を、目で監督の女性を探しながら、「そんなこと、判りません」とだけ応えた。次の四年間に、どのような選手が生れてくるのかも判らないのに、つまり、自分が再び選手に選ばれるかどうかも判らないのに、次の開催地の名を挙げて、スター気取りで、次こそは、とか、次もまたと、競技を私物化したような言葉を平然と口にする、一時期の、女子柔道など一部の無神経な日本人選手との差を実感させられた。クリスチーヌ・キャロンは謙虚な、普通のフランス娘だった。そして私は、多分、変なことを尋ねる日本人だったと思う。唐突な喩えだが、上海、南京、重慶……と、他人の国の泥沼に踏み入るような、冷静さを忘れた日本の、つい最近の軍事行動を、私は、ふと思い出していた。

 

当時、教育テレビには午後八時台に「教養特集」という定時枠があって、私も何本か企画提案して制作したが、あるとき、友人が「世界と平和」に関する番組を企画して出演者の一人として小田実を招いた。私はその番組のFD(フロア・ディレクター)を勤めた。小田とは、そのときが初対面だった。小田が出演すると聞いて、小中もそのスタジオへ来て、番組終了後、三人で新橋の烏森へ呑みに行った。

小田はギリシャ文学専攻という理由で、フルブライト基金による留学生としてアメリカへ行ってきた青年だった。彼は自分の二年間のアメリカ滞在や、帰途のヨーロッパや、帰途立ち寄った各国の見聞記を「何でも見てやろう」という本に書いて、日本人青年の諸外国への関心の姿勢の原形の一つとして話題となっていた。読めば判ることだが、彼の特徴は、留学とは帰国後に、その「はく」を利用して厚遇と高給を得るための手段では決してないと言い、世界を自分自身の眼で素直に客観視するのが目的であるべきだと言外に言っているように私には採れた。私は、留学直前の名古屋時代には、小田の「何でも見てやろう」はまだ発行されたばかりで、私はそれを読んでいなかった。しかし、偶然、類似の発想からか、自分もルーブル美術館やブリティッシュ・ミュージアムなどでギリシャなどの歴史的な名品を見たあと、それらが生れた場所へ行ってみたくなり、帰国途次旅行にギリシャの十日間を申請して、そこで過ごしてきたと言ったら、「おもろかったやろ」と小田が言った。

 

ギリシャでは、パリで、特に選んでアテネまで乗って行ったのはギリシャのオリンピック航空のコメット機だったのだが、私はアテネ到着早々、予約も何もないので、エール・フランスのアテネ事務所の職員に、その会社の職員の搭乗要員の宿泊ホテルでも紹介して欲しいと頼んだ。すると、その種のホテルはオムニア広場という目抜きの一角にあって、会社の契約ホテルだが、失礼ながら君には高いと思うと言って、下町のペンションを紹介してくれた。彼の、その配慮に礼を言って、そのペンションへ行くと、肥った、愛想の好いギリシャの小母さんが、日本人の宿泊客は初めてだが何でも聴いてくれと言いながら五階の部屋の外のテラスへ夕食を運んでくれた。そこから見ると、視線の先の、丘の頂上に照明を浴びる、白い石組みの小規模な教会のようなものがあった。あれは有名なアクロポリスではないだろうが、何というところかと尋ねたら、リュカベトスという丘で、その山頂からのパルテノン神殿の夜景が美しいと教えてくれた。

夕食後、独りでその丘を目ざした。十月の半ばだと言うのに、アテネの夜は海に近い所為か、日本の真夏の夜を思わせる蒸し暑さだった。街の裏へ廻ってオリーブの林を丘の上に向かって小道を辿ると、若い男女の組み合わせが、その組み合わせごとの過ごし方で宵闇の中にあった。リュカベトスの頂上にはギリシャ正教の小規模な、石造りの教会があって、そこには堂守と思われる、偉丈夫で黒い顎鬚のお坊さんがいた。しかし、パルテノンの神殿は見えなかった。何故かと、準備不足でギリシャ語までは喋れなかったので、思い切ってフランス語で聴いたら、電力の節約で照明は週末だけだと、その顎鬚が、身振りと、イタリア語というよりは寧ろラテン語そのもののような、そして、彼の親切と努力の所為と思われる、フランス語とも採れる言葉でいった。

その丘からは、遠景にピレウスの港と、その周辺の光が瞬く、美しい夜景が見え、「何処から来たのか」という坊さんの問いに答えながら、暫く、私は、その、やっと辿り着いた「異国の丘」の一つの、岩と土の匂いを嗅いでいた。

昔はパルテノンの、丘の上の神殿の前の、テラス状の広場では、神への祈りの意味で、毎晩、大きく火を焚いていた。アテネだけではなく、ずっと南東方向の、スニオン岬の先端の神殿でも同様だったと彼が言った。サロニカの海の中の、ある島、エギナという島のアフィア神殿でも盛大に焚き火をしたものだと教えてくれた。

何故だと思うか……と、彼が私に尋ねた。申し訳ないが、私は東洋からの旅人で、この国の文化が讃えてきた、貴方たちの神々のことを深くは知らないと正直に応えた。

構わない、と黒髭の堂守が言った。そして、それは、夜、エーゲ海で魚を獲る漁師たちのために目印を一晩中示し続けるのが目的だったのだ、と言った。信仰のための副次作業とも言えるが、解釈は君に任せる。現在は、灯台がそれに替わっているので不要となったが、我々の先祖は、そのようなことをして生きてきたと言った。

 その夜、憧れの土地だとして私はギリシャへ来たのだが、そこは数学の符号のような文字を用いる国で、女性は顔だけではなく裸身もまた素晴らしく、男性は、あの白目をした大理石の彫刻で見るような、頭髪や体毛の濃い逞しい身体を持つ国で、ヘロドトスや、ソクラテス、アリストテレスやピタゴラスなど歴史や哲学や数学など、人間探求の「科学」に尽くした、数々の先祖の偉業を誇る国として、その雰囲気の片鱗に触れる目的で、私は、そこにいたのだった。

しかし、目的は一見、高邁な関心に支えられてはいたが、「過去の国」を眺めたと思って、その旅に満足する、私は、やはり浅薄な観光客の一人だった。

そこにも生活があり、工夫があり、生きるための雑事処理の忍耐と苦しみがあり、その努力をしない者にとっては、そこも、やはり地獄でしかない土地であることを知らない、私は、不幸な「旅がらす」だった。

 

アポロンへの賛歌と祈りの背後、底流には、深夜、海で、生きるために網を引く、苦しい作業と工夫の要る生活があったのだ……。

 

 ……暗いから、岩の多い坂道で滑らないように!

 ……エフカリスト(有難うございます)!

 

兄か、父のように注意してくれる、黒く長い頬髭の、長身の堂守の笑顔に見送られ、私は、そう思いながら、深夜に近いオリーブの坂道を下ったのだった。

 

翌日、私は、あの巨大な大理石の神殿の全景がアクロポリスの丘の上に聳え立つのが見える、向い側の。低い潅木の茂る小高い丘に登ってパルテノン神殿を見た。感激だった。太い列柱が重い屋根を掲げて、白い建物の群全体が何かを、全力で叫んでいるようにも見えたのを今も思い出す。

「パルテノン」という建物は、別名「パンテオン」とも呼ばれているが、その「パン」は「館」、「テオン」は「神」で、まとめると「神の館」となり、ギリシャ語で「神社」または「神殿」を意味していて、その種の建造物の通称である。そして、アクロポリスの丘の上に建てられている、その「パンテオン」は、固有の名称として「パルテノン」と呼ばれている。それは、ギリシャ語で、「乙女」または「処女」という意味である。

その想い出を小田に話すと、パルテノンの全景を私が眺めた丘、そこは哲人ソクラテスが、冤罪だったのに、自分は自分の理性と論理には背けないと言って入牢した処でもあり、その丘の名前は「フィロパポス」だと、「パ」に力を入れた、若干、関西訛のような発音で言い、自分もあの丘へは何度も行ったと言った。恐らくソクラテスのこと、その生涯を少し話題にしたかったのだと思うが、「知性や情熱の孤独の意味が判るところだ」と、後のある日、私に話したのを覚えている。

ただ、その時は、彼は、アクロポリスの丘の、そこからの眺めについて、簡潔に自分の感激を述べただけだった。

「あれが西洋というものの叫びの姿やと思うわ……」と小田は言い、心の中から止めどなく湧き上ってくる、人間としての想念とか創造の意慾が、噴出すように、あの丘に、形をとって、あの夥しい白い石の柱を並べさせたのだと思うと、彼は私の目を見ながら熱を込めて語ったのを今も覚えている。

日本は遠い。東洋は文字通り、遠い東方の世界である。ギリシャ人たちは、その存在さえ知らなかったであろうし、たとえ漠然とでも知っていたにしても、殆んど関心は持たなかっただろう。我々は、その遠い国の若者である。

しかし、人間であることに変わりはない。人間として言ってみよう……。

「……みんな、心の中に自分のパルテノンを持たなあかんと思うわ」とも彼は言ったようだった。

 

「人間……というものに執拗に覆いかぶさってくる欺瞞の《汚染》を拭い去る、その努力、疲労に負けたら、生きている意味が無いではないか」と、これは私の言い換えだが、そのように彼と頷きあったのを覚えている。

我々は三十歳を過ぎたところだった。

 

その後の彼の行動は、ある時は脚光を浴び、ある時は、主として評価する側の知性や理解力に左右されて無視されたり、軽視されたりしたこともあった。それが、主として商業的な成功を重視する、今日の言論報道、出版などの世界の特徴に起因することは、彼も熟知していた。良い意味での、それらの「利用」の術にも彼は通じていた。しかし、それによる名利に走ることはなかった。

人々からの関心が遠ざかることもあったが、別に彼は耐えていたのではなかった。「人間ちゅうもんは、そんなものや」と言っていたかも知れない声が、私には想像できる。青春時代の、パルテノンを眺めながら噛み締めた、大袈裟とも採れる興奮の言葉、「知性や情熱の孤独の意味」を、彼は生き続けることで、彼を知る者たちに、自分の生きる姿を通して語っていたように私は思う。彼には、そうせざるを得ない、引き下がれない論理があったのを、私はその都度理解していた積りである。

北東アジアの近代化の波の中での、関連人種相互間の利己と利害の相克を、冷静に、正しく見なければならないといった意味のことを彼は繰り返し言っていたように思う。淡路阪神大震災では、この国の行政当局が、この国の官僚たちの特徴なのだが、記録と成果を重視しすぎていて、彼らには人間の友愛という、この動物に固有の心が動いているとは見られないと、激しく怒り、嘆いた。

そして、しかし、彼は諦めていなかった。人間というものに対する自分の判断は間違ってはいない。自分の気持ちを判る者は、何処かにいる、誰かが判る筈だ。そのように彼は言っていたと、私には思えている。

 

七十五歳を二ヶ月近く過ぎた、二〇〇七年七月三十日、午前二時五分、彼はガンに斃れて、もう逢えないところへ行ってしまった。     (080427)

 

*       *       *

 

 開高健との初対面の記憶はない。いつの間にか知り合いになったような気がする。「ベ平連」の会合だったか、数名での会食のときだったかも覚えていない。二年年上の男で、我々のそのころの感覚では、彼は私の上級生だった。

終戦の年に私は中学校一年生だったが、そのころの、二年上の三年生は、物凄く大人に見えていた。しかし、十八年後の、青春後期に入ると、一般に男の三十代が既にそうであるように、私が三十歳のころの三十二歳の彼は、哀れにも少しだけ多く年をとってしまった男のようにも私には見えた。しかし、また、彼は、その分だけ老練で、一人の世間知の塊りのようにも見えた。

 ウイスキーの会社の広告宣伝に携わっていたという雰囲気も彼には全くなかった。知性の王子を素早く捕えた天女のような夫人、牧洋子(まき・ようこ)の掌の上の、知恵のある男で、その彼は、会うたびに、今、天から降りてきたばかりの男のような感じさえした。何となく、口を聴き、ものを言うのが怖い兄のようにも見えた。

大阪と京都で青春と想念の炎を燃やし、そこで世の中と人間を見抜くことを知った男のようにも見えた。東京は行政上の首府であり、経済の心臓ではあったが、それが何だ、心の首府は俺自身だと言っているようで、それが私には魅力だった。そして、どこか一種の風圧を感じさせる男で、やや間を置いて言葉を発する彼の話し方は、一語一語が、鋭い警句のように聞こえて怖かった。それでいて顔を見ると、微かに笑顔だった。

当初、彼は私を、長谷川君と、「わ」に力を入れて呼んでいたが、やがて、仲良くなったら、長谷川チャンと、「は」に力を入れて呼んでくれるようになった。私は、関西も東のはずれの、伊勢、桑名で育ち、揖斐川南岸の、東西日本語の接点に当るところで育ったのだが、小田実との場合もそうだったが、西の訛で言葉を交わす方が落ち着いて話が出来た。

 私よりも先に開高と関係を持ったのは、先に話した、音楽、演劇担当のプロデューサーの林叡作(はやし・えいさく)だった。彼は父に似ず、軽音楽分野の知識が豊富で、その方面の知己が多かった。技術力の高い名バイオリニストの息子だから、さぞや丁寧な父の薫陶を受けて、世に言う、栄光の二代目と輝いているはずだと私は考えていた。北陸の、能登から出て、京都で花開いた稀代の日本画家、長谷川等伯(とうはく)親子のように想像していたのだが、林に関しては、才能とは一種の潜在性であって、必ずしも同じ種類の花として開くものではないことを私は見る思いだった。彼は組織力のある、軽音楽を含む先端的活動の推進者になっていた。

その彼が開高健の初期の出世作、「裸の王様」を、名古屋でテレビドラマとして演出した。開高は、別にそれを喜んでもいなかった。林叡作の作品解釈に関しては、「そうとも言えるな」というようなことを言って、批評はしなかった。書いてしまったものは、書いたことの責任は採るが、すでにそれ自体に一種の「いのち」があって、それを生んだ者の外にあると考えているようだった。尋ねられれば、それを書いたときの気持くらいは話せるが、自分もすでに変化しているのだから、縁日の売人のような宣伝行為はしたくないとも言って、「原作者による解説」には応じなかった。テレビドラマについては「まあまあやな」としか言わなかった。

そのドラマに、林が、当時名古屋局の、若手の誠実な名アナウンサー、川上祐之(かわかみ・ひろゆき)と私に出演して欲しいがどうかと、半ば冗談で言ったことがある。ドラマの中で、図画コンクールの一等賞になった作品の主の少年に報道陣がインタビューするシーンがあり、マイクロフォンを手にした本物のアナウンサーと、当時、「デンスケ」と綽名された箱型録音機を肩に掛けた取材プロデューサーに我々二人が向いているというのである。確かに本職だから迫力はある。しかし、面白そうだったが、アナウンサーはともかく、プロデューサーの私は本来業務との関連で、そうした、ドラマへの出演の理由が見つけにくかった。また、当時、我々の間でも盛んに論じていた、ロシアの名映画監督、エイゼンシュタインのドラマトゥルギー(演出論)に照らしても正しくないという判断で私は断った。いや、断るまでもなく、林には判っていたのだが、一寸話題にしただけだということで、それは笑い話で終った。

演劇の専門家にとっては幼稚な議論に類することだろうけれども、あのころの新思想としては、演技をするということは本物そっくりに振舞うことだから、その芝居の場面に本物を持ってくれば、それ以上強い者はないという理窟に傾くのが当然と思われていたところへ、ロシアの映画の名監督が「それは違う」と言ったことに端を発していた。エイゼンシュタインである。社会主義の世界の芸術家だから労働者が引き合いに出されていたが、彼は本物または実物の行動と、本物を演じることとは違うことを強調して、工場などの現場で働く労働者をそのまま舞台へ連れてきても芝居は成功しないといった。

ここで私の経験が出てくるのは唐突であり、僭越であることは判っているが、私にも小さな経験があった。当時、日曜日の朝、「趣味の園芸」という、今も続いている、家庭園芸の番組も私は担当していた。たまたま、名古屋には亀岡泰家というバラ愛好家がいて、手入れの適期に剪定とか肥培管理の要領を解説する番組だった。現在は評論家、作家として活躍している、当時新人の人気アナウンサー、下重暁子が案内役だった。下重暁子は名古屋が初任地で、この番組が、彼女がテレビで全国放送に出た最初の番組だった。彼女は気の毒なくらい真剣に、バラの栽培のことを勉強して、にこやかに、見事に番組を盛り上げてくれていた。そのころはビデオ事前収録ということは、名古屋への配属機器の都合で出来なかった。生放送の一発勝負だった。あるとき、その彼女が所要で出演出来ないことがあった。そんなときの代役で私は頭を痛めた。周囲の推薦もあったので、已む無く、ある「名流の令嬢」とされる女性を起用した。しかし、失敗だった。それは、「美しい若い女性がバラのことを専門家に尋ねる」作業だったが、「若い美女」を登場させえたけれども、「専門家に尋ねる」ことは、事前に教え込んでおいた積りでも成功しなかった。令嬢の関心の外にしかないことを私は期待してしまっていたのだった。小さな体験だったが、エイゼンシュタインの「俳優論」はそこをも貫いていた。大袈裟な言い方かもしれないけれども、本物を見せる「芝居」というものの本質に関係する点では、素朴だが同じことだった。

「な、そうだっただろ?」と、最初から、それを無謀だといっていた林叡作が言った。演劇論として彼にはそんな正しい判断も行う姿勢があった。単なる、幸運なお坊ちゃんプロデューサーではなかったことを私はここで言いたいのである。ドラマの中では、確か名古屋放送劇団の名優、岡部(おかべ)と天野鎮雄(あまの・しずお)がその役を見事に演じたと記憶している。

 

そんなことを開高に話すと、「功(いさお)の蔭に涙あり、ちゅうことやな」と彼は言った。しかし、彼は本質的に「芝居」というものを好まなかった。「何で、そんな借り物に興奮せなならんのや」と呟いていた。

架空に託して人生を論じるよりは、人間の行動の結果とか、そうした行動の所産に触れることで自分の感想や次の行動目標を設定することの方に、彼は興味を持っていた。自分で触り、自分で体験したかったのである。人は外側からは、それを「冒険」とも言ったが、彼にとっては「さまざまな経験」に過ぎなかった。暴力、性……など、表面の、いわゆる日常性というものの対象ではない、別の方向の現象とか、政治や歴史、それも、距離を弁えつつも、試みに手で触ってみたいものだったようである。彼が「べ平連」で、日本人が、口先で、世界は、平和が……と言っているだけではなく、形は広告だが、アメリカのど真ん中の、最有力新聞紙上で、堂々と思っていることを、言葉で言い放とうではないかと提案したことも、借り物ではなくて、本物で勝負しようじゃないかという「心意気」によるものだった。

しかし、彼はいわゆる「実行」、「実業」、「実社会」の場には身を置かなかった。旅行、冒険旅行、探検旅行、釣り……それは、彼にとっての「何でも見てやろう」だった。背景が違うので、本当のことは判らないが、現象だけを見ると、どこかアメリカの作家、ヘミングウエーを私は想像していた。

私の小さな体験だが、ある年、私は、スペインの北西の外れの、サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼の列に、妻と加わったことがあった。

フランスのピレネーを南へ越えて、バスクを西へ行きかけると、そこは、嘗てのナヴァラ王国の首都、パンプローナである。そこでは、年一度、丘の上の市庁舎前から下町の公園の広場まで、街の中を青年たちが数十頭の牛を追い込む行事で有名な町である。その広場に連なる公園のカフェ・レストランには、アーネスト・ヘミングウエーがよく座ったといわれる椅子がある。私は、案内されて、その椅子を見て、そっと座っても見たが、何故か、そのとき、ふと、そこに開高健が座っていてもおかしくないような錯覚に捉えられたことがあった。

然し、彼は、その行為に耽溺して、それを思わせぶりに、「名文」で語る、粋人でも趣味人でもなかった。従って、ノンフィクションの人であると自分が規定されることにも無関心だった……と、私は思う。好きとも嫌いともいわなかった。彼自身は言葉にしなかったが、忖度すれば、「言わせておけ」とでも言っているようだった。

彼は小田と、ほぼ同じ時代に、相互の連絡は、日常的には殆んどないまま、自分の目と身体だけを手段として「世界」を見つめようとした青年だった。

彼は東京を、さほど憧れなければならない所だとは見ていなかったらしい、大きくて、便利で、賑やかなところだが、それは大阪にもあることであり、京都も昔からのコスモス(世界)であり、その政治と経済の歴史を紡いできた古都、いや、今も躍動を続ける経済と学芸の心臓部、そこに生きる友人たちが展開する世界は自分の「目」を育んでくれたところでもあった。東京も「便利」だから出てきて、初めは荻窪に住んでいた。そして、「便利」だから、生涯の後期には湘南の茅ヶ崎の海岸近くに住んだ。その家は、茅ヶ崎市が法定相続人から寄託を受けて記念館として維持している。週末、金、土、日曜日には訪問できる。書斎もそのまま残されている。

 

ある日、私は、当時の帝国ホテルの新館ロビーで彼と会った。出版社との打ち合わせで出てきていて、知り合いの編集者との打ち合わせのあと、何でもお好きなものを召し上がって下さいと言い残して編集者は帰っていった。残された二人でフランス料理を食べようということになった。館内の有名レストランへ一緒に行った。「要するにフランス料理というのは何やね」と彼が言った。私は一年間だけれども、フランスにいたが、過ごしたのは、殆んどの期間、パリではなくて、ノルマンディなどの、フランス北西部や南フランスで、土地それぞれの料理を食べたことがあるだけで、日本で料理専門誌に写真入りで出ている料理などは全く食べたことがなかった。フランスは、日本料理がなくても過ごせる土地だと思ったに過ぎない。ただ彼らもそれなりに工夫していて、特に酪農製品とか、動物の肉や脂を、食べ易い味と温度で食卓に乗せる。フランス人が文句を言わずに食べる料理がフランス料理だと思うと、私は、返事にも成らないことを言った。私自身はそうじゃないが、日本人は、一般にフランス語という言葉に代表される世界や雰囲気に、何か劣等意識に似たものを感じすぎていないか。また、それを利用して己を高く見せたいとしているような日本人と、そうした日本人の心理を読み抜いたようなフランス人の宣伝に、奇麗に嵌められているように思うとも言った。その返事が彼の気に入ったようだった。小田の「何でも見てやろう」の底に流れる、森羅万象を即物視しようという気持ちを我々も共有した雰囲気だった。

一呼吸あって、「何が好きや?」と、彼が尋ねた。

「人にもよるだろうが、今日は、ステーキと帆立貝とチーズとワインだ、それと野菜サラダだ」と私がそれに答えた。

「ほな、それで行こう」ということになった。

「君、注文せや」と彼が言ったので、私は、「コキーユ・サンジャック」と、粒胡椒のソースを少しかけた、少しだけ焼いた神戸牛のステーキと、その日のオードブルと「サラダ・ニソワーズ」を注文し、「ポンレヴェック」は無いかもしれないが、「カマンベール」か「ブリ」のチーズを注文した。ワインは、「ミュスカデ」か、「サンセール」を欲しいが、無かったら、よく冷えたアルザスの白、「リースリンク」を一本と、ステーキのためにブルゴーニュの「シャンベルタン」の普通の赤、そして、パンはバゲットがあったら、それが好い、アイスクリームや紅茶やコーヒー、食後酒は、欲しくなったら、その時に言う、と注文した。

帝国ホテルの食堂だ、フランス料理のレストランだと言っても、要するに日本で手に入る食材を、フランス人がやっているように調理するだけだ……などと言いながら、それでも、それなりに豊かな昼食を楽しんだ。

最近の、人物取材の目標は何かと私が尋ねると、「やくざ、や」と一言いった。詳しくは知らないが、昔の東海道筋の、清水の次郎長のような、一種の「力」だけで人を纏めて何事かの行動を行なっている集団、その老齢の元締めのような人物に会ってみたいのだといった。その人物が人間や人生をどう見て居るかを知りたいといった。

「レアリストやな、兄貴は」と私がいうと。「兄貴か、俺は」と笑った。

 

開高が私と付き合ってくれていたのは、単に、私がフランスへ留学し、既に流行りになっていて、軽薄な日本人たちには、同時に飽きられ始めていたパリではないところへ行っていた「変な奴」だったからである。当時の日本では、誰もまだ、積極的な関心の対象とはしない、知らなくても日本の「知的最先端」の者にとっては恥ですらない、フランスの田舎、ノルマンディの、しかも、その農業の素顔を知るためなどという、「売れないこと」をしてきた男だったからである。ただ、彼は、実際には言葉にしたわけではなかったけれども、彼の傍にいると、「事実や!(事実だ、を意味する西の言葉で、この「や」は、「だ!」と言っていると思って読んでいただきたい)、ファクトや!、本物や!、現場や!、素顔や!、裸や!……大事なのは、いや、おもろいのは……それや!」と言っているようだった。彼はフランス語には興味はあったが、堪能ではなかった。しかし、ぺらぺら、べらべら喋れさえすれば嬉しいという意味での堪能さは、何も、立派な能力ではないと考えていた。私が、自分は、勿論、状況によるけれど、高度な文学談義や、微妙な政治や経済の折衝はできないが、田舎の「あんちゃん」たちとの喧嘩ならフランス語で出来るといったら、「それがええのや」と、変なことを褒めてくれた。そして、レストランの中が少し蒸し暑かったので、冷房を調整しろとボーイに命じてから、冷房はフランス語で何というのかと私に尋ねた。「クリマティゼ」が冷暖房を入れる、で、今のように冷房を入れていることを「クリマティザシオン」というと私はいった。彼は「クール、クーラーと言わんところが、ええ」といった。「クリマ、うん、クライメイトか。言い得て妙や。フランス語のそういうところが宜しい」と、まるで私がその言葉を発明したかの如く言ってから、笑ってくれた。今は、茅ヶ崎市が記念館として維持していて、週末には公開されている旧宅内の随所に見える、パリの街角の「町名表示板」は、彼が言っていた「フランス語のそういうところが宜しい」の御裁定の証拠かもしれない。

 

「事実や!、ファクトや!、本物や!、現場や!、素顔や!、裸や!……」、そういって彼はベトナム戦争の現場へも、新聞社からの話があって、実際に行ったこともあった。当時の日本の言論界には、実戦を知らずに「戦争体験」を語る者が余りにも多いことを諭すかのようでもあった。残されている写真で見ると、加わったのは、アメリカ兵が指揮していた、当時の南ヴェトナム政府軍にだったが、ある日、激戦があって、九割が死んだ。その、反政府軍との戦闘で辛うじて生還したのは幸運だった。いや、彼と我々にとっても僥倖だった。平和の理念からは考えにくい「傭兵」の体験だったけれども。

それ以後、私は彼とは会う機会は殆んどなかった。その消息や名声を、私は出版界や、趣味、冒険関連のマスコミでの動静として知るのみだった。

その後、私は放送協会での、勤務生活の末期、一種のいやな奴の虐めで、突然、インドネシアへ行くことになった。定年間際の、一種の、箱庭的な権力抗争だが、私は仕事の実質で勝って、名目的な栄誉を奪われた。そんなことはどうでも好いことだが、実は、私は、内心、その押し付けめいた、島流しのような命令を喜んで受けた。協会生活で最初に足を下ろした外国の空港はパリのオルリー空港だった。そして、ジャワ行きのその辞令のころ、あと二年で、私は定年となる。従って、帰ってくるときに最後に飛び立つ空港は、多分、バリ島のウングラ・ライ空港だろう。面白い、「パリからバリまで三十年」だ……。

番組制作プロデューサーは、その時点でも、二十五年前の、伊勢湾台風の被災地の実情を報じる、実情報告番組の制作体験での、私の自分だけの勲章、あの「海抜ゼロメートル地帯に生きる」以来、結局、キャッチ・フレーズの奴隷だったのかもしれなかった。

 

そうした自己催眠で、私は、思いがけなく手に入ったジャワやバリをはじめとする、興味ある、若しかしたら我々の、古い時代の兄弟の世界かもしれない人種の住む、その南国の素顔を、二年間だったが、堪能した。日本の官僚の醜い辻褄合わせ。その出先機関の要員たちの家族ぐるみの腐りきった実態。名分を利用した業者たちの醜い所業。情けなくもその南国自体で展開する、その楽園を支配する役人たちの有害昆虫のような、恥を忘れた行動の数々……。

開高が叫んでいたかもしれない、「事実や! ファクトや! 本物や! 現場や! 素顔や! 裸や! ……」のインドネシア版を堪能していた。

 

ところが、そのころ開高健は病床にあった。そして、五十八歳で、この世から去って行ってしまった。

最近、二〇〇九年五月、知人の一人から、当年九十五歳の母堂が、嘗て、茅ヶ崎の病院で、入院中の開高健と、院内の洗面所で知り合いとなり、開高が胃の調子が悪く、喉まで「イガイガする」と言っていたのを聞いて、「そんなものは、貴方の元気で、ぺっと吐いてしまいなさいよ」と、励まし、彼が「そうします」と元気を装って、その夫人に応えたという話を聴いた。その時、私は、一瞬、彼が、私の傍を通り過ぎたような気がした。彼が亡くなったとは、私は、今でも、どうしても信じたくないのである。

 

私は、インドネシアのジョクジャカルタで、やや落ち着いた頃、そこから四十キロ足らずのところにある、あの世界遺産の、広大なボロブゥドールの佛蹟の丘の、何百体とある仏たちの、その顔の表情の一部に、インドの、アジャンタの洞窟の仏陀の像に似た表情が読み取れると思ったことがあった。そこでは、仏たちが「覚り」に到達した恍惚感を表しているのか、私はそれらに、通称「モナリザ」、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ジョコンダ」にも通ずる微笑を感じ始めていて、それを一度彼に見せたいと思っていた。彼と一緒にそこへ行って、それを「本物や!」と眺めると、彼の口からは、どんな言葉が出るかと想像し、ジャワの、椰子とバナナの林を眺め下ろす丘での、彼の表情を思い描きながら、ジョクジャカルタ郊外の、庭にもパパイヤやマンゴーの木のある、私がインドネシア人の政府高官から個人的に借りている家に彼を泊めて……、などと、それを何時、実現させようかと真顔で考えていたころだった。

 

彼は、私が住む、鎌倉の、北側を護るように横たわる丘の西側の斜面に展開する円覚寺の、その堂頭(たっちゅう)の一つである「松嶺院(しょうれいいん)」の裏庭に眠っている。その寺にゆかりの、夏目漱石も享年五十歳と、若死だった。二人の命日は、期せずして十二月九日である。その日は、偶然、私の誕生日だが、それには何も意味はない。しかし、私は、二人の他界の日をそのように記憶している。その、同じ日付の日に、この世を発って逝った、その二人の大文豪たち、その二つの魂は、あちらで、今、何を語り合っているのだろう。

 

夫人、牧洋子も一人娘の道子も、時を隔ててからだが、彼を追うように、急いで、発って逝って、もうこの世にはいない。

 

彼らは逝った。小田実も逝った。

 

思えばまた、二人はまた、当時当たり前になっていた「外国かぶれ」からも距離があった。気にもしていなかった。そのころ、いや、日本では、今もまだ続いているようだが、自分の知性や知識、人生観や世界観を、どこかの外国、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシヤ、中国などの、単独または複数の国や民族の思想や文芸の勉学を通して形成する者が圧倒的に多い時代に、この二人は、「俺」を、憚ることなく称えて、なお、「現代」の日本人だった。

言い方を変えれば、模倣や競争の中で、しかも激しい競争や試行錯誤の中で、日本人が、ともすれば現代の歴史の奔流の中で「己の視座」を失いかけているのが、この我々の時代の偽れもない事実である。思想の背後には、痩せて、ひ弱で、己に甘い、視野の狭い自己しかないのが彼らの特徴である場合が多い。しかし、それでもやはり明敏な者たちの間に培われてきていた、己自身との掛け値のない対決の意味を理解した、精神の「世界性」が、開高や小田の中では、力強く、健全に、花開いていたのだと私は思う。

 

人知れず、夏の夜更けの桜の幹で、新しい知性の、暗緑色の眩い羽の、大きな昆虫が静かに羽化していたかのごとく。

 

彼らは、私にとっては、絶対に心から消えない、眩しい流れ星だった。

 

こう言えば、開高健が、もう一度だけ喜んでくれるかもしれないと思って、思い切ってフランス語で呼んでみるのだが、君たちは、私にとっては、この世で、数刻、激しく、思い切り燃えて、輝き、私の心の中だけでは、今も燃え続けていて、その、沸々と燃え続ける音さえ聴こえて来る様な、幾筋かの「エトワル・フィラント(流れ星)les étoiles filantes」なのだ!    (080601)           

 

開高さん、もう一人、君を追いかけて行った男がいる。君の、あの出世作「裸の王様」を、テレビドラマで演出した、林叡作である。

 二千九年、新春、交わした賀状の中で、小中陽太郎が、その葉書の端にポツリと書いてきた。「叡作が、去年の暮に逝った」と。君のところへも会いに行くかもしれないが、一言、「よう」とでも声を掛けてやってくれないか。

 

それから、やはり、あの、「ベ平連」が生れた頃、人間が作り出す、原子力廃棄物の危険性を強く警告していた、佐久間稔も、その前にそちらへ向ったとのことである。放送協会からのパリの特派員として、未だ、私がフランスに勤務して、その国に居た頃、ブーローニュ・ビャンクールの我が家へ、彼が、一時帰国で日本から持ち帰った海苔の佃煮の小瓶を持ってきて、アルザス・ビールとの相性を確かめながら、夜更けまで核廃棄物のことを話し合った頃を思い出させるのだ。

「人間というものは……」と、君のところでも切り出すかもしれないが、彼は真剣なのだ、そして人間を、人類を心配しているのだ、言い分は一通り聴いてやって貰えまいか。                    (090115)

 

    *         *         *

 

大江健三郎について語るのは気が重い。多分、語る資格は私にはないのだと思う。私にとって、彼は、霧の海を、賑やかにではないが、何ごとか、音をたてて、私の人生という航路の周辺を通り過ぎつつある、別の一隻の貨物船のように、私には思える。しかし、難解な男である。彼と言葉を交わした若干の記憶と印象は残っている。しかし、やはり、偶然以外には、今後も会うことはないと思うが、彼と私が無接触で生きて行動できる程度には、この世界は、まだ広いと思う。

大江健三郎は、当代の、世界的な大作家だとされている。私は、彼が三十歳を過ぎた頃に、それなりに彼の素顔といっても良さそうな場面で言葉を交わし、考えていることの若干の論理を聴いた記憶はある。印象では、自分のフィールドから物を言っては来るが、客観性よりは、やや自己内部発酵的な傾向の発想を感じたのを覚えている。慎重というか、用心深い青年だと思った記憶がある。しかし、彼は私のことなどは、多分、何も覚えていないだろう。また、私の不勉強とか、知的な能力の欠如のせいだろうが、彼は、私には印象が薄い。はっきり言って、何が偉いのか、偉かろうとなかろうと、彼の何に感心、感動、感激すれば好いのかは、まだ私には判らない。不謹慎な言い方であることは判っているが、思い切って言葉にすれば、若い者に驚いて見せるのが一種のファッションになっていた時期の、大御所たちの反応の潮に旨く乗っていたような感じさえする。右に述べてきたような、同じ水平線上で言葉を交わして過ごした、小田実や開高健という「二人の兄たち」に較べると、大江は、何処か安全な場所で、何かの特殊な酒に酔ったままの人のようにも思えるし、隣の町の、何を信じて打ち鳴らしているのかが判らない祭囃子のようにも聴こえるが、共通の語彙を探しにくい。また、私には私のなすべきことがあって、そちらへ向かう余裕がない。私は不幸な人間なのだと思う。

しかし、彼も、日本の文化社会に現存する人物であるので、もう少し勉強して、いつの日にか、その実像を私なりに把握したいと思っている。

 

 よく判らないまま言葉にするのは不謹慎かもしれないが、野球の試合中の「振り逃げ」のように、敢えて言葉にすれば、彼が、自分の存在の絶対的基礎のように考えているらしい、既に他界されている渡辺一夫教授の言葉を、彼は絶対視しすぎてはいないかと私には思えるのである。渡辺さんの業績は大きいが、教授も時代の子であられた筈だし、立って歩いてこられた一人の人の子である。渡辺さんが努力の末に、掻き分け探り当てられたと見られる、ルネッサンス期のフランス人たちが生きて、貫いた「リーブル・エグザマン(自由検討)」の精神の歴史的意味を、彼、大江は、絶対視し過ぎているように私には見える。その精神の価値が大きいことは、私も彼に劣らぬほど理解しているつもりである。しかし、渡辺さんが、その言葉に巡り会われるまでの道筋や、その言葉を重要視される、思考の舞台や背景も、我々は知る必要があると私は思っている。「リーブル・エグザマン」は、人間精神が中世の闇から脱却して、人間である自覚を自分の足で確かめる作業を行った時代を評価する美しい言葉ではなかったか。勿論、名言に万古不易の輝きはある。しかし、二十一世紀の今日、産業革命を経て誕生した市民社会が、より一層の複雑さを伴って稼動しつつある世界に我々は居る。社会科学の初歩の教科書がそう教えている。

 

これは、下世話な喩えで不愉快かもしれないが、今では、水戸黄門の随員が「この紋所(もんどころ)が目に入(へえ)らねえか!」とドラマチックに振り回すような種類のものではない。何時でも歌いさえすれば、その都度、従順に、誰もが踊るはずのシャンソンや呪文ではないと私は思う。言い換えれば、彼自身は、その言葉を、特に、その言葉が日本に於いて果たしている「機能の意味と範囲」を、「自由検討」したことがあるのだろうか、と、私は思っている。

 

このあたり、私は情報不足を後悔しながら書いている。彼の考え方も、今はもう、変ったかもしれない。或は、無反省にも、とんでもない、根本的な誤解をしているのかもしれない。しかし、彼が、ノーベル賞受賞で持て囃されていたころの新聞紙上でのフランスの論客との討論では、明らかに、右のような、自由検討思想の本場の君たちが、その線で話していないのはおかしいと言ったようなロジックだったと記憶している。全く噛合っていなかった。感想はその時にも色々あったが、率直な印象を言葉にすれば、「恥かしいほど幼い」の一言だった。今は、彼が何というかは、私には想像は付かない。

 

大江は、既に、七十歳代の半ばを生き続けている筈である。そして、まだ元気な筈である。そして、彼も、まだ、益々考え、一層熟してゆくことだと思う。

 

明日、何時か、彼が私に判る言葉で話してくれることを切に期待している。                                 

(080609/090325)

   *          *          *

 

彼の「ヒロシマ・ノート」、「沖縄ノート」についても、私なりの感想はあるが、それらを論じるのは、その本を、更に、もう少し注意深く読み直してからにしたいと思っている。原爆による攻撃を受けるに至った、物質科学の発展の経緯や政治、経済、歴史の経緯、「沖縄」という事態が出来上がった、日本の歴史経済的背景や、日本人の「異国観」とでもいう「国際的姿勢」などについて、多くの分析と多くの判断が既にあるのに、私には未だ、自分の判断で迷う部分が多いのである。すっきりした解釈や判断を簡単には与え難い。アインシュタインやエンリコ・フェルミ、オッペンハイマーや、日本の湯川秀樹とか朝永振一郎などの科学者たちの目を通して見た、人間や社会を、どう考えるべきかをも、一緒に考える友であってくれたらと思いつつ、彼のそうした「作品」を、私は読んできた。

 

彼について書こうとすると、何時も、どこかで見た、迂闊な論評を拒む、例えば、ルーヴルにある、ダヴィッドやドラクロワたちの大作とか、パオロ・ヴェロネーゼの「カナの婚宴」の様な、名画の大作の模写を見せられ、対抗されているような錯覚に陥るのである。名画の意味は判る。その価値も判る、しかし、その元の絵は彼が描いたものではない。彼自身の目や、手や、足が、歴史の舞台や現実の藪を掻き分けてきた、汗や、疲労や、息遣いや、切り傷や、流した血の跡や、利害や苦しみの心の叫びなどを、私は感じたり捕えたりすることが出来ないのである。

「彼の絵」が私には、「まだ」判らないのである。

 

彼の作品に関して、何故その様なことを言い、書いているのかと言おうとすると、へえ、こんな大事なことを知らなかったのかと、こちらの、日頃の「知的活動」の「貧弱さ」を責められる気持ちになるのである。

彼の応援の船も、大小、船団を形成してこちらに対抗している様に感じられる。やはり濃霧の遠距離から、彼に砲撃されている様な錯覚に陥るのである。

彼は、私などとは違う世界の人なのだろうか。

 

何か、突き放したような言い方に聴こえるだろうが、しかし、それでもと言うのか、それだからこそと言うのか、私の心には、彼に対する強い愛着が住み着いている。

それは、彼には迷惑かもしれないが、彼が、その初期の作品「芽むしり仔撃ち」で闘った、その青春初期の、……大袈裟な言い方をすれば、彼の魂の初期の孤独な闘いに私は共感しているからである。

その闘いが彼の心の「祖形」の一部かもしれないと、ふと思うことが、しばしばあり、私は自分自身の記憶の中にもある、人間というどうしようもない、無神経で、無理解で、臆面もない、自己愛にのみ多忙な、しかも、仲間、社会などといった集団機構を構築し、クラス会から始まり、同窓会、同期会などから、遂には巨大な政治機構までをも構築している、人間という動物の集団に取り囲まれていた、あの「青春の孤独の闘い」を思い返すことが出来るからである。

 

また、その青春の舞台が、実は何処であっても同じことなのだが、東京や京都、大阪といった、日本の近代文明の芽生えの舞台でもあった都会からは遠い、彼の場合は、西国(さいごく)、四国の伊予であり、私の場合は、伊勢の桑名だったという、田舎者という決め付けの洗礼を潜り抜けなければならい場所だったことが共通していたからかも知れないと私はふと思うのである。

やや、いや、かなり失礼なことを言っているのかも知れないという気持ちが消えないが、彼、大江健三郎も、この点だけは、私を判ってくれるだろうと思っている。

 

この稿は、一先ず、ここで終るが、実は、この話の途中には、特に加筆したり、敷衍したりしたいことが多くあった。また、主に自分の不勉強の所為だが、言葉を選ぶにしては、展開させる素材などが資料的に不十分と考えて、悔しく思いながらも書かなかったこと、いや、書けなかったことも多くあり、実はそれが欠けていると話全体が纏まらないことも多くある。

 

それらに関しては、自分で、より一層、深く勉強もすることを前提として、もし、運良く、機会に恵まれればだが、他日を期したいとも思っている。友人、知人、関係者の方々からの、ご厚意ある情報の提供と「ご叱正」も期待している。(090401)                          終

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小田・開高・大江 

                  長谷川  晃

 

 一介の「老書生」の身で、生意気なことを言うようだが、私は現代日本の、つまり、二十世紀後半から二十一世紀初頭にかけての、私と同世代の三人の代表的な作家と、ある時期、幸運にも、何度か、言葉を交わす機会を持った。

 

三人とは、小田実(おだ・まこと)、開高健(かいこう・たけし)、大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)である。

ただし、互いに居宅を尋ね合うほどの個人的な深い交際を重ねたわけではない。彼らの、大勢の友人たちと共に、一定の節度の中で、その周囲にいて、時折、その本人と言葉を交わしていたに過ぎないのだが……。

 

しかし、それでも、それぞれの人物の人間的な息吹を感じる程度には交際したと自分では思っている。

三人は、現代日本の著名人に数えられていて、それぞれに、自分の青春を生き、その人生で活躍し、その作品が読まれ、人々の話題になり、その存在が意識され、愛され、論じられ、その個性で、私の考え方や生き方にも様々な示唆や影響を与えてくれた。

私にとって、彼らは、印象深く、忘れ難い、得難い友人たちであった。その中の二人は、既に他界してしまっている。

 

私は、一九三二年、昭和七年生まれで、二〇〇九年、平成二十一年末には七十七歳になる……と、ここで自分の年齢を言っても、特に、意味はないのだが、小田は私と同い年だった。開高は二歳年長だったが、大江は二歳一ヶ月年下である。

 

私は、彼ら本人、一人一人に向かっては、「小田君」、「開高さん」、「大江さん」などと、会うときには、年長者に対してとか、交際が浅い相手には、必ず、「さん」を付けて呼び、やや親しくなってからは、「君(くん)」を付けて呼んでいたので、文章の上で、こうして呼び捨てにすると、日本人の普通の儀礼感覚では、何か気持ちが落ち着かないのだが、彼らとの交際は、私としては、すでに歴史的な事象となったことであるが、知己であったことは事実なので、ここでは、客観描写風に、このように苗字又は姓名のみの「呼び捨て」で呼ぶことにする。

 

因みに、私より二年と少々若いが、既に、七十代には入っている大江健三郎が書いたものを読むと、彼は、しばしば、内外の、初対面と思われるような人との対話などの際にも、相手を、気軽にか、意識的にか、呼び捨てにしていて、一瞬、驚くことがある。それが親近感のように感ぜられる場合もあるが、何処か、自分の人間観を、そうした日常作法を通して、今日の日本の社会での「新しい対人姿勢」として喧伝したい、といった意図も感じられる。そして、それは、儀礼を飛び越えて、相手を無理やり、無機的に、平等又は同格扱いしているようにも感ぜられるところがあって、私は何となく反発を感じてきた。

儀礼の無視は、一種の親しさの表現ではあるが、ときには、何処か、自分を無理に相手と同じ高さにまで押し上げている様にも採れて、それが、強引だが、淡(あわ)い、己の自慢であったり、自己肥大の衝動の結果であったり、更には、傲慢であったりするようにも感じられるのである。

彼の眉毛に白いものを想像すると、どこか中国、古代王朝時代の外交文書のような雰囲気まで感じたりして……。

 

しかし、そうした対人的な「呼称」、「親称」、「敬称」、「尊称」などの問題は、極めて個人的なものだから、私は私で、時代のモードに影響されずに、自分自身の儀礼の感覚で終始しようと思う。無礼があったら、お許し願いたい。

また、この、私の態度は、非常に日本的なものであって、外国の場合だと、たとえば、突然、話がフランスのことに飛躍するけれども、アンドレ・ジイドが、サン・テグジュペリの諸作品を論評する場合に、ジイドは相手の、そのアントワーヌを何と呼んでいたのかと、ふと思ったりするのである……。

 

また、大江健三郎が、数年前の、ある夜、年長の阿川弘之氏に、銀座のバーで、「君は…」と呼び掛けて、同氏の文芸活動や社会的姿勢に関して不遜な内容の言葉を吐き、そう呼び掛けられた同氏が激怒したことを、阿川氏が、自らの文章で書いているのを読んだことがあるが、内容をそのまま信じれば、大江も、いい歳をして、馬鹿なことをしたものだと、その軽挙をたしなめたくなる。  

第三者と自分との関係の描写は、そのくらい微妙で難しいものだと思う。

その時、阿川氏は、人間関係を、特に封建的な序列に沿って考えているわけではなく、また、古い儒教思想に拘って、「長幼序あり」などといったことに固執していたわけでもなかったと私は思う。人間は、互いに心を理解し合い、ある程度、人間的に打ち解けた時点で「親密な呼称」に転ずることが許されるのであり、それが自然だと思っていただけのことだと私は思う。

人の思想や哲学までも含めて、生活態度が「古いか、新しいか」ということに拘りすぎているのは大江の方だったと私は思っている。

それが、自分の心が命ずる普通の対人姿勢なのか、そこに自己主張に連なる一種の「自己演出」が加わったものだったのかは見極めにくかったが、ほぼ同世代の、もう一人の友人、小田実との場合とは対照的だった。

思い出すと、小田は、人に応答するときの相槌が、知遇に応じて「そうですか」から、自然に「そうなんか」と変化して行き、それに連れて、相手に対する呼称も「貴方(あなた)」から「君(きみ)」に、何時の間にか移行していたように私は記憶している。彼が口にした「あなた」は、標準語と称されている東京地方の言葉では「な」に力を入れているが、彼のそれは違った。それは、「あ」を強く発音するものだったが、本来は、「あんた」が普通だった「関西弁」という「言語生活」の世界にいた彼が、居住まいを正すかのごとく、どこか思い切って「標準語」を口にしているようでもあった。

小田には、勿論、自己主張はあったが「自己演出」は感じられなかった。

また、再会の挨拶も、恐らく、普段は「どや」とか「どやね」と言っていたものを、小田は「標準語」の世界に合わせて、「元気ですか」と言うことにしていたようだったが、親しくなると「元気?」と、どこか女性の言葉の様な、労(いたわ)りにも、似た様な言葉が、彼の、あの大きな身体から出てくるのは人知れず可笑しく私には感じられた。

 

それに較べると、大江の場合は、郷里、四国の伊予の歴史と生活を、かなぐり捨てて、「仏文科」の学識を背景に、「新しいモラル」に「敢然と」挑戦しているような雰囲気が、私には、感じられた。

しかし、「新しいモラルの優等生」を衒うのは、私には、彼に対しては失礼かもしれないが、第二次世界大戦の、戦時中に、逸早く「軍国少年」を衒った気障(きざ)で、危険な軽輩を思い起こさせるのである。

また、もう、当時の状況を覚えている人も多くはないだろうとも思うのだが、敗戦直後、被占領下で、急いでジャズを諳んじ、当時のアメリカでの流行歌の「ボタンとリボン」を、歌唱の中で発音されるのを真似て「バッツンボー」と、意味も判らずに歌い興じ、やや時代が過ぎて、暮らしに余裕が出来てくると、主として「売らんかな」の商人の計算の結果でしかないのだが、衣裳、風俗に関しては、「サン・ローラン」が粋(いき)だと聴くと、実際には、単なる冗談だが、己の無知を恥じることなく、「サンSaint」を、「聖者」ではなくて、滑稽にも、数字の「三」とでも取り違えたかの如く、自分は「ヨン(四)ローラン」だ、いや「ゴ(五)ローラン」だとでも言いかねない、賽の目遊びにも似た、ファッションの馬鹿遊びに興じた、流行病患者を思い起こさせる。

 

また、大江が、というわけではなく、その時代の風潮の中のことだが、私には頷けないことがあった。

国際関係の中で、日米首脳が、中曽根・レーガン時代に、お互いを、「ロン」、「ヤス」と呼んだとか、呼ばなかったということが、真顔で記者や編集者の間で扱われたことがあったが、自国の国際性とか、自国民と国内世論の国際的自負心に関連して、主として国内向けに自国民を煽って見せるマスコミの不思議な知性の時代の「子供の優等生」にも、彼らが見えたのである。

 

国家の首脳の知遇の相互の状態を、スポーツ選手や芸能人の交流に擬(なぞら)えて日常次元で話題にすることが、一種の流行となり、真面目な報道機関までもが、外交、内政の責任者の言動や動静を、そのような姿勢で評価、周知するようになって久しい。情報の受け手は、目前の事態の意味よりも、その場面で動いている人物たちの、外面の行動の姿を眺め、それが一定時間継続すると、国際政局に関連する、目前の、現実の事態そのものまでも理解したと錯覚してしまいそうな時代に我々は生きている。

しかし、歴史の流れというものは、もっと雄大だが、深刻なものだと私は常に思っているのだが、民族の統率者とか政治権力者などと、その民族自体との距離を、民衆の側が無理に、自分たちに近いものと想像するような状況を、自分の社会の民主的な姿だと考えるのは、一種の自己催眠ではないかと私は思っている。それは寧ろ統治者の論理であり、支配者の側の論理だと私は思う。何故なら支配者は、自分が統治者でなければならないが、支配される者たちには、支配者は、必ずしも、その現実の統治者である「彼」である必要はないからである。言い換えれば、被治者には、常により良い人物を選ぶ権利があるからである。従って、被治者は、常に、冷静であるべきだし、冷淡であるのが普通だと思う。歴史を冷静に見るとはそういうことだと私は思っている。これは、日本人が、時の首相をどう呼ぶかについても当てはまると思う。

シーザーとクレオパトラが、お互いを何と呼んだかに、当時のローマやアレクサンドリアの「市民」が、どれだけ関心を持っただろうか。

 

話が、少し逸れたので、元に戻ろう。

大江の言葉使いは、大江自身の、広い意味での「育ち」、つまり、彼自身の人生経験や心の反映なのだろう。つまり、大江は、そこで、既に、彼自身を、率直にか、自然にか、露出しているのだと私は思う。

 

大江は、「仏文科卒」の由だが、ノーベル文学賞を受賞した時の、彼が口ににしたといわれる英語、フランス語の、我々に知りうるテキストを見る限り、その語学力、つまり外国語を用いて第三者と意思を交換する能力は「相当なもの」のようである。「相当」とは、この場合、彼と同年代の、ほぼ同じ経歴の、彼を知る、私の、別の友人の評価だが、わが友は、それをネガティヴな意味を含めて言っていると言わざるを得ない。

知人である大江に関して、それをここに書くのは、私には、非常に心苦しい。然し、現実には、ある意味では、それは、日本人の平均的な外国語の駆使能力と言うことも出来て、彼、大江も、外国語の実技については、もう一歩、明日を目指しての、努力や訓練が求められるという水準らしい。正直に言えば、私も、いい勝負である。彼も、多分、外国語の飛び交う場面での、鮮明な自己主張や、自己説明が必要な場面を、余り経験していないのだろう。

大江を「厳しく評価」した、先ほどの私の友人にしても、私は、放送協会に在籍中に、嘗て、彼をジュネーヴに尋ねたことがあったが、そのフランス語も、ヨーロッパ放送連合の会議やレセプションに一緒に出席した私と、「いい勝負」だった。

「『仏文科卒』即、フランス語の達人」というのは、二十世紀では、若干の例外的な「才人」を、私も数名知ってはいるが、一般には、日本的な「べき論」を前提とした、単なる「神話」だったと思う。

後年、アメリカのダレス国務長官を大磯の私邸に招き、サンフランシスコ講和会議では「全権」だった、当時の首相の吉田茂は、どの位、英語を話せたのだろうか。英語に堪能だと噂の高かった宮沢喜一はどうだったのだろう。ケンブリッジ大学で勉強して、終戦直後の日本で、吉田首相を補佐し、「通産省」という組織を示唆したと言われる、キングズ・イングリッシュを駆使したという白州次郎は、どの位、話せたのだろうか。

ふざけたことを言うようだが、「バべルの塔」の故事の本質は、今も地上に生きていると私は思う。

外国語で買い物が出来たり、その国で、レストランで食事が出来ることと、自分の「業務」に関連して、過不足なく、その言語を駆使出来ると言うこととは同じではないのである。日本には、言葉には堪能だが、実際の役に立たない「外国語通」が、実に多いことも、私は実例で報告できる。

 

しかし、彼、大江の名誉のためには、ここに、もう一件、私の、ある知人の話を披露した方が良いと思う。

私のその知人はフランス人だったが、日本語に極めて精通していて、彼、大江健三郎の作品の仏訳も手がけていた。その、然る女性の話では、彼の文章の構文がフランス人には判り易くて、従って、フランス語に訳し易かったとのことである。結構なことだと思う。ただ、それが、書いた側の日本語としてどうであるかということとは別の問題かもしれないけれども。

 

彼は、若しかすると、「話す言葉」の世界の「文人」ではなくて、「書く言葉」の世界での「勇気のある文人」とでも呼ばれるべき人かも知れない。「文人」、即ち、古典的に、「文字の人」であるという意味に於いて。

 

ただ、しかし、また、その「文字の人」の「自筆の文字」に関して、ここに、若しかすると私の記憶違いかもしれないことが一つある。

大江が書いた「大衆」という文字である。私以外にも、別のところで、その文字を見たことのある人も、大勢いると思う。

 

私は、四十代の頃、放送協会の国際局の欧米部長の責に任じられていたことがある。そこは、短波を用いたラジオの放送を手段として、全世界に日本の実情や日本人の考え方などを知らせる「国際放送」の実施部局だった。

その頃、世界に向かって、日本の文化を紹介するプロジェクトがあり、私は、その「班長」でもあった。様々な企画の一つに、日本の著名人に依頼して、その人たちに、日本の文化、つまり、自分の生まれ育った国の文化の特徴を語ってもらうという、受信者から、やや期待してもらっても好い番組があった。そして、事実、好評であった。  

その企画の中で、大江にも出演して、自論を語ってもらってはどうかという提案が、若い職員から出た。私は賛成だった。皆も賛成した。

原稿が来た。私は直接の編集責任者ではなかったが、作業が終わって、重要資料を保存に回した後、廃棄のために、その若手の担当職員が区分していた、不要になった関連資料の中に、偶然、大江の手書きの原稿のコピーの一部が残っていた。台本作成用の、直筆の原稿の、作業用のコピーらしかった。藤原定家、弘法大師つまり空海、夏目漱石や三島由紀夫など、様々な人の手書きの文字に興味があったので、そうした興味から私はそれを手にした。

 

(出版関係の、ある友人が、大江の原稿の写しだといって、大切に「保管」していたものである。)

 

大江の書いた日本語の手書きの原稿は、多分、彼の郷里、松山郊外の内子町にあると聴く「大江記念館」にも保存、展示されていると思うのだが、そのとき私が目にしたものに関しては、はっきり言って、その文字は余り上手なものではなかった。達筆、名筆でもなかった。文字の大小は不揃いで、一種、「殴り書き」のようにも見えた。然し、それも好い。元気のある文字だった。

ただ、一点、一つの文字に、私は目を疑った記憶がある。誤字である。しかも、知性、人格に関われるとでも思われる誤字である。何度も見直したが、「見間違い」ではない。その一字だけではなく、その文字が数回繰返されていた。

 

「大衆」と書く積りの文字だった。然し、「衆」が私には、そう読めなかった。ここにプリントされているように、「衆」は「血」の下に、「人」を意味する記号を三つ並べたものである。「血」を同じくする人たちが大勢集まるという意味だと小学校でも高学年の時だったが、聴いた記憶があった。その頃の「手習い」で、自宅で毛筆を手にして机に向かっていた時に、八十に近かった祖母が「『豚』の右側と間違えてはイケン(「駄目」)よ、それはイノシシのことだから」と笑いながら、伊勢桑名の士族訛りで言うのを聴いた記憶が私にはあった。「国語」などの試験の前には、「血の下に人、人、人……」と、この文字に関して自分に念を押した記憶が私にはあった。

ところが大江の「大衆」の「衆」には「我がバアチャン」が注意していた「イノシシ」が元気よく書いてあった。

勿論、こうしたことは、大江のノーベル文学賞には、直接的な関係はないだろうが、その名誉ある受賞者の、全人間的な完成度とでもいうものを問題にするとすれば、少し惜しまれる現象ではある様に私には思われるのである。

 

大江の「作品」が印刷メディアに載る時には、必ず編集者の目と手を経ているはずなのだが、そうした中間介在者には、一種の「寛容さ」があって、文字という「符号」の奥を読む能力と習性がある。本人に指摘しない。

書かれた「文字」は、単なる符丁であって、その巧拙に問題はない……の、かもしれない。

しかし、「正誤」は、やはり、本当は、一つの、大きな問題ではないか。

放送……ラジオやテレビでは論者の文字を目にすることはない。声や表情は論者についての多くの情報を与えてくれるが、それらは、思考や思想の内容の根底にある、その人の人間的な「価値」や「特性」を充分には伝えていない。我々は、どこかで「適当に」頷き合っている点がありそうである。

しかし、また、「文字は人なり……」という言葉があるし、その言葉の意味も、まだ廃れてはいないと私は思っている。鴎外や漱石たちは、その点、どうだったのだろう。モンテーニュやパスカル、サルトルやボーヴォワール、孔子や孟子には「誤字」や「あて字」は無かったのだろうか。

また、大江は、「仏文科」だから好かったのであって、若し「国文科」だったら、漢字の使い方という点では、一寸、卒業のための点数が充分ではなかったかも知れないと私は思う。

 

それら総ては私の記憶違いであり、「事実の誤認」であったことを、今、私は願っている。これも、「交際の過程で知りえた事実の漏洩」に当り、私は「友情の倫理」に違反する「不埒者」であろうか。

しかし、それも、もう時効だと思うのだが、全てが私の錯覚であったことを祈りつつ、この誤字の指摘が事実と異なるものであった場合には、私は謹んで深謝したいと思っている。

 

その、大江の作品を仏訳したフランス人夫人ではなくて、彼の外国語の会話の能力を推測した、先に挙げた友人が言ったのだが、大江はまた、「観念の中では、まだ《仏文科》にいる男」かもしれない。

 

私の職場周辺にも、数えてみると、そのような「観念の中での《仏文科》」の人が四、五人はいた。しかし、それはそれで、日本の社会の中だけでだが、その人たちの、一つの幸運であり、それで良いのだろうと私は思っている。

 

話が少し反れるが、私は、嘗て、インドネシア共和国のジャワ、ジョクジャカルタにある、インドネシア政府、情報省の、「ラジオ・テレビ放送訓練センター」という施設の、日本側の代表を二年間ほど務めたことがある。そして、そこには、私の指揮下に「東大仏文科卒」の人が一人居た。その人は、スタンダールを「研究した」とのことだった。しかし、彼には、その文豪の、「南国イタリアへの情熱」を語る姿勢は見えなかった。彼はまた、ジャワにあっては、「仏文科」と、どういう関係があったのか、自然食品に対して、一種、宗教的、狂信的とでも言える、異常な興味を見せ、と言うと聞こえが好いかも知れないが、異境に来て、要するに「日本食」に、異様に執着して、ホテルの部屋での自炊に固執していたのだが、フランス語が読めず、また、それ故に、当然、フランス語を話せなかった。

 

その施設は、日本が少なくない財政支出を伴う協力によって開設されたもので、かの国の自慢の施設だった。諸外国からの「見学」などの訪問者も多かった。その中には、「ユネスコ」などの国際機関の高位の要人も含まれていて、その様な人たちは、インドネシア側が差し出した色紙のような紙片に訪問の所感を書き残していった。殆んどが、当たり障りの無い賞賛の言葉だったが、インドネシア側にとっては貴重な「戦利品」のようにも見えた。そうした色紙には、フランス語で書かれたものも数枚あった。その殆んどは、卒なく国際儀礼を満たす文言のもので、それなりに、書いた人の知性や品格、人柄などを物語る立派なものであった。

 

赴任当初、私は、正直なところ、慣れないインドネシア語での生活に疲労を感じることもあった。フランス語が懐かしいと言っては気障(きざ)かもしれないし、大袈裟だが、私はパリやノルマンディなどに、合計で三年余、暮らしたことがあるので、その種の文書の内容の意味や価値は判る程度の読解力はあった。

それらを読むと、「途上国発展の一つの鍵は若い世代の知的水準にある……」などとも書いてあり、その訓練センターの、その国での今日的で、歴史的意義を強調するものが多かった。それを見ると、諸外国の要人の考え方が判るので、私はそれを、我が「東大仏文科卒」にも読むように勧めた。

ところが、彼は、そのマニュスクリ、即ち、手書きの文書(もんじょ)が読めなかった。こんな下手な字は読めないと言ったので、私が筆写して、メモで渡した。すると、これは「外国人」のフランス語であり、自分はパリの、本物のフランス語しか判らないと、「本物」が判る人なら、絶対に言わないことを言った。その辺りから、彼が「偽者」であることが判り始めた。「田舎のフランス語」は自分には判らないとも言った。改めてその経歴や海外旅行とか海外生活などの体験を糾したら、大分県出身の、名医の娘と結婚していることが自慢の、妙に些細なことについての記憶だけが確かな人物で、嘗て、その田舎で「神童」だった彼は、「未だ」パリには行ったことがないと言った。

不幸な例外であって、一般化は危険かもしれないが、彼は、依然、自分は「東大仏文科卒」だと言い張っていた。あんな男でも卒業できたとはと、「東大」の、世に言う「貫禄」の正体が察せられるような男だった。面倒なものは、早いうちに排出してしまえという、新陳代謝を急ぐ生体の作動原理が東大にはあったのかどうかまでは判らないけれども……。やはりそこも、ある意味では、組織生命体一般と同様に「歩留まり」の世界だったのだろう。そのため、彼は、東大が、江戸幕府所属の「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」だった頃の、その事務所の、不出来な「書生」でもあったのかと私は思うことにしていた。

 

私は、定年退職後、関連団体の放送出版という会社で数年間働いた。そこの総務部の「偉い人」も「東大仏文」の由だったが、「気位」以外には、その証拠としてのフランスについての知識や「センス」を私には見せてくれなかった。

あるとき、外部の、ある人物ついて、フランスに関する現実的な知識に偏りがあると見えたので、私は、その委嘱に反対したのだが、その候補の翻訳家は、パリ西郊、デファンス地区、ヌイイの近くの、その頃出来た、やや新しい建物、「国際会議センター」が「パレ・デ・コングレ」と呼ばれているのを、その人は「国会議事堂」と訳していた。私は、それを明かな誤訳であると指摘し、パリのコンコルド広場の、セーヌ川を渡った南側にある「アサンブレ・ナシオナル」が、「国民議会」と呼ばれる、フランスの、言わば、国会議事堂だと説明したのだが、私の言っている、そのファクト(事実)の意味が彼には理解できなかった。不思議な「仏文出身者」だった。言い換えれば、歴史も政治も、そして地理についても、勿論、真剣に考える姿勢と能力のない者の、それは知的な意味での視野狭窄であって、世俗の常識を知的な財産と取り違えた、極めて日本的な現象だと私は思う。

 

その職場では、私は、当初、ラジオのフランス語講座のテキストを担当したが、後に、翻訳書全般を扱う係りに転じて、その後任に、別の「東大仏文科卒」が来た。その人は、腰の低い、謙虚にも見える人だったが、フランスについての知識も、水準的に「謙虚」だった。フランス語については、東大で何をしてきたのか、腰ではなくて知識の水準が低かった。つまり、フランス語の基本的な特徴については、ほぼ無知だった。

彼の、その作業の執り扱いに関して、僅かに、これだけの材料で彼の人間的な価値にまで論及するのは、失礼であり、危険かもしれないが、彼の年次の「仏文科」は、何か、卒業証書が、乱発気味だったのではないかと私は思った。

 

そのラジオで学ぶフランス語のテキストには、私が担当していた時には、普通、フランス関連の読み物を添えて発行してきていて、それにもある程度、人気があった。その編集方針は、その後も継承されていた。

ある日、その「謙虚」氏が、真っ黒になって怒っていた。穏かな人にしては珍しいので理由を糾すと、「東大の恥だ!」という。穏かではない。詳しく聴いたら、彼は、先ず、私も「東大仏文」と思っていたらしい。

しかし、私は違う。七人姉妹の母の、末の妹の夫である叔父は、「東大仏文」で、その叔父がバルザックの作品を訳して、それが出版されたことはある。しかし、私は「名大経済」だと言ったら、急に彼の態度が変わった。

「名大経済」は、彼らから見れば、不見識にも「ゴミ」らしかった。「名大経済」には、知る人ぞ、知る、ジョン・メイナード・ケインズの代表著書「雇用、利子及び貨幣に関する一般理論」などを翻訳して、わが国にその理論を紹介した塩野谷九十九(しおのや・つくも)教授も居られて、私もその教授に教わり、それを勉強し、イギリスで、歴史の早期に成長発展し、欧米各国や世界各国でも作動していた、基礎的な意味での、現代社会の経済構造や、その動態の学術的な追跡、つまり、現代産業社会の作動原理の考察の参考にしていたのだが、そうした研究者は、「人間精神の高級な上部構造の追跡者」である、不幸な「仏文」の卒業者の彼にとっては関係のない存在らしかった。

 

東大へ行かなかった私が、東大を出た人の中の、何故か、比較的多く見かける、人格的に疑問を与える人のことを論評すると、ほとんどの人が、私に「東大コンプレックス」があるという。日本的な言いがかりである。

 

東大を出て就職すると、官僚の世界では勿論、一般の大小の企業でも、早く要職に付けるし、従って収入や生活水準にも恵まれるために、それを狙って子女を教育するのが、ある意味で社会的な流行になって久しい。

直ぐ後で話すことになるが、私は、行けなかったのではなくて、行かなかったのだが、それでは説明になっていないらしい。

些細な私事だが、昔、恋人同士になりかかっていて、それが稔らなかった、ある妙齢で、西国から東京へ出てきていた、聡明な早稲田大学文学部卒の、美しいお嬢さんも、私にそう言った。

察するに、東大へ行こうとしなかった私は「損な人」だったらしい。彼女は、その頃、片思いの「東大仏文」のサルトル愛好者を追って、留学で、彼が住んでいた、パリ十四区の「大学都市(シテ・ユニヴェルシテール)」の構内まで、羽田(当時は、長距離空路の基点は羽田だった)からジェット機でシベリアを西に飛び、その寄宿するパビリオンへ、遥々と思いを遂げに行った由である。

だから、人は、私が「振られた」と解釈し、私の言葉は、自分の失恋の「腹癒(はらい)せ」だと言うに違いない。どうぞ、そう言い続けて下さい。彼女との愛の遍歴や顛末については、一時期の彼女の恋人の一人であった男の仁義として、私には、これ以上には、一切それを詳述、他言、論評する意図はないけれども……。

 

日本は、本当のことであっても、それを深くは考えずに、その一方で、皆にそう見えるというだけのことを大切にして、それを一般化できる、気楽な、面白い国だとつくづく思う。

 

有名大学へ、行かなかったのか、行けなかったのかは、その人の事情に過ぎないのだが、それに今尚、拘るのは、情報狭窄的な、一種の後進国現象かもしれない。

アメリカに「ハーバード・コンプレックス」、フランスに「ソルボンヌ・コンプレックス」、イギリスに「オクスフォード・コンプレックス」とか「ケンブリッジ・コンプレックス」があるのだろうか。いや、スペインのマドリッド大学に、イタリアのローマ大学に、ソ連のモスクワ大学に……。中国の北京大学に行かなかった「大人」も大勢いると思う。そして、インドネシアにもジョクジャカルタの名門、ガジャマダ大学に行かなかった人で、立派な人が大勢いるではないか。

日本へキリスト教の布教に来た、フランシスコ・サビエルは、スペイン北部国境地帯のピレネーの山中から、遥々と出てきて、パリ大学へ行った。

また、勿論、これは飛躍だが、イエス・キリストその人の青年時代の遍歴は知らないけれど、釈迦、シッダールタは「インドの名門大学」へは行っていないし、数世紀後の、ニュートンはイギリスの、どのような「最高学府」へは行ったのだろうか。彼が「万有引力」の「発見」に到達した動機は、ロンドンの下町、ピカディリー・サーカスの雑踏に落ちていた「物理学」の本だったと聴く。このあたり、話が、一層、飛躍しているのは判っているが、人が己の人格の形成に至る道は、確かに狭いけれども、それに巡り合う機会は、一般も人たちが決め込んでいるほどには数少なくはないと私は思っている。

むしろ、履歴書や世俗の風評的な評価だけで組織の構成員を選んでゆく、一種、名目倒れの既製品志向とでもいえる、今の日本の社会の脆さが、顕在化していない、この、日本という国は、国自体が遅れているか、それでも皆が仲良く生きてゆける、物質などの諸条件に恵まれた、人類歴史上の珍しい国なのではないかと、私は、やや本気で考えている。

 

民が貧しく、教育機関が未成熟で、国の全般的な教育水準が低い場合ならいざ知らず、書籍印刷機関が健全に成熟し、住居も、食生活も、電灯、光熱装置も充実していて、何時でも好きなときに読書も出来るこの国では、普通に「読み書き」が出来る教育を受けた者が、どこで高等教育を受けようと、大切なのは、その当人の、社会生活の場での、知的且つ人格的な問題であって、「出来る人」になっていれば、その人が、どこの大学を出たかは、実は、余り問題にならないのだと思う。はっきり言えば、未だに、それを論じる者は一種の「暇(ひま)人」か、「物好きな人」だと思う。特定の百貨店でしか物を買わず、鞄は、例えばルイ・ヴィトン、ネクタイはエルメスだ、などということに拘るのに似た、一種の「人格判断狭窄症」の人間だろう。

 

そんな人は、パリではなくて、バリの、サヌールの、カブパテン・デンパサールのジャラン・ダナウ・タンブリンガンの、プラウ・ペニダ・ビーチ・ホテルの筋向いの店「アルジュノ」の、製造工程の都合で、数少ない鞄が、これは事実なのだが、欧米の、女優何某、名優何某たちと、某国、領事夫人愛用の、未だ余り知られていない、「HAR」の図案が小粋な、隠れた名品だと聴けば、明日の朝にでも「ガルーダ航空」のカウンターに、早めに並ぶと好いだろう。値段の交渉に備えて、やや複雑なインドネシア語の、三級程度の実力を前提にしての話だが。

 

右にも言ったように、「東大仏文」だった叔父を通して、その世界を推測する環境は私にあった。

高校三年生の八月、バレーボールの選手だった私は、熱海で行われた東海四県高校選手権大会に三重県代表チームのフォワード・センターで出場し、当時の強豪、韮山高校に敗退した後、東京世田谷の経堂にいた叔父を訪ねた。

初めて独りで行った東京だった。叔父は、上野の国立博物館などを案内した後、僕の母校だといって本郷の東大の構内も案内してくれた。学部ごとにパビリオンが分かれていたように記憶している。叔父は多分、私用もあってか、フランス文学科の研究室の図書室のようなところへも連れていってくれた。真夏の構内の階段でも蔵書の紙の独特の匂いが心地よく鼻を衝(つ)いた。

 

「文学か……」と、その学問の分野のことを私は考えた。伊勢桑名の、田舎の高校生だった私には、国語の時間などで習う鴎外や藤村や漱石などが、自分の生活の範囲を超えた、とても高いところの人で、人生の諸相や人間の生活や生き方の描写や解説は、自分は、それを「窺い」、「学ぶ」位置にはあるが、人生という「実際の生活」が確立していなければ、そうした「大それた」ことは出来ないし、また、すべきでもないとも思っていた。樋口一葉の「おおつごもり」などを読むと、やはりその見方が正しいと思うと考えていた。

「文学」は、社会の上部構造を成すものであり、生きてゆく個人にとっては、それを生む社会そのもの、いわば「社会の下部構造」の習得が先ず必要なことに思われた。文学は、実生活の、どの場面からでも生れる潜在性を持つ、人文現象だと思うのだが、それを描くためには、それを叙述する生活の体験が無ければならないし、そのためには、生きてゆくための、広い意味で漠然と考えられる「生活の力」が個人にか、家系になければ、一つの人生を生きてゆけないではないか、だから、「文学」というものは、「物心共に余裕のある人」の勉学の対象であり、九州の佐賀から出てきている叔父も、家が、やや裕福で、彼が長男ではなく次男だったから、彼も東京へ出てくることが出来たのかもしれないと私は短絡的に彼を判断していたのだった。

「文学」は、そして、「フランス文学」はフランス語という手段を用いて、一つの民族の精神的な活動や、その文化的な遺産を眺める、いわば「人類の文化現象」の一つを、「その余裕がある人」が考究するものだと十八歳の私は判断したのだった。

ヴェルレーヌやアルチュール・ランボー、ヴィクトル・ユゴーやバルザック……。モンテーニュもパスカルも……、真実や情熱を、明快で、美しい言葉で表現していると見られる、かの国の言葉の豊かな林、その中を悠然と逍遥出来たら「かっこよくて」善いだろな、いつの日か、自分もそれを覗いては見たい、その「人類の文化現象」を見ることは忘れてはならない。然し、それは、「何れの日にかの、自分の宿題だ……」。それがそのときの私の結論だった。

 

伊勢桑名の、戦災で焼けた後の、私の家の隣の「お兄ちゃん」が、名古屋の第八高等学校へ行っていた。「金色夜叉」のお宮を熱海の海岸で蹴った間貫一(はざま・かんいち)が着ていたような黒い「マント」……後に、六十歳も過ぎてから、妻と観光旅行で行ってみて判ったのだが、それはポルトガルの、古い大学都市コインブラの大学の、大学生の伝統的な衣裳だった……が恰好よくて、自分も着て歩いてみたい風情だった。

 

中学校四年生になれば、「勉強さえ出来れば」、その「八高」へ行ける。敗戦で、学校制度は変わったが、桑名の中学校からも、戦後の複雑な学制改革の流れの中で、高校のバレー部の先輩にも、私の思っていた、その、「八高」であった名古屋大学へ行く人が居た。「それにしよう」と私も決めて、「よく勉強して」私は「名大経済」へ行ったのだった。

 

経済学部は、当時、第二外国語は、ほぼ自動的にドイツ語を専攻することになっていた。私も、大学では、最初に習った第二外国語はドイツ語だった。

ドイツ系の経済学者たち、ゾンバルトやマックス・ウェーヴァー、エンゲルスやマルクスを読む前には、ゲーテ、リルケ、トーマス・マン、ヘルマン・ヘッセなどの文学作品も読んだ。特にヘッセは、「青春」というものの描き方が感動的だった。小説「ペーター・カーメンチント」の中だったと思うのだが、少年が、空を流れてゆく雲を眺めて「オー・ディー・ヴォルケン!(おお、雲たちよ!)……」と、空を行く、その、空気中の水蒸気から発生した白い塊りに、夢と、謎と、可能性などを想像して我が身の将来を考えている情景が、私の心に暫くの間、宿り続けていたのを思い出す。

しかし、「名大経済」で経済史を専攻していた時、それは日本経済史だったのだが、日本の農村の、封建社会末期の動向の一部に、フランス革命に至ったフランスでの、一時期の農村の変化過程に類似したものを読み取れると書かれた論文をどこかで読んで、日本の近代化の過程の勉強の、一つの手段としてフランス語の習得の必要を感じたのだった。しかし、学部ではカリキュラムは進むし、フランス語の初歩に舞い戻ろうにも、学科の組み合わせで、今更、フランス語の初歩の講座を選択することは「名大経済」の勉学過程では望めそうになかった。それならば「独学」でと、私は名古屋市内の広小路の「丸善」書店で、白水社の「フランス語の第一歩」という薄い入門書を買って読み始めた。

一方、名古屋の、カトリック系の、南山大学は、前身が「名古屋外国語学校」だった由で、そこにはフランス語の夏期講座があり、また、市内のドレスメーカー女学院の、授業が終った夜間の教室では、名古屋大学と南山大学のフランス語の教授、助教授たちの、地方文化への貢献、サービスと同時に、多分、副収入を目的とした「フランス語講座」があった。

特に、詳しくは、お名前の総ては挙げないが、両大学の錚々たる先生たちが、その夜学の私の先生だった。山川さん、松岡さん、木村さん、工藤さん、成沢さん……。

パリでスタンダールを研究して帰国したばかりの、片岡美智さんが教室へも現れてくれた。そのフランス語、音として初めて聴くフランス語に私は魅せられた。面白かったし、私は幸せだった。あの女性に出来たのだ、真似をすれば自分にも遣れる、きっと遣ってみせる……、と自分に誓いながら、講座が終わって、夜も十一時に近い、名古屋の池下(いけした)の市電の交差点を渡ったのを今でも覚えている。

その後、放送協会へ入り、その組織内に開設された海外留学制度の第二期生として、フランスへ、パリへ、そしてノルマンディのカンへ行った。パリでは、フランス文部省の管轄下と思われるのだが、パリ大学にも属する由の、在留外国人向けのフランス語教習機関、「アリアンス・フランセーズ」へ行き、三ヶ月間、集中的な研修の後、基礎学力が確認できたことを意味する証書を貰った。それには、フランス共和国の領土以外で、フランス人以外に対してなら、フランス語の初歩を教えてもよいという「資格」が含まれていた。私は、鎌倉などでフランス語を講じているが、偽者ではない。そうした技能と知識を背景に、放送協会でも種々の経験を積んできた。その経験は、私に、修めるべき目標を次々に示唆し続けている。

 

それを知らなかった彼、「東大仏文」は、パリから戻り、ジャワから戻った私が、「人類の文化現象の一つとしてのフランス語に通暁している」ことが不思議だったようである。然し、ともかく、フランスとフランス語については、私の方が詳しかったし、当面、私は彼にとっては便利な存在だった。

 

先ほどの話に戻って、その「東大仏文」が憤慨していたのは、パリの南東、ほぼ九十キロの、シャンパーニュ地方の、世界遺産にも登録された「中世市場都市」プロヴァンを、自分の無知から南仏のプロヴァンス(地方)と取り違えていたことが原因だった。同じく「東大仏文」の、そのテキストの原稿を書いた講師は、その町の、十二世紀の、大きな角柱を思わせる、有名な「シザーの塔」を、正常に、紹介していたのだが、「謙虚」氏は、勿論、その中世の町のことを知らなかった。彼はまた、勿論、南仏のプロヴァンス地方へも行ったことがなかった。その南仏の一角を舞台とする映画や小説は沢山あるのだが、彼は何故かそれらにも接して居なかったらしい。彼は、執筆者である「東大教授」から届いた、編集前のその原稿を一読して、「プロヴァン……」と見ただけで、彼には、その世界遺産の町が地中海に面した、あの「情熱の天地」の一角にある町に思えたらしかった。

「東大仏文」ともあろう者が、大事な原稿で、地名の「…ス」を書き忘れている!……。母校の恥だ!と真っ黒になって怒る自分が「母校の恥」であることを彼は認識していなかった。日本は、フランスとの距離、多寡が二万キロの距離を頭の中で克服できない「秀才」の国なのだろうか。

 

大江に戻ろう。

私には、また、彼の対人呼称法に関して、私にも判るフランス語の常識を当てはめて、一点、感じることがある。

 

日本語の二人称は複雑で、「君」「貴方」「貴女」「貴殿」「貴方様」「そちら」「そのほう」とか、「お前」「あんた」「手前」「貴様(きさま)」などと非常に多い。そしてそれは主に封建時代以来の主従などの人間関係を反映している。

一方、フランス語の場合も、歴史的には色々な表現があったようだが、現在では、尊称は「ヴvous」、親称は「チュtu」と、簡便化されてきているように思われる。複数は地位、立場に関係なく、総て「ヴ」である。そして、親友、家族、夫婦、愛人、学友、同僚、同輩とか、共同作業の、単数の仲間はすべて一般には「チュ」であり、子供や、いわゆる「目下」に対しても「チュ」である。フランス語では、その動作を「チュトワイエtutoyerする」という。そして、それが日本語の「君(くん)」「さん」「ちゃん」などと呼ぶ行為に当るのだと思う。

また、「チュ」の代わりに、相手の姓名をそのまま、「呼び捨てに」呼んで、「親しさ」を現す場合もある。

大江は、自分が属する社会での言語の慣習を押し破るのを、何かの壮挙であるとでも思ってか、それを真似ているのである。言い換えれば、「仏文科卒」の、インテリの、そこはかとない「フランスかぶれ」かもしれない。恰も、私の住む「湘南」が、中国の地名の強引な模倣であるかの如く。

 

私はまた、少しインドネシア語を解するが、あのアウストラシア系の言語でも、一人称と二人称は複雑である。古い叙事詩「ラーマヤナ」や「マハーバーラタ」を生んだ文化に連なる「古代インド」の礼式が、あの南海に拡散したものと思われる。然し、二人称単数には、「アンダ(anda)」という単語があって、これが、「俺」、「お前」ほど「むき付け」には聴こえず、さりとて「貴方様(あなたさま)」ほど大袈裟ではない点が私は好きである。日本語で「あんた」と言っているような、相手との間に一定の距離はあるが、冷淡でもない言葉として好ましく私には思えている。また三人称の複数の「彼ら」は「ムレカ(mereka)」であって、多分、偶然だろうが、それが私には何時も「群(むれ)か?」に聴こえて、微笑ましい気持ちになったりするのである。

 

より一層、余談に流れるが、あのアウストラシアの言語には一人称複数の、我々が一般に「我々」を意味する言葉に二種類ある。そして、それは厳格に区別される。即ち、その「我々」が、話をしている相手を含むか否かで、言葉が使い分けられているのである。即ち、話をしている相手を含む「私たち」、「皆様とご一緒の私たち」は「キタ(kita)」であるが、相手を含まない「こちら側だけ」の「我々」「俺たち」は「カミ(kami)」である。その音声が、私には「神」という言葉を想像させるので、この日本列島に流れ着いた我々の先祖の一部が、排他的な一人称複数を「カミ」と称し、それが、同族の、先祖の最高者を崇めて呼ぶことにも通ずる言葉として「神(かみ)」という言葉を生んだのかもしれないと、南国のジャワやバリの海辺で妄想したものだった。

インドネシア人たちが国際社会で、英語で「我々(we)」と叫ぶ場合は、彼らが広く「我々人類」(「キタ」)と言っているのか、「私たち、この多島国インドネシアに住む国民」(「カミ」)を指して言っているのか、我々は、その二つの「我々」を弁別して聴くべきだと思う。

 

大江健三郎が、阿川弘之氏に対しても使ったように、彼が常用する「君(くん)」、「君(きみ)」や「呼び捨て」は、日本の一般的な慣行を強引に無視して見せた、フランス語の「チュトワイエ」の利用の実例であり、一種の「フランスかぶれ」であることの、彼の、密かな自慢だと私には思える。

それは、その言語を、日常的には、余り用いていていない、憧れの、遠い目標を意識し続ける田舎紳士に多いように見える姿勢だが、大江ともなると、その世代や時代をリードする、残念ながら不発に推移した、一つの「精神的なファッション」の芽だったのかもしれない。

 

しかし、また、四国出身の大江は、若しかすると、その遠い先祖の一部が南海から、この列島に流れ着いた人たちであって、その言語感覚の中には、「人称」を今の我々と異なる感覚で用いる点では、彼の中には、古代インドやアウストラシアの言語感覚が受け継がれているのかも知れない。彼もまた、「生粋」の日本人であって、その言語感覚には、「黒潮の子」、「潮流の子」としての「渡来の痕跡」が読み取れるのかも知れない、と言ったら失礼だろうか。

本人に確かめたわけではないが、そして、確かめても、照れ臭いか、馬鹿馬鹿しいかで本当の返事はしないだろう。いや、無理にでも、違った返事をするかもしれない。

さりとて、大江の流儀に逆らって、誰に対しても「さん」とか「様」とか「氏」をつけて呼ぶのも、それが必ずしも、この国一般の礼儀に適(かな)った態度でもないように思われる。真(まこと)に、人間は難しい自尊心の動物であると私は思う。

 

何か、大江だけを特に意識してモノをいっている形だが、三十年ほど前に、あの、大江の「大恩師」であり、「フランス・ルネサンス期の人間精神」についての名著を残されたことで、わが国のインテリといわれる青年男女の間でも著名だった、渡辺一夫(わたなべ・かずお)教授も出席して居られた、有楽町の、然るホテルでの、職場の友人、「東大仏文卒」の、評論家の小中陽太郎(こなか・ようたろう)の結婚式で彼と遭ったときに、その会場で、「君」とは「喧嘩をした仲だ」と、突然、予期していなかった言葉を彼から聴いたのだが、私は、彼の意識の中で、自分が、そんなに「昇格」していたのかと、驚き、且つ、戸惑ったことがあった。その、彼の、二十代後半のころの、その発言の根拠は、半世紀近く経った現在でも私には判らないので、私は、自分を、相当、鈍感な男だと思っている。

私が、彼は他人の言動を過剰気味に意識する人のように見るのはそのためである。

 

その頃、小中陽太郎が、仕事で来日していた、ある外国人女優との一夜の、かなり強引な恋と、それに続いて長期無断欠勤してフランスなどを旅行してきた、その顛末を、然る週刊誌に自ら「叙述」し、それが、非情にも、出版、販売され、放送協会から解雇されたことがあった。彼のその「解雇」を巡って、その友人たちが喧々諤々、議論していた。知性の兄のような、当時、「日本の素顔」などのテレビ番組で、「アクチュアリティのドラマチックなリコンポジション(現実素材の劇的な創造的再構成)」を基本思想としたアメリカの本に学んで気を吐いていた、彼の、理窟上の先輩である吉田直哉(よしだ・なおや)という「名プロデューサー」などは、小中がしたことには論及せずに、「彼も、僕たちに、もう少し心を打ち明けていてくれていたら、有効な助言を出来ていたのに……」などと、百点満点の、敵なのか味方なのか判らないことを言って、結果的には、事件を利用した自己宣伝に終始していた。

余談だが、その吉田を部下に持つた、得意の、当時の彼の、ある上司は、ドキュメンタリーについて、吉田を自慢にするまでは良かったのだが、吉田が言っていたことを取り違えて、番組制作を、「『現実』を劇的に創造することだ!」と、若いプロデューサーたちを叱咤していた。『現実の素材の創造的な再構成』を、滑稽にも「歴史的な現実を創造して」と取り違えて、「歴史の創造」などと、「天地創造の神」を模倣することのようなことを言っていた。彼は、シーザーも、平清盛も、信長や、ナポレオンでもしなかったことを、いや、出来なかったことを部下に訓示していた、「歴史の論理」と、ドキュメンタリーという、一種の現代的な「手芸」とを混同し、浅薄皮相な興奮以外には、日本語と現実の自国の歴史にさえ理解の乏しそうな、「気合い」だけの無知な男だったが、その彼も、「東大卒」だったとのことである。

 

小中は、名古屋時代の二年年下の私の友人だったので、東京へ転勤していた私は、当時、放送協会の新宿、柏木の単身寮に居たのだが、そうした、「友人」の生活の機微に関わることを話題にした飲み会には、私も同席していた。

ある夜も同じで、最初は、西銀座の、新橋に近い飲食街で騒いでいた我々も、より安くて、より寛げる店を求めて、タクシーで新宿方向へ移動していた。年長だったこともあったのか、私が運転手の横に座り、小中と大江ともう一人の小中の友人が後部座席に乗っていた。このくらいのことで小中を解雇するという放送協会は怪しからぬ、とか、大体、日本では、いやこのごろは、若者の行動の本当の意味について、日本の社会は無理解であり、無感動であって許せない、などといった意味のことを叫ぶ酔客の乗った車だった。

雰囲気では、放送協会を代表する形になってしまった私は、別に法理論を踏まえたわけではなかったが、常識的に言って、組織の中での行動の規範は……と、言わざるを得なかった。すると、後部座席から大江が大声で、勢い込んで叫んだ。車は、帝国ホテル旧館の前から田村町方向へ向い、日比谷公園を、大きな銀行の前、公会堂の裏で右折して、国会議事堂のほうへ、緩やかな坂を登っていた。「そういう考え方と言動に僕は反対なのだ!……」と、車の暗い隅から彼が言い続けていた。反対は自由だけれども、その理由を納得させるのは、かなり難しいことではないか、と私が言ったら、渡辺先生は、人間には「自己発見」の努力が必要だと言っておられる、人間の精神は自由だと言った。精神ではなくて、行動の責任だと私が言ったら、君は「反動だ」、と彼が言った。そんなことだから日本には進歩がないのだとも言った。摩り替えてはいけない。日本の問題ではなくて、一人の友人の行動規範の問題ではないか……、と言い返そうと思ったが、タクシーの座席の前後でのやり取りにしてはテーマが重すぎた。論争に負けたわけではなく、彼らの言い分に賛成したわけでもなかったが、「フランス好み」で言えば、アルベール・カミュだったら私と同じことを言っただろうと、そのとき思ったのだが、心に疲労を感じて私は口を閉じた。沈黙の後、我々は新宿で車を降りた。その時のタクシー代は全額、私が払った。

 

当時、私は、放送協会の報道局の政治経済番組部に居て、ラジオやテレビの国会中継番組実施の、現場要員の一人でもあった。政局が沸騰する時には忙しかった。そのため、当時の若干の政治家の風貌や考え方にも少し通じていたし、国会の建物の構造についても、各種委員会の開催場所や、役員とか政党ごとの控え室とか、たとえば、議員食堂とか、どこにトイレがあるかなどといった、瑣末なことまで知っていた。雑談の中で、そのようなことを言った記憶があったが、それを根拠にか、彼らは私を「体制側」の者だ、と思っていた形跡がある。折に触れて、彼らが私に対して、攻撃的、批判的なことを言っていたのは、その点が、彼らの印象に強く残っていたせいかも知れない。そして、そのため、そこからが、多分、大江の側の、飛躍した想像だったと思うのだが、私は、彼にとっては、腐りきった反動的な政治で「僕たち青年」を苦しめる「反動的政治家たち」の論理を追い求める、堕落した、「反動の走狗」に見えていたのかも知れなかった。彼の言葉から思い出せることはそれだけである。彼がその時に言った、「君とは喧嘩をした仲」の意味は、それしか考えられないのである。

そのため、彼は、何か、現実の装置に驚いて、眼の前で推移する事柄の実態や本質を冷静に把握出来ていなかった、「純粋だが、同時に、無知で無責任な、幸せな青年」のようにも、当時の私には見えたのだった。ただ、それが「大江個人」だったのか、「大江たち」としての彼だったのかの区別は、今でも付かないのである。

 

原稿が売れたことと、社会を生きてゆくこととの間にあるものを弁別する姿勢は誰も教えてくれなかったのである。

ノーベル賞受賞のインタヴュの中で、「助かります。賞金の九千万円で、暫く食べてゆけますから……」と言ったときのことも、妙に私の記憶に残っている。昔の話ではあるけれども。

 

このあたり、ここに登場する人たちについての、記述上の私の態度は、相手を、呼び捨てだが、素朴な気持ちからの「親しさ」を伴うものと受けとっていただきたい。同僚、先輩についても皆、態度は同じと理解していただきたい。私の、心の中の敬意と友愛の気持ちは、誰に対しても同じなのだから。

 

話題を、私の「世代」に移したい。

一九四五年、昭和二十年、私が中学校の一年生、十二歳のときに日本は第二次世界大戦、太平洋戦争に負けて、終戦を迎えた。私は、自分の十二歳の夏が、わが国の戦後の再出発の時だった世代である。ここに、敢えてこのように年齢を明示して書くのは、この短い物語を読んで下さっている方が、この中に登場する、私の知己、仲間、友人たちの人生や生き方を、自分の青春や人生と比較して推測なさる参考になるだろうと思うからである。

 私にとっては、戦中と戦後が、「子供」と「大人」の差異と重なることになる。そのため、人間として成熟してきた過程と、所謂、日本の「近代化、国際化」の過程とが重なることになり、その点が、私の生育過程の特徴であるようにも思われるのである。

 その中で一番大きなことは、成人する過程で、私は「徴兵」を考えなくてもよかったことだと思う。勉学の進路とか、職業の選択に際しても、伝え聞く、当時の年長者たちの、人生の進路の選択に関する工夫に含まれていたと思われる「徴兵対策」の必要が、私にはなかったのである。それが無くて当たり前という時代を生きてきたのである。

 

千年ほど前から、日本人男性は、「国に所属する男の義務として」、例えば「防人(さきもり)」として、「西国防衛」のために、「自己負担」で、「国の防衛」に参加しなければならなかった。時代が下ると、封建社会の下では、士族と呼ばれる階層の家の子弟は、自分の一族を食べさせてくれるのが殿様だったから、その殿様がどこか他の殿様と争うときには、自分の「俸禄」を懸けて、その戦いに加勢しなければならなかった。「武士」とはその様な「職業」だったのだと思う。そのようにして千年ほども続いてきた、個人と共同体の利害とのかかわりについての、個人の「人生の消耗」の義務が、昭和二十年の、日本の敗戦、「終戦」で、幸いにも「雲散霧消」した。と、そう言うのが大袈裟だとしても、大きく変化した。

終戦の年の八月十八日には、一部の優秀な友人は「陸軍幼年学校」を「受験」に行くことになっていた。然し、「八月十五日」で、その話は消えた。それは、私にとっては「時の成り行き」に過ぎなかったけれども、私よりも年長だった人たちにとっては、そうした「徴兵」や「受験」は、自分の人生の進路の選択に、非常に大きく影響していたのではなかったか、と私は推測している。

敗戦、終戦の年、それは、日本では、「個人と国家」、人間の、民族的集団としての「社会の構成要員」である男子の権利と義務の内容と範囲が、私の場合には歴史的に大きく変革した年だった。

 

古代国家時代以来、なし崩し的に、当然のように行なわれてきて、明治体制下で、近代国家の装いの中でも継承されていた「国民皆兵(こくみん・かいへい)」は「終戦」とともに無くなった。

現代の日本は「国民皆税負担者」(国民皆税)、「国民皆年金受給者」(国民皆年金)、「国民皆健康被保険者」(国民皆健保)の時代、そして「国民皆有権者」の時代である。政府が、「民主主義」という政治原理によって、建前としては、我々全体を捕捉していることになっている時代なのである。

 

 人間とは何か、個人とは何か、社会とは何か、そして、幸せな生活や生涯とは、どのような日々を送ることかということを、あからさまな欲望や利己心を離れて考えることが出来るような時代に我々は生きている……と、言うのは大袈裟だとしても、歴史的、経済的に、そして、特に国際的な環境の中で、それに近いことが出来ていたことを、私は幸せに思っているのである。何故なら、その頃から暫くの間、そして最近までは、少なくとも我々は国内では「平和を謳歌」出来たが、その間にも国外、海の外では人類社会の「体制」をめぐる熾烈極まる激動が続いていたからである。

 

 小田実と、最初に会った場所はテレビ番組の制作現場だった。私が、三十歳になったばかりの頃のことで、東京、新橋、内幸町の、今では、他の企業のために完全に建て替えられて跡形もない、当時の放送会館の西側、奥の、テレビ放送の急激な拡大に急かれるように造られた新館の五階か六階の広いスタジオの一角だった。私は、放送協会の要員で、放送番組制作側の一人、彼が放送出演者という関係だった。番組の生(なま)放送終了後、烏森(からすもり)界隈で、関係者で雑談し、その後も、それが縁で時折、歓談したが、お互いに仕事が多忙で、頻繁に交流したわけではない。

 

日本中が、一九六四年十月の、東京オリンピックの開催で成功したと浮かれていたころ、そして、第二次世界大戦での敗北後の、再出発国家として、軍備を放棄し、経済発展主体の、いわば内部発酵的な努力に、自らの民族的、国家的エネルギーを集中させていたころ、海外では、世界的に緊張が続いていた米ソの政治的対立、いわゆる東西対立がアジアの一角でも火を噴いた。

フランスのアジアでの植民地の一角であった、インドシナ半島のヴェトナムで、フランスの植民地支配からの独立戦争後の、その国の存続形態をめぐって、実質的には米ソの代理戦争の形で戦闘が激化したのである。そのため、日本国内での、教科書的な、理念として論議されるのみの「世界平和」と、国際情勢の現実の事態との関係を、我々は直視しなければならなくなっていた。

一九六四年八月二日と四日のトンキン湾事件が発端となり、東京オリンピックを挟んで、そうしたアジアの一国の経済的繁栄を、地球規模で言えばローカルな、一つの国の、ささやかで自己陶酔的な楽しみ事であると決め付けるかのごとく、翌年二月七日の、それ以後は「北爆」と呼ばれるようになった、大規模爆撃作戦などに始まるアメリカ軍の戦闘行動がアジアで活発化した。

そのようにして始まった、アメリカのヴェトナム内戦への介入が、アメリカの青年たちを巻き込んだ、長期的で、苛烈な軍事行動となり、戦場へ駆り出されるアメリカの若者たちには、自分たちの人生の意味が判らなくなってしまっていたようだった。

ヴェトナム共産党や南ヴェトナム解放民族戦線の背後には、ソ連をはじめ、中国や、その他の共産主義勢力があり、アメリカ合衆国を先頭とする世界資本主義を、人間の不平等を当然視する資本家集団の独善世界を強行するものだと、その東側は言い、一方、西側は、共産主義理論を掲げる大国の背後には、民族や国家の間に苛酷な支配、被支配関係があり、その世界には経済的な豊かさとか、自由と人権の保障がないとする判断と立場があった。しかも両者は対立と敵対関係にあったため、現実の展開をめぐっては、過剰な宣伝が交錯し、工作員と思える人物の隠密裏の往復や、また金銭、物資、武器などの露骨な「援助」合戦も表裏で活発だったと伝えられている。

そうした世界規模の対立は、陣営存続の人類倫理的な是非の判断と併行して、人間そのものに関して、個人と社会の関係や、その認識、判断を、わが国の若年層にも考えさせ、迫るものであった。

然し、正直なことを言うと、そうした国際緊張や、対立当事国も、わが国にとっては経済的な意味での輸出生産物の顧客である側面が大きく、若干の貿易品目に関して、問題の国々も日本にとっては、主として、一つの、貿易相手国であった。

 

その様に、国際政治の動向や、諸国の政治家たちの思惑で世界が動いてしまっている現実、実質的にはアメリカ合衆国を先頭にした現代資本主義世界と、ソビエト連邦が先頭に立つ国際共産主義国家圏の世界制覇をめぐる軋轢という現実について、素朴と言えば素朴だが、このあたりで一度、我々自身の頭で世界や国家、民族や社会や人間個人の生き方やあり方を考える必要を訴えようと、二年間のアメリカ留学から帰っていた小田が言い出した。

然し、我々、といっても定期的に顔を会わせるグループがあったわけではない。三人、五人と、その時ごとに、都合がつき、気の合う者たちが、新宿、渋谷、新橋、銀座などの大衆的な酒場のある界隈で任意に放談を重ねる、同世代だが、拘束性の全くない、あたかも、海に漂う藻や海草のような自由な集団だった。少なくとも、私には、そのように見えていた。

そうした状況を重ねるうちに、一九六五年四月二十四日、その訴えを具体的に称えようとするグループを、「ベトナムに平和を! 市民文化団体連合」とでも呼んだらどうだろうと小田が言った。そして、仲間もそれに頷き、それが、誰言うとなく、略して「ベ平連」と呼ばれるようになった。

 

中国の、ヒマラヤ山脈に連なる、雲南の奥地に源を発するメコン川などに育まれてきた、インドシナと呼ばれる地域の、南シナ海に面するその地域は、普通は、「ヴェトナム(ヴィエト・ナム)」と呼ばれているのだから、喧しく言えば、その集団も「ヴェ平連」だろうが、日本人の普通の会話の中では「ヴェ」の音は無いので、その地域を「べトナム」と呼び、彼らは、一般には「ベ平連」と呼ばれてきた。

 

その集団には、体格や挙措、態度から小田実が中心的な存在にも見えたが、実際には、それは、特定の中心人物に頼る、意思や感情が劇的に激しく逆巻く様な渦ではなかった。言い方を変えれば、中心が幾つもある一種の集合的な運動だったと言えるかも知れない。

 

小田の他にも、私が僅かに記憶する限りでは、新鮮で骨太な知性を覗かせる若手作家の開高健、終戦直後の首相の一人、吉田茂(よしだ・しげる)の縁者に当る、核廃棄物の安全処理を唱えていた佐久間稔(さくま・みのる)とか、東京大学のフランス文学の大御所とされていた、渡辺一夫教授の直弟子を自認する、先述来の、小中陽太郎などのほか、結晶寸前の高濃度の知性に、どのような形を与えるべきかと模索を続ける、純粋な、多数の若者たちがいた。後に知ることになったり、名前だけを聴いたりした後は、結局そのままという年長、同年、若年の男女も多数いた。当面の哲学的興奮を、直結的に、己の価値の根拠として当世的な評価に結びつけることの方に熱心な、一種、短絡的な自己完成を急ぐ者もいたようである。その時代の若い知性の、ある種の熱気を孕んだ一種の星雲が、そこにあったと言っても好いだろう。

他にも、哲学や思想史などの人文科学、社会科学、理数科学などの、他の分野の明敏な論客も多数居たようだが、その頃のことについては。私には、私の視野と、行動範囲内のことしか判らないし、記憶も無い。

ある意味では、それほど広範な「運動」だったと見てよいのかも知れない。

 

しかし、それは、本来は、ヴェトナムで戦う、あるいは戦わされている米軍兵士に働きかけるとか、アメリカの為政者に国際的行動のあり方で議論を挑むものでもなかった。第三国の冷静な知性が、人類平和のあり方を国際社会に訴えるというものだが、人間には最低限、してはならないことがあるという、素朴といえば素朴な、幼児の理窟のような、当然のことを訴え直す行為に過ぎなかった。しかし、その辺りまで降りてみなければ、現代の経済理論や企業経営哲学、国家繁栄や世界平和のための政治哲学や国際政治理論が本当に正しいのかどうかが議論できないではないかというのが、彼らの発想だった。そして、「べ平連」は、特定の政治的な団体ではなくて、平和の推進、実現を願う者なら誰でも参加できる、そうした意識を共にする市民の集団であると自分たちを説明していた。

然し、それも、組織化された、統一的な合意に基づくものではなかったので、こうした動きの社会的位置付けや、個々人の行動理念には、その人物なりの、様々な個人的特徴があったのも事実だった。

ただ、唱える中味の方向は、大方の賛同を基に、同じ流れを形成していたのは事実だろう。

 

その具体的な当初の行動として、小田の二年間のアメリカ留学の経験を前提に、現状についての日本人の意思をアメリカの市民に訴えるためにアメリカの有力新聞である「ニューヨーク・タイムズ」紙に意見広告を掲載したらどうかと開高健が言い出した。「真ん中や! 中心や! 狙うのは……」と彼が言っていたかどうかは思い出せないが、彼の気持ちの中には、それが在ったと私は思っている。

アメリカ合衆国は、多民族が様々な価値観を前提に、ヨーロッパ大陸での、古い封建社会の発想に基づく精神的桎梏から脱却して、あの大陸に新しい民主主義社会を造り上げた複合的な国家だが、言論が自由であって、民衆が一つの狭隘なドクトリンに従属させられていないと見える国で、健全な知性が民衆の間に多数存在すると見てよい国と考えて、広告掲載には、私も賛成だった。

然し、誰がその作業を実際に推進するのかが問題だった。

ともかく、それを実行、実現しなければ意味が無い。しかし、現実には、殆どの者は自分の職業に追い回されていて具体的に作業を引き受ける者がいなかった。実際に意見広告をアメリカの一流紙に掲載を求めて、原稿を作成し、議論して、推敲し、それを通用する英語に書き直し、効果的な写真映像も選定し、広告代理店などを通して、実際にその新聞社に広告掲載を申し込む……、それらのすべてについての財源を確保し、明快な精算を行うなどの実務の作業があった。また、賛成者の多くは、そう叫ぶことでエネルギーの大半をすり減らしてしまっていて、その「実務」を引き受けるものが殆んどいないのが実情だった。

そこへ、久保圭之介(くぼ・けいのすけ)という、映画で横須賀米軍基地を舞台にした、当時の日本人の群像をつぶさに眺める映画「豚と軍艦」で助監督を務めた、ややシニカルな……とも見られる、現実主義者が登場した。泥をかぶる才能というか、人間のだらしなさや、間に合わなさに対して寛容で、忍耐強く目標を見失わない男だった。その仕事の意義を素早く直感的に悟った彼が、その「広告掲載」の作業を買って出てくれた。

私は、それほど頻繁に久保に会っていたわけではなかった。活動の財源をどうしているのかは私には判らなかったが、作業を考えれば、口で叫ぶだけではいけないと考えて、以前から、勉強のつもりで、仕事の余暇を縫って、ある学者のフランス語の下訳をして得ていた、内職の、僅かな翻訳代金の一部を拠出して、資金面にも少し、個人的に参加した。

その会は、翌年十月十六日に「ベトナムに平和を!市民連合」と名称を少し変更した。意見広告は、その年の十一月に「ニューヨーク・タイムス」紙に掲載され、翌六十七年四月には、画家、岡本太郎が「殺すな」という毛筆文字を組み込んだ図柄を含む意見広告が「ワシントン・ポスト」紙に掲載された。

これらの行動は、今も言ったように、国際政治の現状を動かすために、政治家や外交官として、その当事者に直接接触して言葉を交わし、次の事象に即効的な変化をもたらし得るものではなかった。見方によれば自慰的な、犬の遠吠えのように見た人もいると思う。我々にもそのことは判っていた。一部インテリの自己満足的な「祭り」だと言いたげな顔も多く見た。しかし我々は、この行動を見聞し、行動に触れたり参加したりした人たちが、個々人、己の行動として、次にとるべき自分の判断や、世界観を確認するのに役立たなかったとは思っていない。歴史という河に、杭を一本打つのだという気持ちだった。当時の考え方を、小田はこうした言葉使いでは表現していなかったが、敢えて描写すれば、そのようにもなると私は思う。

そうやって「ベ平連」の初期に小田と言葉を交わし、折に触れて話し合い、彼の考え方と思考の本質を私は理解したと思っている。その後のこの運動の展開については周知の通りである。

 

そのような接触を通して小田を眺めた私の印象では、小田は繊細で、鋭利な剃刀(かみそり)ではなく、鉞(まさかり)のような男で、強靭な意思を秘め、やや直情径行、しかし、その挙措の波紋や飛沫の掛かる人間たちについても、いちいち具体的な始末までは出来なかったが、敏感に気配りする男だった。運動の参加者に関しても、相手によっては、「俺は《ええ(好い)》けど、彼には《きつい》やろ」などと呟くこともあった。先述の小中の問題に関しても、彼は「そんなことをしたら、《食べて行けんやないか》、後を、どうする積りなんや?」と、我々に言った。小中の母にも彼は、同じことを言っていた。言い換えれば、小田には、事態の推移を客観的に予測する、一定の世間知とでも言うのか、下世話な感情を蔑まない側面があった。「社会」という、「集団」の中での個人的な行動に関しては、個々人の状況の、その時点での現実的な利得や感情にも配慮する、人間味ということを大切にする、人間の体温を身近に感じさせつつ、尚且つ、知性や理性の冷静さを保とうと心掛ける男だった。それがある意味では彼の陰影であり、彼に、活劇のヒーローのような、的確、冷厳で、動作に無駄の無い、素早い果敢さを求める者たちにとっては、一種の、意外な女々しさとさえ映ったこともあった。旧式な言い方をすれば、彼はダンディでもなく、スマートでもなかった。また、そう言った外側の姿勢を気にする男でもなかった。風のように空を過(よ)ぎる、隼(はやぶさ)ではなくて、己の一念だけを見据えて、泥田を這って、重い犂を、口数少なく曳いて行く牡牛にも似ていた。

しかし、小田は、心の、見事に透明な男だった。それでいて、いや、それだからこそと言うべきか、時には、自分の意見の背景についての説明は省略して、「そう思うから、そう言うのや」と、堪りかねたように言うのが彼の口癖だったようである。

そんなときの彼は、小鳥や山羊、牛獣鶏禽の群れの中で、澄んだ声音(こわね)で、思いつめたように高く吼える、孤独な猛獣のようでもあった。

 

小田実に関しては、他に、私より、もっと立派で、頭の良い、経験豊かな人たちが大勢いるし、現代的な意味での彼の価値や、彼を刺激や触媒として自分が目覚めた人も多いと思うので、その側面での評価はその人たちに任せたい。ここで書いていることは、当たり前の話だが、私という「メディア」を通してのみ語っていることであり、描写の濃淡粗密は、すべて私の耳目に触れた状況の反映でしかない。

 

 然し、この、平和を希求する問題は、小田や開高たちの情熱や知性を超えた、現実の世界の動き、つまり、彼ら個人の理知的判断を超えた、歴史の現実の展開と、彼らを含む同時代の個々人の総和の問題でもあった。現実は、彼らの叫びや、それに呼応する個々の個性の判断や行動の空間からも離れた、別の遠いところで展開していて、そこでは現に我々と同じ世代の青年の生命が、自分では納得できない、自分の国の動きによって、大袈裟に言えば、時々刻々、失われていた。西にも東にも、どこかに最終的な判断、決断の主体はある筈なのだが、その双方の主体が判断を下すための情報の背景は、偶然も含む複雑至極なものであって、あたかも個人の意思を遥かに越えた、力と力の揉み合いに終始しているように見えた。

……だからこそ、一つの力を感じさせる叫びが必要なのではないか、というのが小田の立場だった。主義主張の、どの派の、どの流れと規定しにくい立場だった。抽象的だから弱く、幼稚だといわれる側面もあったし、どれかの主義からは、未熟と呼ばれ、見えない勢力から計算づくで「利用」される「隙」も充分にあった。しかし、自ずから沸き上って、力の赴くままに打ち寄せてゆく海の波には意思はない。不用意と謗られる隙さえあったかもしれない。しかし、小田は、目標が正しければ、仕方がない、「それでも、ええやんか……」とでも関西弁で言っているようだった。

仮に日本の外務省など職業外交官たちが小田のように、個人的にも深く考えた上で行動したとしても、その外交官は、近代化以来でも、既に一世紀を経ている日本外交のあらゆる利得の計算の上に行動することになり、小村寿太郎たちをはじめとする諸先輩の行動パターンが脳裏を去来して、結局、時の政権の判断に基づく姿勢しか執れなかっただろう。

つまり、あらゆる利害に縛られた政治が動かなければ政府機構は動けないということである。とすると、犬の遠吠えの如きものとあしらわれたかも知れない行動の方が、現実に与えたインパクトとしては貴重なものだったのではなかったかと私は思っている。

また、同世代の青年たち……と言っても、年老いて、二千年紀に入った今では、あれから、ほぼ半世紀後の世代の官僚や政治家から「後期高齢者」などという、同じ時代に生きているという共感の感じられない、統計分類技術の用語しか駆使できない、情緒欠損とでも呼ぶべき、友愛という気持ちの乏しい、人間的な冷静さとも異なる、歪んだ人生観、社会観、世界観で扱われる世代の者たちだが、彼らも自分の環境がもたらす情報の範囲内でしか行動できない多忙な生活者たちだった。しかし、彼らも、小田たちの言っていることには、心のどこかで頷いていたと思う。その意味では、小田も一つの時代を生きたのだと私は思っている。

 

その彼に、私の後輩というか、少し特徴のある友人が、テレビドラマの台本執筆を依頼したことがあった。私が名古屋にいたときの、二歳年下の、先ほどから、既に触れてきている、エリート・プロデューサーの小中陽太郎だった。頭の良い男である。私が名古屋の放送局から、放送協会で、留学生としては制度発足二年目で、最初のフランス留学生としてパリやノルマンディへ行っていたころ、東大仏文を出た自分がフランスへ行けないのを悔しがっていた男である。名古屋を出発する前に、何でもいいからフランスから感想を送ってくれと言っていた彼に、私は、ヨーロッパへ来て見ると、日本で過ごしていたときにも薄々感じていた通り、日本の現代の知的な世界を牛耳っている人たちの多くが、失礼ながら、私には一種の視野狭窄に見えたので、戦後の国際的、社会的経緯に照らすと、日本はまだ、本当のインテリにとっては鎖国、夜明け前だと思うという様な意味のことを雑感に混ぜてパリから書き送ったことがあった。すると鋭敏な小中は、その「鎖国」というテーマで小田に何かドラマを書けといったらしい。小田にもこちらが言っている意味は判ったようだったが、本来、現実を現実の問題として論議の対象にすることが主な関心事だった小田には、ドラマという「虚構」の工夫、案出は気が乗らなかったらしい。小田は、「要するに、吉田松陰(よしだ・しょういん)の心境を理解する様な人間が増えんことにはあかん」という程度のことを口走ったらしい。

小中は、他の脚本家に小田のその感想を伝えて、台本を依頼し、名古屋放送局のローカル番組として「一青年が浜の小船で沖の外国船に向かってゆく……」といった感じのテレビ・ドラマを演出したようである。しかし、私は話に聞くだけでその作品を見ていない。

そのころは、テレビジョンの機器は未発達で、映像は、勿論、モノクロ(白黒)で、それをビデオテープという、電気的な信号で保存する態勢や、それを具現する機材、機器も、地方局の一つだった名古屋の局には、未だ充分にはなかったので、それが、どのような「作品」だったのかを検証する方法が無くて、私は、残念ながら、それは、話に聞くのみである。当時も、歴史的な記録として、よほど大切な、保存価値を認められる、動く映像については、テレビの画面をフィルムで同時撮影する、キネスコープという、光学的な収録方法はあったけれども、その番組は、その「キネコ撮り」に値しないとされたのか、それとも小中自身が、その手法に通じていなかったのか、ともかく、その「作品」の映像は資料室にも残っていない。

 

私が一年間のフランス留学を終えて、名古屋の任地へ復帰した後、翌一九六三年、昭和三十八年の夏、東京の政治経済番組部という部署へ転勤したのは、私が、三十歳の秋のことであった。東京オリンピックで、語学記者と呼ぶ外国語要員が要るという、一種の必需品臨時調達人事のようだった。

 

私の、彼ら小田や開高たちとの具体的な接触は、先に挙げた小中陽太郎という二歳下の演劇やドラマの番組の制作を目指す、気鋭の新人プロデューサーや、その一歳年上の、やはり軽音楽や演劇番組の制作者となることを希望する林叡作(はやし・えいさく)というプロデューサーを通してだった。

小中は東京大学フランス文学科卒業で、そのころ仏文青年たちの慈父のごとき存在と呼ばれていた渡辺一夫教授の門下生を自負していた。彼、自らは、筆名ロートレアモン、実名をイジドール・デュカスという、作品に「マルドロールの歌」という長編散文詩のある、フランス十九世紀半ばの作家を「研究」したというフランス文学の優秀な学生だった。しかし、若干の例外はあったが、殆んどの仏文科の卒業生と同じように、彼も、フランス語の読解、作文、会話などは充分、堪能には出来ず、今後の努力を求められる程度の実力と見受けられた。専攻した外国語を、その言語が話される、その言葉の母国で、生活を通して体験できない、当時の日本では、致し方のないことだった。中国へ渡ったことのない漢学者の中国語をフランス語に置き換えたようなものだった。

林は、父親が「毎日音楽コンクール」の審査員をしていた名バイオリニストで、良き時代のパリにも滞在経験のあるエリート芸術家の一人息子だった。彼は父親の才能を継承するには不似合いな、慶応大学の経済学部を卒業していた。しかし、父親のその音楽的才能を、軽音楽と、その世界の人脈的な動静の把握に発揮していたらしい。彼は特定の楽器の名手ではなく、またフランス語は使いものになって居なかったし、英語も日本の普通の大卒者程度、つまり、欧米人との実際の会話に直ぐには役立つものではなかった。現代東京の最先端の空気を素直に心に孕んだ、最先端の日本の青年の一人だったけれども。

 

私はここで、大切な友人である彼らの人間的な水準や努力の成果を誹謗、蔑視しているのではない。当時の日本には国際環境と日常生活で実地に自らを鍛える機会に恵まれる環境がなかったと言っているのである。つまり努力のフィールドの狭い国際的環境を脱却できない社会環境の中の青年たちだったとでも言えばよいのだろうか。要するに、少し意地悪く言えば、二人とも東京の有名大学を、ある程度の成績で卒業した、閉鎖文明国の、やや恵まれていると同時に、公平に見て能力発揮の場面に恵まれずに、力をもてあましているお坊ちゃんプロデューサーたちだった。

然し、小中については、彼の名誉のために言い添えると、小中は、その年次の放送協会の新入職員の序列は一番で、今はもう影も形もなくなってしまった、新橋、田村町の放送会館の第一スタジオでの「入社式」では、新入職員を代表して、後にフランス大使になった古垣鉄郎(ふるがき・てつろう)会長の前で、「私たちはこれから全国に散ってゆきますが、虹のように電波が輝くでしょう」(小中の自著「ラメール母」175ページ)などと、フランスの幼児絵本「キャロリーヌ」の一ページのような決意の挨拶を述べた男だった。そのときの経過としては、成績は優秀な男だった。

 小中は、後に問題を起こして放送協会を解雇されたが、その遠い原因は、私のフランス留学にもあった。しかし、それを話し始めると長くなるので、その話を詳述する機会は、多分、もう無いだろうが、ともかく、それは、他の機会に廻すことにして、小田との関係の始まりに話を移す。

 

 確かに、あのころの青年たちは、すでに戦後の状況下を、大きな規模で動いている国際社会を、肌で、直接、経験的に知る機会を持ち得ない、日本独特の島国的条件の中で生きる不幸な若者たちだった。具体的には、明治以来膨張してきた、客観性の乏しい自尊心の一つの結果として大戦争に敗北したあとの、わが国の国際的な経済力の劣勢が原因で、庶民にとっては、外国へ行きたくても、渡航費、滞在費、活動費に当てる当該国通貨を入手することが非常に困難だった。当時、米ドルが国際通貨と看做されていたが、日本国内で米ドルを自由に取得することは先ず無理で、市中の銀行でアメリカのドルを買おうにも外国為替管理法の厳しい制限があった。公的に認められた者でも外貨の持ち出しは一年間に二百ドルしか認められていなかった。政治家、政府関係者以外では、政府留学生になるか、重要企業の公式の海外派遣者とか、海外の篤志財団などからの支援を享受する者である場合を除いては、海外への「留学」などの渡航は出来ない時代だった。小田が喩え話として言ったように、日本は、経済的な意味でだが、まるで幕末の鎖国と同じ状態が続いているようだった。青年たちは、世界の新事情を知るべきだと自覚して浦賀でペリーの船に近づいて果たせなかった吉田松陰にも似た状況だった。

 

ただ、このように私が想像し、引用しているテーマに関して、現在も、浦賀で、ペリー来航当時の事情を、現存する資料を通して出来るだけ詳しく知る努力をしている私の知人の話を聴くと、松蔭の「悲劇」も、ペリーの側の密出国者に対する外交的苦情とか、幕府側の不寛容という通念的な解釈が必ずしも正しいとは言えないことのようである。

 

「松蔭」を閉塞時代の「情熱の象徴」とする見方にも、冷静な考察が要るように私には思える。別の角度から見れば、情熱や欲求の吐露とは違った次元での、外部接触の際の、人間としての基本的な行動様式や態度の反省も必要ではないかと私は思う。

 

彼らは小船でペリーの軍艦に乗りつけ、艦上で渡航を懇願した。相手には「懇願」の意図は判らなかっただろうが、渡航の「意思」は判ったと思う。一般に、航海の雑務には人手は要る。だから彼らも、的確と思える者なら、水夫、雑役夫として使ってもよいと考えていた。現に軍艦には中国人など非アメリカ人の乗組員はいた。末端の通訳として、無名の日本人もいたようである。現に幕府の「厳戒網」を破ってその艦まで来ているのだから、密航だ何だと「こと」を荒立てなくても、彼らを「無害」または「利用価値あり」と感じれば、平気でその青年たちを連れて行っただろう。国家間で咎められれば、漂流民の「海難救助」という「人道的行為」だと言い返す方法だってあったのだから。

 

ところで、彼ら「青年たち」は、多分、着物に袴をはき、草履ばきだっただろう。それもよい。ただ、当時の日本人の、その種の旅行者に共通していたことだったと思うのだが、そして、失礼だろうが、若しかしたら、身体は汗と垢にまみれて、異臭を放っていたと思われる。虱も襟元で動いていたかもしれない。

地球上で、温帯に属する日本は、その程度の衛生状態でも、特定の難しい疾病気で一般の庶民が非常に大きな不幸には、見舞われることのない国だった。勿論、過去には、天然痘の感染によって、北方在住のアイヌ民族が大きな被害を蒙ったり、マラリアが沖縄で猛威を揮ったりした事態はあったのだが、全般には西欧でのペストや黒死病のような矯激な伝染病からは免れて、運良く、安全だったと見られてきている。

一方、ペリーたち船乗りが最も警戒する事柄に「防疫」があった。不潔な者が持ち込む伝染病などの船内への感染には常に強い警戒心を抱いていた。松陰たちが口にしている「目的」は判らないが、「渡航」の希望の「意思」は判る。「黒船」側は、必要な、あるいは「有用な人手」としての人間の収容くらいは平気でやっていたと思われる。然し、「防疫上」問題になる種類の人間の接近は、そちらでも管理してもらいたい……ペリーの日本側への通知は、密出国者の摘発ではなく、「衛生管理」の観点からの港湾管理の要求ではなかったのか。

こんな言葉は無いだろうが、あえて言葉にすれば「衛生の国際化」とでも言える自覚が、異民族との接触を通じて、少なくとも船乗りの責任者たちの間では自覚され始めていた時代だったのだと思う。

私は山口県の萩へも行ったことがあるが、そこは清潔な街である。松下村塾も、松蔭神社も感慨深く見た。当時の建物を利用する、彼の「精神」を継承する学校の存続も敬意を持って見せてもらった。半世紀前、父も松蔭に対する敬意を私に教えていた。だから私自身と日本人の間にある松蔭に対する敬意は微動だにしないのだが、やはり、それ故にこそ言わなければならないことがある。

未知の人間との接触に際しての、方法、手順、作法の工夫の知恵の必要である。どうしても知る必要のあるものへの接近の工夫と、その実現の知恵である。松蔭はアメリカの黒船の船上で何と言ったのかは判らない。しかし通じなかったし、信じさせること、警戒心を解くことは出来なかった。その「知恵」が必要だったと私は思う。

「汝の国の実情を知りたい、俺は本気だ。いい加減な男ではないのだ……」、松蔭はそう言っていたのだと思う。それをペリー側に、どうすれば理解させることが出来たのだろうか。

しかし、ここで言うべきかどうかを躊躇うが、中国の哲人、孔子(こうし)は言っている、「知なき愛は、すなわち狂、知なき力は、すなわち暴」と。

孔子が難しすぎたら「一休さん」の知恵でもよい。

その配慮や知恵の欠如を私は、非難めかして言っているのではない。その必要までも、身を持って我々に教えている松蔭への敬意を、私はここで述べている積りである。

だから、男はトップ・ファッションに類するブレザーなどを着ろ、ローションを使え、英会話を習えなどとは言っていない積りである。笑われるだろうが、ただ、人に会う前には、特に、異国の要人と会う前には、日本の、この風土の中では、ともかく風呂には入って身体を流しておこうよ、と私は言っているだけのことである。

実は、これは、単に生活上の動作の問題ではなくて、日本人の精神生活面での、自分の人生の問題としても、そうした動作の認識の必要性の自覚を、強固で、新鮮で、清潔で、同時に柔軟な心の姿勢として保っているべきことだと私は思っているのだが……。

ペリーたちは、確かに「進んだ文明」を背景に日本へやってきたが、その文明は何処かの超人がアメリカで彼らに特別に与えたのではない。それは彼らが苦しみや失敗、様々な試行錯誤の上に創りあげたものであった。彼らの生活様式がスマートで合理的に見えたのは、彼らに優れた衣装センスがあったからではない。どうすれば安全で快適な生活が出来るかを工夫している中で、一寸したセンスが働いて、それらが生れたのである。一般に、民族衣装の優れた合理性はそこから来ているのだと私は思う。それを着たらその民族のように行動できるかのごとく、様々な物真似の衣裳が、最近のわが国、国内の、首都の目抜き通りに溢れるのとは話の主客が違うのである。そうした状況下でペリーたちは船で海を、太平洋、大西洋、インド洋と経巡り、渡り、瘴癘極寒の海で生き残る工夫も重ねるうちに、伝染病や風土病などで、恐らく何名かの病死者も出す経験を経て、仲間に加えて好い人間かどうかを見極める対人接触技術や未知の人物に対する衛生面での対応基準を持っていたのだと思う。

ペリーが、文明度の高いという意味での、「進んだ異人さんの世界」に育った優秀なお坊ちゃんだったわけではない。あらゆる面で生き残ること、執拗に生き延びることを弁えた男が、新しい世界との接触のために東京湾口へ来ていたのである。

 

あの時代に来航した諸外国人を、横浜で馬車に乗るためにやってきたお洒落な異人さんと見るのは間違いである。

何も工夫しなくても、と、表現するのは言いすぎだが、それなりに安全で、それなりに豊かに生きることが出来ていたのは、地球上の温帯地域に生息し、寒暖の苛酷さには、さほどは攻められず、山海の食物にも比較的恵まれた風土の中の、島国日本の人間だけである。   

日本は美しい国だと外人は言う。言う人の国にもよるが、概してその言葉は彼らの本心だと思う。日本はまた、最近でこそ飲料水の汚染が問題にされているが、元来は、天然の水をそのまま飲める国だった。境遇の、恵まれた特殊性を、地上の一般的で普通の状況と考えて組み立てる世界観は、それ自体が歪んでいるのだが、幸せに過ごしてきた者には、その幸せの意味さえ判らない。それを自覚させるのはかなり難しいことだった。犠牲者が出なければ人々はその怖さを自覚できなかったのだから。そうした状況は、実は今でも余り変っていないと私は思っている。

松蔭自身が、ペリー側が警戒しなければならない病気を持っていたとか、いなかったという問題ではなく、また、松蔭も威儀を正して行ったかもしれなかったのだが、ペリーの側から見て、その総体が、彼らの「常識的」な基準に照らして「通常」なら収容したかもしれない密航希望者とは受け取られなかったのである。松蔭の日本脱出失敗は高くついたのである。

 

 以上は、私の幼稚な想像力を基に考えてみた推測でしかないのだから、これを読んで、何と幼稚な!と感じられた方や、より一層、詳細で正確な情報をお持ちの方は、寛い心でそれをお教えいただけると有難い。

 

フランスへ発つ前に、私は小中に名古屋の広小路界隈の、とある小さな酒場で言った。俺は幸運にも外国を見てくることが出来るが、君も何とかして、局内の試験を突破して外国へ行けよ、と。日本は、二十世紀の今になってもまるで鎖国だと思うなどと私は言ったし、学習時代の専攻学科の関係で、農村調査などで社会の実態についての学問的判断を導き出す考え方に慣らされていたので、思弁の裏には、出来るだけ直接的な体験や実態の調査が必要だという当たり前のことを、当時の青年たちの状況にも当てはめて考えていたのである。

 

その留学生制度は、詳しく書くと長くなるのでここでは簡潔に記すに留めるが、昭和三十四年の秋、たまたま放送協会の社内報「ネットワーク」誌、創刊第一号の企画で「会長と語る」という記事のために、入局十年前後の若手職員十人が会長を囲む座談会に、偶々、私も呼び寄せられたのが契機だった。

 

私が参加者に選ばれたのは、その社内報の企画直前に東海地方を襲った「伊勢湾台風」の惨状を、農業番組面で報道したプロデューサーの一人だったからのようだった。

 

因みに、その台風は、最低気圧八百九十五ヘクトパスカル、最大風速七十五メートル、カテゴリー五の「スーパー・タイフーン」と後に記録されているもので、強烈な伊勢湾台風は、一夜にして死者五千人という深刻な人的被害をもたらしたが、農業面では、台風被害を回避するために開発されていた、新しい「早期栽培」に適した品種を用いて、台風シーズン前に刈り取りを計算して栽培していた稲の、収穫直前の田んぼが全面的に冠水し、稲には水田で、穂が発芽、所謂、「穂発芽(ほはつが)」したものがあり、数週間後には、九月末の高温の所為もあってか、水田で、立ったまま腐り、枯れてしまったものも多かった。被災農村ではまた、栽培計画が成功して、その年の稲作は巧く行きそうだったのだが、それでもタイミングとしては、将に「収穫直後」で、俵に詰めて出荷直前だった米を、家の中の、「床(とこ)の間」などに積み上げてあった処も、そうした米俵が家屋ごと、ことごとく流されてしまった家が多くあった。  

また、田畑を侵してしまったのは真水ではなくて海水だった。そのため水が引いた後には田畑に多量の塩分が残留することになる。それが、もう一つの災害だった。

来年、米が出来るのか?

稲が育つ条件は、土壌の塩分濃度が、多分.〇、一五パーセント以下(?)でなければならない。いや、具体的な数字は、今忘れてしまったが、再び多量の雨が降るか、上流から、木曾、揖斐、長良などの河川から「真水」を流しこんで、田畑を「洗わ」なければならない。風と海水によって作物とともに家屋敷も破壊され、流されたが、若しかしたら、実質的には「来年以降の米」まで流されてしまったかもしれないのだった。それを知った農業関係者たちは今日の被害に耐えるだけではなく、「明日の被害」まで背負ってしまったのだった。

 

東京から「急遽」遣ってきた、先述の「ドキュメンタリー番組の天才」吉田直哉一行には、予備の乏しい災害取材用の、我々が使っていた長靴や移動用の車まで提供した。彼は精力的に仕事をしてくれた。彼の番組の中の「ナレーション」の「骨格論理」は「海が、ここで、元の姿を取り戻した」だった。よく言ってくれた。判り易かったために、その番組は見る人たちを感動させた。然し、強調すべきポイントが、もう一歩、弱かった。

彼の「名原稿」の中では、「元の姿を取り戻した」その「海」が含む「明日、来年、あるいは、若しかしたらもっと先までの稲作の可否の、心許ない不安」にまでは触れては呉れていなかった。彼の制作した番組には、災害の、未曾有の規模を、その規模相応の「今日の」悲劇として速報してくれたことで満足すべきだったのだと、私は、そのとき思ったのだった。

 

彼が書いたナレーションは、伊豆の山を越えてきたら、沖の小島に波の寄るのが見えたという、日本の古典文学の「雄大で美しい」発想に連なる表現にさえ、私には思えた。そして、被災地の者たちが一番恐れていたのは、「水の量」のみならず、自分たちを侵している「水の質」であり、「今日」も確かにそうだが、心配なのは、悠長な「古典文学鑑賞の素材」ではなくて、「明日以降」の生活であり、自分たちの人生だった……。

 

水で孤立した地域では、日が経つにつれて食料が不足してきた。役場などは、僅かに水面上に残る高台へ、そうした必需物資を、その近隣地区での、調和の採れた分配も期待して、自衛隊に依頼したヘリコプターや、組合で調達した小型のボートで運びこんでいた。しかし、被災者たちは、事態の長期化を心配して、他の集落の人たちへの分配を渋り、沖の方で孤立した集落では、自分たちの備蓄の最後のガソリン全部を使って、流されずに一艘だけ残った、焼き玉エンジンの小舟で、代表数名が役場のある高台へやってきた。「食べるものが、もう全く無い!……」、我々を見殺す気かと血相を変えて村の幹部に迫る場面にも我々は居合わせた。

録音を採りつつ、目線が遭えば、こんな、生きるか死ぬかの瀬戸際で、何を悠長なことをしているのだと、水の中へ叩き込まれそうな気配さえあった。私は持っていった昼食用の「お握り」三個を、三個ごと彼らの中の一人に渡した。彼は私に礼を言い、「口に入(ひゃあ)るものならよ、笛でもええんだわ……」とも言った。その期に及んでも諧謔を忘れない、そうした農民に、私は、思わず胸が熱くなった。家族のために「乾いた紙が欲しい」とも言った。持っていた「ちり紙」は総て渡した。首に巻いていた汗拭きのタオルやハンカチと、新しいタオルなど、その予備も渡した。未使用の、予備の原稿用紙一冊も、「揉(も)んで使うからよ!……」の言葉で渡してしまった。

 

私の、座談会への出席、召喚は、そうした深刻な被災農村を歩いて、実情を「海抜ゼロメートル地帯に生きる」という番組などを企画し、報道していた、地方局の農林水産分野担当の若手プロデューサーの一人としてであった。

 

台風災害から一年を経た、同じ「災害シーズン」にも、我々は、テレビでも「海抜ゼロメートル地帯」を提案したが、「ゼロメートル地帯」という言葉は、当時のマスコミの用語には当初は無かったと思う。

 

その番組を共に制作したのは、その台風の年の春、新入職員として配属されてきた二歳年下の同僚の安藤龍男、鵜飼満と、辣腕の先輩、霞堂宣夫氏が東京へ転勤した後を継いで、僅か二年間の経験で、その年四月に「番組デスク」に任ぜられていた二十六歳の私の三人である。私は、その三人が、あの台風の大災害の後、二十代の社会的、人道的な義務感に後押しされながら、深夜まで、あれこれと議論を繰り返し、締め切りもあったので、ある晩秋の深夜、「企画提案書」に、その呼称を、ラジオの定時番組「農村の歩み」(日曜日午後七時三十分から八時までの第二放送)の、名古屋局提案番組のタイトルとして自分が書いたのを覚えている。

 

「その言葉」は、企画が東京の提案会議を「通過」して、我々の番組を新聞に「予告発表」した時点で、ある全国紙地方支局の、確か三嶋さんという、ラジオ・テレビ欄担当の記者から、番組担当プロデューサーとしての取材記を求められる原因となった。然し、嬉しかったけれども、放送前の内容を、事前に詳述して、あたかも番組を早期流産させるようなことは私には出来なかったので、「筆力の未熟」……を訴えて、その内容の「事前吐露」を丁重に辞退した。

一方、地元の、ある民放テレビ局は、その一年後、「伊勢湾台風一周年」の、テレビ番組「海抜ゼロメートル地帯」の「新聞発表」を見てから、臆面もなく、その同じタイトルの番組を、当時の私でさえ、自分に許される予算を超えそうで実行を控えていた、ヘリコプターによる、被災地域の広範囲を捕捉する、かなりの規模の空撮まで駆使して、大急ぎで制作して、先回りして放送したりした。道義的には一種の、臆面の無い「テーマ泥棒」「タイトル泥棒」だった。然し、それは、ただカメラが、「大変だ!」「大変だ!」「大変だった!」「大変だったよ!」と叫びながら、爆音高く、デルタ地帯の被災現場をあちこちと嘗め回して大袈裟に叫ぶことに終始していて、当時の現地の素顔と災害の分析とか本質的な問題点の正しい報告ではなかった。彼らの動作は大きかったが、災害の深刻さと、そこから生れた問題点を正確に認識した、真摯な報道番組とは思えなかった。タイトルを盗み、映像を先取りして、報告対象を取散らかしただけの、被災者たちに対する同情とか、そうした自然、社会環境の中で生きる人間としての戦いの共感も窺えないものだった。つまり、彼らには、皮相な功を焦るだけの、こちらに頷けるような、行動の「哲学」が感じられなかった。

あの人たちは「記録上の先鞭」で興奮していたようだった。ヒマラヤ最高峰の初登頂合戦でもあるまいに……。

彼ら、民放のプロデューサーたちは問題にもしていなかったようだが、誰が言い出した言葉であろうと、大向うが大きく頷きそうなことは、発案者の尊重などと言った事は無視して、先に称えた者が勝ちだという、恰も、ゴールドラッシュ時代のアメリカの「西部の山師」を髣髴させる考え方が彼らの間では働いているようだった。

しかし、それは、瞬間的に大向こうを狙うだけの、子供の大立ち回りのように思えて、私は何も怖くなかったし、悔しくもなかった。

俗に言う、「抜かれた!」と言った被害者意識も、まして、「抜かれた」敗者意識もなかった。

また、我々の番組がラジオで放送された数日後には、「政府は、江東《ゼロメートル地帯》の災害対策として、東京都東部の臨海地帯の防災に熱を入れることになった……」など、と言ったニュースが、早くも、新聞の第一面や、テレビやラジオの、ヘッドラインの項目で流れるようになったのは事実である。

 

「海抜ゼロメートル地帯に生きる」……。

この種の表現は、誰でもが思い付き得ることだから、我々が、その言葉の創造、案出者だと自慢げに、臆面もなく称える積りはないが、この言葉には、我々には、我々なりの発想の経緯があった。

その頃、私は、両親と一緒に住んでいて、三重県の桑名市から電車で、朝夕、名古屋の放送局へ通っていた。その鉄道の路線、国鉄関西線は、木曽川、長良川、揖斐川の三大河川が伊勢湾に注ぐ、河口の水田地帯、濃尾平野の一角を貫いて、朝夕、満員の乗降客を乗せて走っていた。そして木曽川と長良川の下流の広大な中州地帯の弥富(やとみ)という駅には、日本の何処の駅にもあるように、駅名を示す、畳一枚ほどの、横長の白い表示板があり、駅名の傍らに、その土地の名称や歴史的な由来を簡単に示す案内表記があった。国鉄「弥富駅」のそれには、「水郷地帯」とか、「標高マイナス四メートル」などと書いてあって、関連書物には、そこが日本で標高が一番低いところにある国鉄の駅であると説明されていた。その書物には、また、一番高いところの駅は、長野県の「小海(こうみ)線」の「野辺山駅」で、標高は千三百七十五メートルであるとも書いてあった。

「弥富」一帯は、標高がマイナスであるため、その低地を河川水、海水から守るために、大河の堤防や、海岸の護岸堤防が驚くほど高く築かれているのが、その土地の特徴だった。その地方の村落を注意深く見れば、直ぐに気付くことだが、家々は石垣を築いた高台にあり、その母屋(おもや)の裏に、もう一段高く石を積んで、そに「倉」を兼ねた、現地では「水屋(みずや)」と呼ばれる二階建ての、緊急避難住宅を兼ねた倉庫があった。その「水屋」の二階には、その家の歴代の「母たち」が嫁ぐ時に持って来た、嫁入り道具の「長持(ながもち)」が、数本、埃を被って並んでいて、その土地の人間の歴史を伝える家具、什器の役割を果たしていた。そこには、また、住居地一帯が浸水、孤立した場合に備えて、家族、ほぼ十人程度の生活のために、ほぼ一か月分程度の米、味噌、醤油、副食物類、薪などが常に備蓄されており、軒には小船が、更にその地域が増水するなどした場合の、緊急脱出、及び連絡確保の手段として一艘、吊るしてあるところだった。

こうした事実を前提に、我々には、そうした生活舞台を表現する言葉を探したのだった。こもごも、「水面下」とか「海面下」という言葉も浮かんだのだが、角度を変えて考えて見ると、そうした表現では、潜水漁業の、素潜りでアワビを採る、志摩半島の、和具などの、アワビ漁の「海女さん」たちを髣髴させてしまう恐れもあった。それでは正確な描写から遠いのだが、指摘すべきは、ともかく、常に自分を取り巻く水の存在と、その恐怖を意識した生活にならざるを得ない暮らしが展開する天地の実態である。

そうした人間の自然の生活環境を安全の側面から自覚、または警告的に示す表現は時代によっても、様々に工夫され繰返されてきた。大河川の河口に近い流域の河床が、堤防の外側の田畑や住宅地よりも高いという事実から、つまり、ひとたび、川の堤防が決壊すれば、流域の村の家や田畑はたちまち水没するところに人々は住んできているのである。そのため、「家の天井よりも高いところを流れる川」として、その種の川を「天井川(てんじょうがわ)」と呼ぶ呼称が、一時期以来、新しさと、警戒、諦観などを含む言葉として唱えられてきている。私も、「人文地理」の用語として、そのことは高校時代から知っていた。

そうしたことを眼の前の事態に当てはめて、結局、その土地の特徴に関しては、端数切捨てのような考え方で、水と戦う出発点としての「高さというものがそこには無い」という意味も込めて、「ゼロ」で好いのではないかと我々は話し合った。

歴史を振り返ると、封建領主たちも苛酷であった。尾張徳川家は、対岸の美濃地方の堤防が自領を囲むそれよりも高くなることを許さなかった。そうした背景を、我々は簡潔に番組のタイトルの組み入れたかったのである。

その結果、「海抜ゼロメートル地帯に生きる」が、名古屋の広小路の、栄(さかえ)交差点の、深夜に近い閉店間際のビアホールで、枝豆を摘み、串カツを齧りながら、安藤、鵜飼、長谷川の、二十代後半の三人のプロデューサーが、額を寄せ合って合意したことで生れたタイトルだった。

 

また、私が偶然にもフランスへ行けることとなった、その留学生制度は、その様な経緯で召集された私が、東京の中央の、「殿の御前」とも知らずに、自分の希望と判断を一般化しようとして言葉にしたことに端を発していた。

私は、世界の素顔や実情を、外電や、特定の、少数の特派員の記事で推察しているだけではなく、体験的に、自分の目で冷静に見てくることが、この種の職業の青年にとっては必要と思われるという当り前のことを、一般論的な希望として言葉にしたのだった。

「……たとえば、ロンドンへ行ったり、住んだりしなければロンドンのことは本当には判らない筈ですし…」と、その座談会の席で、私は言い募った。

野村会長の表情が「真顔(まがお)」になった……(と、私には見えた)。

 

放送協会若手職員留学制度……、それは、報道取材や、番組制作要員のみならず、協会の各分野の職員の育成に関しても、そうした経験が出来るような、訓練上の配慮の必要であると、図々しくも私が自論を切り出したことが、偶然、元朝日新聞の辣腕の政治記者で、言論取材活動の大御所とも言われていた、当時の会長、野村秀雄(のむら・ひでお)氏に聴き入れられ、同氏が、それに瑞々しく反応してくれて、何と、それを、即刻、実現するのだという意味の言葉を発するところとなり、人事当局の困惑のうちに局内に、急遽、創設されたものだった。

 

衆知の通り、野村秀雄氏は、「夜討ち、朝駆け」という取材方法で、政治ニュースを迅速、正確に捕捉したことで、政治記者の辣腕の先輩として知られていた。然し、私が、その座談会で、その有名な取材方法の動機や実情を尋ねたら、野村さんは言った。

「……僕はね、気の弱い政治記者だったんだよ。有名な……、実力者の……どうしても話を聴かなければならない政治家は、威勢のよい者たちが、逸早く二重、三重に大勢で取り囲んでしまっていて、中々、近づけなかった。しかし、僕には確認したいことがあった。そうしないと記事は書けなかった。仕方がないので、夜が更けて、皆が帰ってしまうまで会える順番を待っていたよ。それでも会えないときは、翌朝、皆が未だ出て来ていない、早朝に、申し訳ないがと、その政治家の家へもう一度、出直して行ったんだ。どうしても確認したくてさ、……確認だよ。責任だものな……正確に書くことが……それだけなんだ。……《夜討ち、朝駆け》だなんて、そんな「あだ討ち」のようなことをしていたのではないよ……。」

 

野村会長は、弟か息子に昔を語るように、私の目を見て言った。その、眼鏡の奥の眼差しと、声、言葉は、その後は、そして、今も私の記憶から消えていない。そして、大袈裟なことを言えば、それ以来、私には、その野村さんの言葉が、私にだけ話してくれた言葉のように聴こえてしまって、私は、放送協会でだが、仕事上の「確認のため……」に、作業内容は、報道取材とは違ったけれども、放送協会の一職員として、「責任だから……」熱帯、酷暑瘴癘のガボン共和国や、赤道直下の、椰子やバナナの葉陰から見える南十字星だけが漆黒の闇夜の友である、インドネシア共和国の古都ジョクジャカルタなどへも単身で行ったのだった。彼は、「人間の仕事の責任」とはそんなものなのだと私に教えてくれたのだと、今でも私は思っている。

 

座談会では、私の発言に対して、「……良い考えだ。私は、《朝日》にいた頃、そのようなことを考えたことがあったが、実行までは出来なかった。然し、それは必要なことだ。うん、実現させたいものだ……」と、野村会長は言った。

 

座談会では、私は「ロンドンのことは、ロンドンに住んでみなければ判らないと思います……」と、思ったままを言っただけだった。

それなのに、単なる、一人の、白面の、二十六歳の若造である私の言葉にさえ、内容に聴くべきものがあれば正気で応えてくれた、野村会長の、心の澄明さと、その瞬間的な反射の鋭さに、私は、その人の、心の寛さと、人格的な「凄味」の一端を読んだような気持ちだった。

 

留学制度、それは、対談の中でのことだったが、そして、本当に実現するまでには若干の経緯や経過はあったが、私はその対談の二年後に、放送協会の公式の、第二期の留学生としてフランスに一年間滞在することになった。

 

放送協会が、次年度から、一年間に若手職員を十人海外へ研修留学に出すという制度を創設したのである。ただ、初年度、台風の次の年には、私のいた名古屋局は、人事部が事前に決定した派遣者選定対象管区外だったので、第一期の海外留学生は、東京からの八人と、大阪、札幌管内からの各一名だった。私は、実際には「言い出しっぺ」だったが、それは、単なる提案者だったのだから、一部の者が部内で言っていたように、私が会長に海外留学を「直訴」して、ちゃっかりとフランスへ行ったというのは事実ではない。私が留学を許されたのは、その翌年である。

 

余談だが、事実だから書くと、私は、東京での座談会に出席して、名古屋へ戻った時、職場で、呼び付けられて、上司から叱られた。

「東京人事部が怒っている……」というのである。

あのようなことを会長に直訴するような男がやってきて、実は困ったのだと東京は言い、「東京では怒っている……」と、名古屋は恐縮しているとのことだった。論客を中央へ派遣する時には、以後、気を付けて欲しいということだったようである。一種の、小役人めいた「思想チェック」の要求である。しかし、それを言った東京の人事部も人事部だが、現所属局の上司が、「東京」を恐れる、その様な卑屈な感覚だったことも、驚くべきのことのように私には思えた。私に、どうしろと言うのかと尋ねたら、派遣した私の東京での発言に関して東京に詫びるのは放送部長だから、ともかく、その「ご迷惑」の責任を負わされた放送部長に謝りに行けと言う。

変な話である。座談会の企画元が怒っているのなら、「東京」は、直接、私にその怒りを向けてくればよいのに、組織としてそのような人物を派遣したとして、「発言者」の所属部署の上長に怒りを投げつける神経が私には理解できなかった。「東京」には、知らないところに、そうした、二階で宴会だけをやっているような「官僚病患者」が居たらしいのである。

こちらとしては、座談会に入る直前、人事部の担当者は、控え室で、その「会長を囲む若手職員の座談会」という企画が不発に終ることを恐れてか、参加者には、会長に、「若さを発揮して」何を尋ねてもよいと、煽るようなことを我々に対して言っていたのだから、私は何も疚しいことはしていない積りだった。それを後になってから、「組織」に名を借りて「怒る」のは卑怯じゃないか。また、会長との座談会には、速記者が二人も居たのだから、都合が悪ければ、示し合わせて、何時でも何処でも記録は消せるものだとも私は思っていた。

然し、記録の問題ではなくて、会長の口頭の、「トップ・ダウンの」命令が実務化される動きとなってしまって、記録の削除や、その留学計画策定の業務の停止は、既に、無理だった。「東京の怒り」は「役人の泣き言」だった。

「好いでしょう、誰にでも、何処まででも説明に行きますよ。本当に良くなかったと自分で納得出来れば、勿論、私は謝ってもいいのですから……」。

そう言って、私は、直属上司と共に放送部長のところへ行った。

しかし、その時の部長は、そんな経緯には余り関心が無いような、話の筋を大切に考える、「普通の」男だった。東京での顛末を、私は事実通りに簡潔に説明した。

すると、その、名古屋中央放送局の鹿児島幸治放送部長は私に言った。理性とか「冷静さ」などといった大げさなものではなくて、普通に、彼は言った。

「善いことを言ったじゃないか。元気があって宜しい。心配するな、東京とは、俺が話しておく…」と言って、彼は、それ以上は何も言わなかった。

 

どうやら、この件は、やや大袈裟に伝わってきたのが事実らしい。また、放送協会が、如何にも官僚的であることの例の様に解釈するのは誤りだと思う。  どの企業にも年度予算というものがあり、秋の半ばに、突然、新規事業が、会長の判断または命令の形で、「上から降りてきた」ために、次の春からの新年度計画として、当時窮屈だった、外貨支出を伴う計画案が唐突に、とも採れる形で出てきたことに事務当局が困惑したというのが実態だと私は思っている。その時代は、それほど外貨が日本にとって窮屈だったのだと私は解釈している。その中で、その制度を善く精力的に発足させてくれたと、寧ろ、私は実務担当者の努力に感謝しているのである。

若しかしたら、その年は、伊勢湾台風の後は、偶然、事故、災害の面で、比較的平穏な年だったので、名古屋局管内の打撃は深刻だったけれども、年度末が近づいたこともあって、災害対応のような、全般的な緊急事態のために準備していた臨時経費の未消費で済んだ分があり、その一部でも工面して、初年度の、異例の会長命令を、誠意のある柔軟性で実行してくれたのかもしれなかった。実際は、違っていたかもしれないけれど、そのように解釈して、私は、今でもあの制度の発足に感謝している。事務当事者たちも、腹には据えかねたが、遣るべきことは遣ってくれたのだと……。

 

また、あの時、名古屋の深夜のビアホールで一緒に枝豆を摘んでいた同僚で、若手後輩の「安ちゃん」こと、安藤龍男も、後年、東京へ転勤した後、その留学制度で一年間、ボン、ケルンなどの、自分のテーマに即したところを訪問先に選んで、ドイツへ留学して帰国した。彼は東京大学のドイツ文学科を出ていて、マルチン・ルターの時代のドイツ語などにも詳しく、ドイツの社会の近代化の胎動期の経緯の委細についての学識も相当なものだった。

華やかと思った放送協会へ入ったところ、何と、彼も、私と同じように、俗に言う「百姓番組」のプロデューサーが振り出しだった。しかし、彼は、それに臆することは無かったが、私もフランス農村史の「洗礼」を受けていたので、彼にはドイツ農民戦争(バウエルス・クリーゲ)の時代の、彼の地の歴史経過を思い出させて、我々は、人類文化の歴史の本筋に即して現代の日本の現場を、今、この目で見ているのだ、だから怯むな、と彼を鼓舞したものだった。

彼は後に、東京へ転任してから、精勤、努力の末に放送協会組織の中でも理事になった。私が一足先に停年となって、放送出版協会へ転じた二年後に、彼も、その出版協会へやってきたが、その時、彼は、その出版会社では社長として登場したのだった。

嘗ての後輩が、私の上司となったのだった。私は、他人事(ひとごと)ならず嬉しかった。彼の人間的な実力が判っていただけると思う。

 

然し、日本放送出版協会社長の安藤龍男は、二千七年の暮に、七十歳代の前半で、早々に逝ってしまった。彼の心の中のドラマを詳述する資料や能力は私には無いが、人生というものの流れは冷厳で、私の青春の世界の一角は、既に「蝕」に入り始めているのだとつくづく思う。

夫人への弔意と共に、彼の冥福を私は心から祈っている。

 

もう一人の後輩、鵜飼満は、名古屋大学法学部で刑事訴訟法などを専攻した後に、放送協会に入ってきていた。最初は、プロデューサーとしてではなく、報道取材を行なう「放送記者」だった。徹底してファクトの実態を追跡する男で、また、「社会正義」に照らして物事を考える姿勢を尊重していて、その意味では「農業、農村番組」は彼には少し拍子抜けしたように感じられていたようだった。その点では、彼は意欲の不完全燃焼に悩んでも居るようだった。然し、「正義」というものは、具体的に、手に採り、目に見える形で、単独で存在するものではなく、人間の実際の様々な行動を貫く人々の姿勢とか、価値判断を行なうときの基準、いわば、裏または基礎の論理として、それぞれの場面で論じられる問題であり、それらを通して詮議の対象となるものであるから、その意味では眼の前の社会的な現実を忍耐強く凝視することが大切なのではないかと、私は先輩面をして彼を宥め、励ましたものだった。

彼も、それはよく理解していて、事実、彼は、冷静に諸現象を観察する忍耐力を具えた男だった。同時に、心に余裕も見せていて、台風の災害現場を一巡、取材して帰ったときには、被災農家のある主人が録音の中で、土地の言葉で、「家はよお、まあ、相撲場みてやあになってまってよお!(家は、台風のために吹き飛ばされて、柱が三、四本残っただけの、まるで野外相撲の土俵の様なものになってしまったので)……」と叫ぶのを聴いて、「相撲場(すもうば)」という言葉の比喩的な妙味に感じ入っていた。

彼は、その言葉に、被災農民が、自分の不幸の現実を客観視する、一種の余裕と生命力を感じると、繰り返して言った。青黒い、被災地の田んぼの泥も、未だ少しこびり付いた、収録してきた十五分ずつの小捲きの八ミリの録音テープを収めた、濃いグレーの、幾つかの、小型の金属の箱の山をいじりつつ、顔に含み笑いさえ湛えて、しきりに、その「……相撲場!」を繰返して感嘆していたのが印象的だった。

鵜飼満は、退職後は、郷里の西三河で、その土地での、明治の初期の「廃仏毀釈運動」についての調査をしたりして、その地方における、宗教、信仰と政治権力の時代的変転の痕跡を検証するのを、一種の個人的な「学問的趣味」としているとのことである。

お互い、年老いて行く身だが、彼の健勝を何時までも私は祈っている。

 

さて、伊勢湾台風の二年後に、ともかく、私はフランスへ行った。ところが、先述のように、小中は東大仏文科卒なのにフランスへ行けなかった。私は、名古屋大学の経済学部出身で、経済史を選考して、農村調査の経験があったためか、農山漁村番組のプロデューサーだった。小中の目から見れば、私は、「放送局」にいてもドラマや「バラエティ」、西洋音楽や演劇の番組の演出さえしない、非芸術的なプロデューサーに見えたのかもしれなかった。私も、心の奥では、音楽に関しても、音や舞台の美学についても、充分な関心と、若干の知識も持っていたのだが、周囲の、こちらの感受性を無視した、一種、遊民的で、似非(えせ)都会的で、田園饗宴的な狭い価値観からの格付けで、私は、局内では、先輩や同輩からも「おい百姓!」と呼ばれていた。

悔しいなどと言った気持ちよりも、「放送」即ち「文化」……従って、高尚な文学、芸術、芸能、演劇……そうしたものに携わる「身分的にも自分はお前とは違う」……というニュアンスの濃厚な、ある種の「階級的、差別的な」口調で、こちらをそのように呼ぶ、その時代の老若の「似非文化人」たちが、私には、逆に、気の毒に見えた。どこか、田舎大名の閉鎖的なサロンのような社会が、外側の、現実の社会を冷静、確実に見据える力も、知識も、気構えも無いままに、自己陶酔的に内部的な運動をしている様にも思えたのだった。

社会番組の花形とされていた「時の動き」や「県民の時間」、文化的教養番組と自負される「学校放送」、「婦人の時間」、更には、劇場中継や和洋古今の音楽を取り扱い、専属の管弦楽団や女声合唱団、放送劇団の男女の集団に指示を出す「芸能番組」の担当者たちからは、言葉は悪いかも知れないけれども、一種の「知性や人間的な素養の階級意識」までも振り被られている様にさえ思えた。

私に対する呼び掛けが「おい百姓!」ではない処では、「若さ」が「未熟」と同義語に採れる、妙齢の女性の合唱団員たちからは、ソプラノやアルトの音程で、素直な蔑視の感情をこめて、無邪気に、声を揃えて「お百姓さん!」と、まるでそこに、突如、インドのカースト制度が眼の前に出現でもしたかのような雰囲気で、そう呼ばれることもあった。

しかし、私は、そんなときにも、そうした相手に向かっては、「じゃ、あんたたちは、穀(ごく)潰しの遊民かね?」といった顔をして、平気な顔をしていた。余計なことだが、人間が生きる情熱には常に敬意は抱いていたけれども、彼女らはそれぞれに、その後、どのような「幸せな」結婚生活を送ったのだろうか。ラ・ヴィタ・ルスチカーナに聞き耳を立てる余裕は私には無いけれど。

言葉は少し過激だったが、そんな場合、私は、どこかで読んだ「馬鹿は、馬鹿であることで、既に罰せられているのだ……」という言葉の意味を噛み締めていた。

 

後年、私はパリで、ある秋の午後、あの、今でもラジオの正午のニュースの後の番組で、各地の農村の様子を伝える、私も、月曜日と木曜日に、毎週二本、「名古屋ローカル」として制作していた、ディスクジョッキー番組「ひるのいこい」の、開始、終了テーマ音楽や、「お便り」の背後に流れるブリッジ音楽の作曲者で、日本の農村の雰囲気などを美しく音で描いた、稀代の民衆的大作曲家、古関祐而夫妻を、初対面の来客としてモンマルトルへ案内した。

「良き時代」の絵画、彫刻、音楽などの、様々な芸術家たちが活躍した、パリ十八区に聳えるサクレ・クールの丘や大聖堂の界隈を歩き疲れて小休止。夕暮れの、薄暗い桃色の空と、灰色の混じった紫色の霧。暮れなずむモンマルトルの坂の先の、灯りの見え始めた下町の窓や屋根を縫って流れる、セーヌ川の微かな霧を、そのテラスから一緒に眺めながら、興奮した古関氏が「これが、あのベルリオーズを育んだパリの夕暮れなのか!」と七十歳に近い、まだ少し残る髪も、既に白い頭を軽く揺さぶって、多分、涙ぐみさえして、判る人たちだけには判る、美しい、愛の心の遍歴の末に結ばれた、最愛の老夫人の肩を、残照、薄暮の下で、そっと抱くのを、石の階段に並んで、私は、横から、控え目に口数少なく、密かに見守ったことを思い出す。

そこには、あの時、名古屋で、私に向かって「お百姓さん!」と、ソプラノ、アルトで声を揃えて元気に叫んだ、私などとは無縁の、あの自己陶酔的な閉鎖社会での「歌姫たち」、名古屋放送女声合唱団「花のコーラス」の、若くて、美しくて、魅力的だった女性たちは、残念なことに一人も居てくれなかった。

 

小中が、彼、彼女らと同じ考えだったとは思えなかったが、職場の雰囲気から察すれば、その様な、自分についても鈍感と見える、口数の少ない「恥知らず」の、二歳年長の男が、自分を差し置いて、他ならぬ、パリへ行くなどというのは、世の中、間違っているとまで思っていたようだった。都会育ちの、何でも、良さそうなことは優先的に自分に廻ってきて、それが当然だと考えていたらしいお坊ちゃんには我慢できない状況のようだった。それなのに私は一年間フランスへ行くことになった。「彼の地」の言葉も、全人類に通用する、微妙な考え方のフランス語による表現も、私の方が出来るようになって帰ってくる状況になった。しかし、彼にも現実直視の感覚があって、ともかく海外の新事情、フランスの素顔についての情報や私の感想を、第一番に私から聴き出したいと真剣だった。

 

放送協会の留学制度は、一定の役割を果たしてはいたが、小中が外国へ行けなかったことについて、彼の側には何も問題はなかった。彼の勤務態度が悪かったわけではないし、制作した番組の質が悪かったからでもない。ひたすら、日本の外貨事情と、そのころ、まだ、日本では外国での経験を、一昔前に「洋行」と言って、特別の行動だと見ていたのと同じ感覚でしか評価しない雰囲気があったことが彼を阻んでいただけだと私は思っている。

 

小中や林のような、文科系だが優秀な男性にして、そのような状態だったのだが、では、意識に目覚めて、その職場を選んで採用されてきた、と思われる女性たちは如何だったか。私が自分の周囲で見ていたことだけを見てみよう。

 

そのころ名古屋の放送局には女性アナウンサーに、小中と同年輩の、立教大学の英文科を出た美女、才媛の、野際陽子(のぎわ・ようこ)がいた。容姿端麗、声の質や伸びは、勿論良かったが、同年輩で寛いで話しているときに、半ばふざけて何者かの口調を大胆に真似るときの演技が絶妙だった。

アナウンサーという職業は、一見、大切そうで、華やかで、有意義な職業と見るのが一般の考え方だった。然し、自分の考えを述べるわけでもなく、他人の書いた原稿を、読み違えを警戒しつつ真顔で読む仕事は、職業としては、当分、廃れることはないだろうが、真剣に人生を考えて生きるためには、永くは続けないほうが好いと私は思っていた。

「アナウンス」という言葉が含む、西欧社会のキリスト教文明的な原義の一つは「受胎告知(アヌンツィアチオーネ)」である。イタリアのフィレンツェには、フラ・アンジェリコが描いた、見事な「告知場面」の壁画を収めた壮麗な教会があり、その前には「アナウンス広場」とでも訳せる広場がある。

「アナウンス」……、それは、神の言葉、「真実」、「真理」、「真相」を人間に初めて告げる行為を指している。そうした「お知らせ」の作業をする人物が、本来のアナウンサーなのである。そこには、自分などは無い。「アナウンサー」は、人間ではあるが、同時に、一種の、神様の声や言葉や意思を伝達する役割を果たす「言葉の魂」の使者なのである。浅薄な思い付きを、「標準語で口にするだけの自分」を、何か特殊な、先端的で、花形的な職業人だと考えているようでいて、自他共に、その役割の本義を理解していないような日本のある種の、「肩書き倒れの」老若男女のアナウンサーの方々に、そっと申し上げたいことである。

私は、それを彼女に言った訳ではなかったが、勘の好い彼女は、私がフランスへ行っている間にさっさとアナウンサーをやめて、「自分の才覚を言葉に出来る」フリーのテレビ・タレントになっていた。私の帰国の情報を、どこかで聴いたようで、会いたいと言って来て、彼女の関西での仕事の帰途、私は留学研修のイタリア旅行の際にナポリで買ってあった、やや大きいけれども、高価なものを買う余裕も無かったので、公平に見て粗末なカメオ細工のブローチを土産に用意して、名古屋で彼女と会ったことがある。そのとき、私は、独立してやってゆくのは難しいものよ……という彼女を、努力は何時かは実ると思う、頑張れよ……と励ましたが、彼女も後に私費で単身フランスへ行った。

彼女とは、私が名古屋の「丸善」で、入局の年の暮れのボーナスでやっと買ったリンガフォンの円盤レコードを使ってフランス語を勉強したこともある。そのためか……と言うのは「こじ付け」だが、英文科を出ていたために、巧拙は別にして、彼女には外国語駆使の度胸だけはあった。その時に貸したテキストには彼女が遠慮がちに書いた細かい鉛筆の書き込みが今も残っている。その後、フランスへ行ったり、女優としての試行錯誤を繰り返したりして、彼女にも己の人生航海があった。しかし、彼女は女優であることで、日本のドラマ演出家たちにとっての、この時代のユニークで、掛替えの無い、絶妙の、珠玉の演技者(コメディエンヌ)の一人だろう。

 

私は今、ここで野際陽子を、「コメディエンヌ」と呼んでいるが、それは、「俳優」、「女優」という意味である。「コメディ」という言葉は、日本語では「自虐的な言動と題材で人を笑わせる商売」のような意味に「汚染」されているが、それは日本人の、フランス語の言葉の意味と歴史の無知から生じた、英語、フランス語の誤用である。フランスでは、ジェラール・フィリップは「コメディアン」であり、ダニエル・ダリューは「コメディエンヌ」である。そして、そのタイトル、呼び名は、客観的にも愛情と親近感と敬意を含む「尊称」である。

私の人生も残り少ないと考えて、忘れないうちに言い残しておくのだが、その野際陽子は、私にとっては「日本のダニエル・ダリュー」だった。そう言っても、今更、彼女に迷惑はかからないだろう。

そう言えば、彼女は、どこか、そのフランスの永遠の名女優、ダニエル・ダリューに似ていないだろうか。人柄も含めて……。

 

 もう一人の、元女性アナウンサーで、私が、自分の名古屋時代以来の親友だと思っている下重暁子は、私にとっては「エクリヴァン」である。その人間的な佇まいを手短にン述べると、次の数行の通りである。

 

昭和三十七年十月下旬、私はヨーロッパからの帰途、十日間のギリシャ滞在を許された旅で、エール・フランスの南回りのジェット機で羽田へ戻ってきた。十日間のギリシャ滞在の後、私はアテネを東に向けて飛び立った。

深夜のテヘラン空港の、初めて目にするイスラム世界の生活の片鱗や砂の匂いに、何時の日かの再訪を胸に描いた。深夜の南西アジアを東に飛び、ヒマラヤの連山の、朝焼けのシルエットに感激した。夜明けの空の下は、ビルマ西部国境山岳地帯の山襞の上で、第二次世界大戦での日本人たちが苦闘したインパール作戦の修羅場の悲劇を想像させられたが、そこを飛び過ぎて、チャオプラヤー河流域の平野の上空へ入った。洪水の後のような、バンコク周辺の、青空の雲を映す水田の広がりを眺めて、思わず去年までの仕事場だった木曾川下流のデルタ地帯の被災農村の記憶が蘇ってきた。アジアへ帰ってきたのだと実感したところで、当時のヴェトナム、アメリカ軍戦闘機が爆音を轟かせて発着するサイゴンのタンソンニュェット空港のただならぬ様子が目に入った。滑走路が短いために着陸時の減速のために開いたパラシュートを機体の後ろに引きずる戦闘機の群れが、何のためにそこにいるのかをつい考えてしまった。そのあと、返還前の香港の夕景などを次に見て、そのイギリス植民地の空港を後にして北上した。香港の夕景の彼方に中国大陸南部が、濃い紫色の底へ消えていった。

数時間後、東京タワーを窓の外に見ながら、「……御覧いただきたい、あれがエッフェル塔より三メートル高い、日本の東京タワーだ」という機長の説明を聴きつつ降下した。どぎついネオンが輝くパチンコ屋や飲み屋街の連なる蒲田付近の上空を旋回して羽田の滑走路に着陸したエール・フランスのジェット機、シャトー・ド・シャンティー号の客席には、外気取り入れ口から流れ込む東京湾の、胸を突くヘドロの臭気が機内に充満した。悔しく、忌々しい自己嫌悪と隣り合わせの、懐かしい日本の現実だった。

地上へ降りて空港内に入った羽田の到着ロビーには、伊勢、桑名から態々出てきた、一年ぶりの父と母が居てくれたが、偶然、元名古屋局の、野際陽子と並ぶ、もう一人の美人アナウンサーで、現在は作家、随筆家の下重暁子(しもじゅう・あきこ)が近くにいた。目線が遇って、貴方じゃないの迎えに来たのは、と正直に、しかし、彼女らしい強靭な知性を、その細身の身体に包んだまま、照れくさそうに言ったが、そのころ彼女は、然る有名若手音楽家との噂があるとのことだった。海外について、そこを経巡ってきた青年音楽家を通して、彼女も「世界」を知ろうとしていたように、私には思えた。彼女も青春多忙だったのだ。

 

彼女は、後に、一つの経緯の後、エジプトのカイロにも住んで、「コーランの聴こえる国で……」といった、自らの異文化体験を纏めた本を書いている。

 

私自身は、恵比寿の親戚へ一泊して、翌日、東京の人事部へ帰国挨拶した後、午後、渋谷の東横線の駅で小中を待った。とめどなく流れ出る乗客の人の波に辟易しながら、危うく今日は何の祭りなのだと尋ねそうになって、哂われるのを辛うじてこらえた。

パリはどうだったか、フランスはどうなのだ、と矢継ぎ早に尋ねるのだが、関心の幅が広すぎて質問の範囲や意図が判らない。気持ちは十分に判ったが、即答が親切な返事だとも思えなかった。まあボツボツ話すよと言って雑談になった。そのころ日本では、坂本九(さかもと・きゅう)が唄う「遠くへ行きたい」という歌が流行していたが、遠くだけでは何をしたいのか判らんじゃないか、俺は遠くから帰って来たが、遠くというだけでは、そこには何も無いぞ。自分は今何をしているのか、そして、出かける目的とその目的を達成する覚悟と能力の自覚がなければ意味がないぞと言ったら、行ってきた者は暢気なことを言うよと切り替えしてきた。いや、漠然と行くだけでも意味はあるというようなことを言っていたが、発見の意慾と問題意識がなければ無駄だし、駄目だと、私は賛成しなかった。私の実感だった。

 

私は、パリでのフランス語の確認的な再研修の後、特に選んだノルマンディのカン大学の法学部で、自由聴講生として、どの授業でも担当教授に依願すれば聴講できると法学部長の許可を得ていたのだが、講義の聴講に出てみた結果、正直に言って、私は自分の力の至らなさ、悔しいから言い換えるが、決定的な準備不足を痛感していた。フランス語の講義が殆んど判らないのである。その、フランス語が聴き取れないのである。このまま時が流れれば私は殆んど何も学ばずに日本へ帰ることになり、その経緯を告白しても、日本では、既にその失敗が大変有意義な経験だったと言わぬばかりに賞賛されそうだった。それでも、カン大学の教室では、フランス語の能率的な、普通の、巧みな言い回しよりも、学問上の共通言語になっているような言葉、経済史の叙述に用いられることの多いフランス語の単語や言葉を頼りに、私は辛うじて講義をフォロウしていた。そして、そうした心許ない「心の聴覚」に頼りつつも、私には、何故か浄福感があった。

ノルマンディの農村を育み、フランスという国の、この一角を歴史の中で駆動させてきた生産活動の実態と同時に、この土地に展開してきた社会慣行や制度を私は知りたかった。フランス農村史のバイブル的存在だったマルク・ブロック教授の「フランス農村史の本質的特性」(「フランス農村史の基本性格」として日本の学界で喧伝されている)という本も、辞書を一冊読み潰すほど引きに引いて、その本意の理解に務めた。日本の農村の、封建領主に支配されつつも農村の内側で蓄積してきた生産力の向上の累積と、それを、時代を重ねながら高め続けてきた日本の農村の制度や慣行システムと、フランス革命に至る歴史経過の中の、かの国の農村での具体的な歴史展開との共通点と相違点を私は知りたかったのである。

つまり、遂には人類史上の一大事件として、「王者」ではなく、努力し、目覚めた民衆の個々人が、社会の本当の主であることに気付き、自覚し、叫ぶ、フランス大革命として歴史が動くことになった一つの現場、底辺を、フランスで、実際に見て、その舞台の構造について知りたかった。それを通して、人間が土に働きかけて生活し、社会を造り、その社会という、多数の人間の集団が展開する社会活動の特徴の東西比較を試みたかった。

しかし、そのためには、私には膨大な準備が必要だった。充分な言語駆使能力、この国の歴史、地方史、社会制度史、法制史、物理学、化学、生物学、動物学、植物学、一般の農業史、農業技術史、この国の政治史、経済史、更に、この社会での、日本とは異なる、麦以外にも、羊やチーズやワインなどが「献上」または「収奪」される、「年貢」としての「生産物地代」の様態や構造など、など……二年や三年では学び尽くせない数々の知的技術である。

そして、私は事実、ノルマンディで、そこでの農業活動に関連した歴史経過を説く講義を聴き、実際に、現地の数人の農協の組合長とも知り合いになり、パリの中央官庁の高官との接見の機会も僅かに得て、何とか漠然とその分野を理解し、ほんの少しその土地の素顔を観察して、今、帰ってきましたと言って職場へ戻った。留学と言っても、言語の習得に大半の時間を費やさざるを得なかった私のノルマンディでの生活で判ったと思っていることは、距離を置いて冷静に見れば、ほんの、ミルクの皮のような程度のことでしかなかった。そして、また、その事を特に重視もしない放送協会では、私は、「フランス帰り」という、「能力」をある程度認められて過ごしてきた。

正直に言えば、誤解も甚だしいし、情熱の生殺しである。それなのに私は、それでヌケヌケと生きてきてしまった。企業組織というものの中で生きている者の「留学」とは、そのようなものかもしれないが、素朴で、正直な者にとっては、精神衛生的には気味の悪いものである。

そして、もう一段、正直に言えば、それ以後、自己嫌悪と情熱の不完全燃焼の、自己責任の不成就者として、一種、罪の意識の中で生きてきてしまった。その種の行為は、「世間知」を振りかざして、一定の歩留まりを前提に考えても好い……などとという場合もあるそうだが、そうしたことは、自分には許し難いものなのだ。

 

軽率だった私が、もし、その、自分が抱いたと思っている情熱に、本当に真剣に取り組みたいならば、それも出来ないことではなかった。まず、放送協会へ心境の変化を伝える。留学経費相当分期間の勤務を求めてくるかもしれないが、人事も切迫しているとして辞職を認めるだろう。私は職場を辞める。後をどうするか。大学の母校の教授に相談するか、自分の関心に、より密接した機関、フランスでも日本でも研究継続可能なところを探す。生活をどうするか。もう一度親に泣きついて、何とか稼げるまでの援助を頼む。あるいは、何かの奨学金とか、その時点で出来る内職を探す……。

それら全ての作業を私はしなかった。

幸運な留学帰りとして、真面目にだが、自分の心の叫びを聴きながらも、判っている、判っていると、心に、無責任に応えながら日々を過ごした。そんな形で、私は自分の生活の情熱を葬ってしまった。それ以後、私は、自分に対する裏切り者だと考えて、己に対する侮蔑とともに今まで生きてきている。誰にも言えない、自分の罪悪感を抱き続けて……。私は、自分に情熱があるような振りをし続けるサラリーマンに過ぎなかった。その時点で、私は自分の青春を絞め殺してしまったのである。サラリーマンとしての生活の安逸に屈してしまったのである。悪かったのは、私自身だった。

いや、サラリーマンと言っても、それ以後の担当業務には、テレビの衛星中継による、放送素材の送受信という、電気的信号の国際的授受などの仕事もあったから、在来の「古典的な」業務執行メニュにないことの連続だった。評価をしてくれる者も居なかった。多分、測定の物指しがなかったのである。昼夜の区別はなかったし、作業の相手は、主として欧米人だが、異文化人には違いないので神経の疲労もかなりなものだった。いや、それに加えて、その種の作業に関係する場面での、日本側の者たちとの交流、接触も神経を逆なでするものだった。羨望と、蔑視と、懐柔と、利用と放棄の、要するに、遣らせておいて、無責任な感想と判断で、成果だけを横取りしてゆく者たちの中で過ごしていたのだった。彼らは自分が手にした放送素材が、今、自分の手の届くところにある、その事態の経緯を正確には全く判っていなかった、「立場の利点」でそれがあること以上に、それをそこへ齎した、私に対する、感謝ではなくても、少なくとも友情くらいを示す余裕も持っていなかった。私にとっては、時間と体力の過剰消耗、俗に言う単なる「配達屋」とのみ解釈される「貧乏くじ」のまま歳月が流れてしまったのである。

その彼らが、実際に誰々であったかは、私の記憶には鮮明に残っているが、私はそれをここに書くほどの心の狭い、寂しい人間ではないので何も言わずに措く。恐らく、将来も口にはしないだろう。ただ、私だって、その種の「評価」は、本当は欲しかった。しかし、評価できる人物がいなかった。私もまた、知らぬ間に、別の面で、その種の「ご恩」、恩恵を蒙っていることは大いにありうるのである。その意味では、そうした消耗は、先端を歩く者の快感だけが自分の孤独な喜びだった。

しかし、それも、今思い返してみれば、私は、人生の流れの中の、稀な幸運な部分を、当たり前のことと考えて、賢(さか)しらに苦情を並べているに過ぎない。

然し、また、あるとき、私は一つの幸運に恵まれた。いや、幸運という言い方はいけない。一人の先輩、一人の上司に恵まれた。私の、放送協会での生活の末期、ラジオの短波放送で「日本の声」として世界各国向けに二十数言語で放送する、国際放送の責任者の一人を務めたときのことである。

それまでに私は、ノルマンディへ行った、最初の留学から帰り、東京オリンピックも過ぎて、私が東京の政治経済番組部へ転じた後、留学から十数年後に、私は、パリのヨーロッパ総局へ特派員として転勤になった。そこでは、取材記者には、共に今は他界して、もう居ない、経済担当の木村千旗、政治、社会担当の二見道雄たちが記者として活躍していた頃だった。東京からパリへ、新任でやってくる若い記者も、意慾に溢れる、優秀な記者たちだった。自慢や、「贔屓の引き倒し」で言っているのではなくて、放送協会は、受信者、つまり国民の負託と期待に充分に応えていたと私は証言できる。航空機にハイジャックが頻発し、記者もカメラマンも、その種の事件にも振り回され、ロンドン、ボン、ブリュッセル、ジュネーヴ、ローマ、ベイルート、カイロなどの特派員たちが各地を駆け回った時代だった。仲間それぞれの名前までは、ここには挙げないが、他にも番組の企画、制作に当たるプロデューサーやカメラマンも多忙を極めていた。私は、テレビジョン信号の国際間伝送システムの組み立てを専門とする、当時の言葉で、「サテライト・コーディネーター」だったので、フランス放送協会や、ジュネーヴに本部があり、ブリュッセルに技術調整センターのあるヨーロッパ放送連合との連絡、連携が大きな仕事だった。そして、それが、後に国際局へ転じた後の、「国際放送ラジオ・ジャパン」の世界的受信改善の作業にも、システムの知識と人脈の両面で非常に役に立った。

思い返せば、あるとき、私は、勿論、真剣に書いたのだが、その、かなり複雑で、込み入った報告書を、「部下の汗」として誠実に読んでくれる上司が居た。私が、国際局の欧米部の、フランス語・イタリア語班の班長を務めていたときに、私を、「まあ、出来ねえだろうが……」と、欧米部長に任用してくれた、木村鍈一(えいいち)国際局長である。

 

私は、その頃、赤道直下の、西アフリカの国、ガボン共和国へ行って、相手国の関係者と、日本を代表して、外務省の市岡参事官、郵政省の大井放送技術課長らと共に、現地の日本大使館の要員の協力も得て、その国にある送信設備を賃借して、日本の国際放送の、地球上の、その地点から良好な状態で到達可能な、ヨーロッパ各地や、南米地域など向けの送信を行なう同意を得る交渉に当ったことがある。相手は、ボンゴ大統領の縁者と伝えられ、辣腕の貴公子とも言われていた、国営「アフリカ・ナンバーワン」短波放送局のピエール・ムヴラ会長と、その関係者だった。また、フランスからも、この種の作業の運営の補佐として、バルビエ・デ・クローズという能吏が、関係機関から国際協力要員としてガボン共和国へ来ていて、我々に対しても現地の案内役などを引き受けてくれた。

バルビエは、後に、私がジャワへ行っていた頃、カリブ海の、ある島国から、突然、電話してきて、日本の衛星通信機器や施設の優秀性、安定性を讃え、その種の日本のメーカーの、機器の専門家の紹介を私に依頼してきた。その長距離電話で、俺はカリブ海、君はジャワか……、お互いにガボンは遠くなったな、と話したのを思い出す。この種の作業では、結局、私は、インドネシアの放送の近代化に関しては、歌舞伎の舞台で言えば、一種の「黒子」だったのだが、そう言えば、バルビエは、「黒子」の私のカウンター・パートだったことになる。

その施設は、ガボン共和国の南東部の、隣国コンゴ共和国との国境近くにあり、その近くの、熱帯雨林の奥の、赤土のサヴァンナ台地の、モヤビという場所に、フランスが、いわばODA(公的開発援助)としてその国に供与していたものだったので、フランスは、東経十三度、南緯二度付近にある、その、三百キロワットの送信機四台からなる高出力の大送信施設の、第三国による賃借、利用によって自国の利益を損ねる恐れのあることには非常に神経質だった。

因みに、その送信所の威力は絶大で、私が、各地での受信状態を調べるための「発局確認信号」の積りで、東京で作成して、ガボンへ持っていって渡してきた、東京の、女性の。当時、若手だった、目方頼子(めかた・よりこ)アナウンサーが爽やかに読み上げてくれた、日本語を始めとする、各国から招いてあった、英、独、仏、伊、西、葡など、数ヶ国からの報道専門家のそれぞれの母国語による「こちらは、西アフリカ、ガボンにある、モヤビ送信所です……」という「発局アナウンス」を繰返しつつ、日本民謡のメロディーを時間的に等間隔に収録した音声信号は、北半球北部にある、パリ北郊ロワシーの広大な平坦地に展開するシャルル・ドゴール空港の待合室でも、また、緯度、経度で見ると、地球のほぼ裏側に近い位置に当る、鎌倉の私の自宅ででも、予定された時刻には明瞭に受信できた。

余談で、後日譚だが、五十五歳の頃、二年後の停年を前にして、私は、インドネシアのジャワ島のジャクジャカルタへ、国際協力事業で単身赴任していたとき、日本の大晦日から新年にかけての時刻に、短波受信機を二台用意して、それぞれを、日本の茨城県にあるKDDの八俣(やまた)送信所発信と、アフリカのモヤビ送信所発信の、それぞれの周波数に合わせ、その二台のラジオを、赤道直下の我が家の広間の左右の壁面に配置して、ふざけたことを言えば、「紅白歌合戦」を、「国際的、地球的なステレオ」で、独りで聴いて、「ジャワの孤独」を自ら慰めたこともあった。西アフリカ、モヤビ発の「ラジオ日本」は、終始、健在だった。

ガボンからは、東京のNHKを発局とした、KDDの山口衛星通信所経由の衛星伝送で放送素材が、リーブルヴィル経由でモヤビに送られた番組が放送されるので、東京からの、その音声信号は、ガボンのアンテナから発信されるときには、インテルサットのインド洋上の、高度三万六千キロの宇宙空間で作動する通信衛星を往復経由する、少なくとも一秒と少々の時間的なズレが生じるため、日本からと、ガボンからの信号を個別に捉える左右の受信機からは、その素材伝送のズレの分だけ時間差のある放送が聴こえてきた。そのため、それは、遥か故国からの放送であるという、一種、宇宙的であり、地球的でもある「幽玄な」心理的効果を、面白く私に与えるものでもあった。それは、ベンジャミン・フランクリンが、嵐の空に凧を揚げて、大気中の空電現象を確めたのにも似た嬉しい実験だった。

 

ガボンでの送信施設の国際的な賃借に関して、表向きは、ガボン共和国という一つの独立国が、自国「所有」の施設を第三国との正常な交渉によって、その友好国、例えば日本に貸すのは「正常な」行為だった。だから我々は自由にガボン側と折衝すればよかったのだが、それでも、やはり、我々としては、わが国と、その施設の国際的な供与国であるフランス共和国との友好にも配慮しなければならない。そこで、我々は、ガボンへ向う途上、パリでもフランス放送協会の関係者から、この件についての了承は採ってあったが、その国に、圧倒的な影響力を持つフランス外務省の、最前線の関係者とも友好、平和的な話し合いをしておく必要があった。

ガボン共和国にあるフランス大使館は、ギニア湾に面した、文字通り赤道直下の首都リーブルヴィルの、白砂の、椰子の木も立ち並ぶ浜を背にした景勝地とも言える一角にあった。そして大使館の玄関脇には、道路に面して、装飾と、建物保護と不法侵入阻止とを兼ねた巨大な岩石が据えつけてあった。それは日本の感覚で言うと、一種の石碑であって、その表面には大きな文字列が刻んであった。Aux Français morts au Gabon.(「ガボンに死せるフランス人たちのために」)と読めた。そこは日本の野口英世が、あのドイツ人医師シュヴァィツァー博士と共に、黄熱病の研究で若い医師としての情熱を燃焼させたところでもあった。酷暑瘴癘(こくしょ・しょうれい)の土地なのである。その土地は、そこへ出かけていって、喩え自分の野心のためとは言え、フランス共和国の、結果的には「尊厳」のために死んだフランス人も多かったことを物語っている。意図はともかく、結果的にはフランスのために死んだと、その同胞を遇して、その心を国家的機関の建造物に、哀悼の言葉として残しているフランス共和国の人間たちの篤い心が私には判った気がしたのである。

搭乗機が、南仏のニース空港で最終的な、長距離飛行に備えた、早朝の、最大限の給油の後、地中海と、アルジェリアと、熱砂の大サハラ砂漠の上空を、ほぼ一日掛けて南下して、その日の夕方、文字どおりの「熱帯夜」が始まった頃に、やっと大西洋岸のギニア湾奥に出るのだが、その地点の都市の一つにガボン共和国の首都リーブルヴィルがある。航空便の本数も多くは無い。

それなのに、旅行日程が長過ぎるのではないか、パリに……あの面白そうなことが山のようにあると言われるパリに、そんなに長く滞在したり、何度も行ったりする必要があるのか、取材、交渉のための前渡金が多過ぎるのではないか、精算が正しいのかなどと、性悪説で想像できる限りの、まるで、それを言う人物の心の中を物語るような、視野狭窄的な、嫉妬のような猜疑心で「出張者」を眺める故国の男女の「同僚」と、つい、その心根を較べてしまうくらい私の胸は熱くなっていた。

熱帯アフリカの、何処までも続くようなジャングルの上空を、日が落ちて、ひたすら目的地の空港の、オレンジ色に滑走路に沿って輝いている筈の照明標識と、その脇に広がる小さな都市の明かりを求めて飛び続ける、数トンのジュラルミンの塊りに命を託して移動しながら、サン・テグジュペリの心にも浮かんだと思われる世界を想像し、それを体験できる自分の幸せと、その直ぐ下にあるかもしれない、多分、密林に呑み込まれて、遺体の収容さえ出来ない一瞬の破局の恐怖は、朝夕のタイムレコーダーの打刻に挟まれて一日が過ぎて行く人たちの人生では絶対に判らないものかもしれなかった。

私は、そんなときでも、故国の友人たちの、哀れとも同情すべき、独断的で、狭隘な精神世界での人間理解に関しては、心の中では、もう「孤独」を感じていなかった。

「肉体的にも、精神的にも、本当の困難を知らずに済むことで、幾多の実際的な恐怖や苦痛を知らないまま、その自分の幸せの意味を知らずに済む人は、常に居るものなのだ……」と、私は自分に言いきかせていた。そうした精神的消耗は、人によっては苦痛となるが、人によっては、常にある種の勉強にもなると、私は思うことにしていた。

 

こんなことを書くと、私が自分を大作家に、無理やり擬える不逞の輩と採られるかも知れないが、そんな体験を通して、私は、アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリが、あの「人間の土地」や「南方郵便機」、「夜間飛行」などを書いた気持ちが判ったと思っているのである。

「ル・プチ・プランス」を、捏造的に「《星の王子さま》」などと「異訳」して、彼の魂をペットもどきに弄んで荒稼ぎする日本の出版マスコミ関係者や、「大先生」たちには、余計なことかも知れないけれども、フランス語の単語や文法の解釈の奥に流れる彼、アントワーヌの心が何処まで判っているのだろうかと私は密かに思うことがある。また、あの「王子さま」には、実は、兄が居るのだと言ったら、そうだと判ってくれる人は何人居るだろうか?

 また、あの、私が、やや意地悪く「表題捏造訳本」と呼ぶ、あの本には、随分初歩的なところに数箇所、誤訳もあると、然る、「日仏協会」で言ったら、その先生を識っていて、愛し、尊敬して止まないという、「信者」の様な、「仏文科を出た」不幸な女性から「じゃあ直せばよいのよ!」と言い返され、狂信的に、激しく非難、罵倒されたけれども、直せば好いと言った問題ではなくて、そんな基礎的なことさえ判っていないことが問題なのだと言ったら泣き出した。私は何も彼女から彼女自身の精神的疲労の自慢話を聞きたいわけではなかったのだけれども。

あの「立派な訳本」では、「エンジンle moteur」のことを「モーター」(昭和三十八年十一月三十日、第五刷発行とされる本の十ページ、第二章)、「故障la panne」のことを「パンク」(同前)と訳しているなど、当時の「文科系大学者」の、現代人には不可欠な、機械工学など現代社会全般に関する知識の、初歩的で、悲劇的で、致命的な無知が想像できる。他にも、一人だけで、自分の小惑星に君臨する「小さな星の王様」の台詞の邦訳も辻褄が会わないが、それは、ある意味では「原著者」サン・テグジュペリに対する深刻な冒涜ではないだろうか。

また、飛行機に取り付けてある駆動用の機器はエンジンであり、その故障は、決してパンクとは言わないことは、その書籍の編集者には判った筈だと私は思う。その意味では、訳者の先生、勢い込んで翻訳出版に挑んだ大先生にとっても不幸なことだったと私は思っている。

「大先生」は、大往生されて、もう、おいでにならないし、愛弟子を任じる彼女からは、未だ、その「訂正版」は届いていない。

 

そうした経緯の中で、我々は、灼熱、熱帯の、黄熱病の予防注射なしには出かけることの出来ない、灼熱の土地、ガボン共和国にある、フランス大使館の領事と交渉した。その領事は、精悍だが、小柄な男だった。まるで、インドシナやモロッコ、アルジェリアの戦線を渡り歩いて自らを鍛えてきたような、意志の強そうな、眼光鋭い、小柄なフランス人だった。日本がなさることには、我々はとやかく言える立場にはありません。しかし、あなた方を国際社会の、ある意味の競争者と考えた場合には、わが国が営々と築いてきたこの場所の便益を利用して、言葉は悪いかもしれませんが、正直にいって、無神経な競争者によって、我々の友情の相手の領域と思っているところへも無神経に踏み込まれるようなことになり得る事態には、出先の責任者として、どんな気持ちであるかを察して欲しいのです、と彼は、自分をさらけ出して率直に言った。勿論、人間は自由です。我々は自由を尊重しています。然し、気持ちだけは聴いて下さい。彼は、そう言った。それは、意地悪な邪魔立てや嫌味ではなかった。何故、それを黙過したのかと、辣腕の彼自身が、パリから激しく叱られる可能性もあったかもしれないのだった。

我々がアラビア語の番組もそこから近隣諸国向けに放送したいと言っていたことが、特に気になったらしい。長い年月と、多くの犠牲も払って、折角、自分たちが築き上げた、信頼と友情の舞台であるアフリカ・アラブ圏に向けての、日本人たちによる放送を警戒している様にも採れた。

私は、即座に、いや我々は、レマルクの有名な小説の、「西部戦線異状なし(イム・ヴェステン・ニヒツ・ノイエス)」の様なことを実施する積りはありませんと言った。それは、第一次世界大戦中の、嘗てのドイツの出先機関の、中央政府向けの報告を揶揄的にキャッチフレーズ化したものであり、当時のドイツ国内の話だったけれども、事実を正しく伝えない行為を表わす例を意味する言葉としては、官僚が惰性的に仕事をするような社会なら、日本ででも勿論、また、時代の如何を問わず、何時でも、人間社会ならば、何処にでもありうる話であった。つまり、話を拡げれば、国際放送という言葉に、下世話、通念的に付き纏っている様な、無神経な謀略放送とか、中国の古典で「四面楚歌」と呼ばれている戦略的な偽計、政略的なフェイントを、人間には行う可能性は大いにあることである。そして、我々も、それを疑われても仕方がない状況だった。そのため、私は、先方の「信用」を得るためには、敢えて言葉を重ねざるを得なかった。我々は、その種の、一種の意図的な国際的作為を行なう意図は持っていない。アラビア語であろうと、スワヒリ語であろうと、そして、将来的には、ハウサ語の放送など、どの地域、どの国の言語を用いるのであっても、ここからも、国際的な相互理解を維持、促進するための、真実の報道を、「地球市民(シトワイヤン・プラネテール)日本人」として放送する積りなのです、また、不幸にして予知された場合には、受信地域の人たちの安全のための、噴火や、有害火山ガスの噴出、津波や、その他の自然災害、また、この時代なら、不幸にして在りうるかもしれない「衛星落下」や、常にある「流星落下」の危険情報も入手すれば直ぐにも出せますと、彼の目を見つめて私は言い切った。

「シトワイヤン・プラネテール(地球市民)の義務を果たすのです……」と私が、特に言葉に力を入れて、繰返して言ったのは、やや教科書的な台詞だったが、それは本心だった。それでも、猜疑心のある人からは、盗人は、常に、言い訳を用意していると言われてしまえば、それでも効果の無い説明だったかもしれない。然し、我々は決して盗人ではないのだし、私は、黙っている訳には行かなかった。

すると、彼は、黙ってこちらの説明を聴いていたが、扇風機が鈍く音を立てて廻り続ける、赤道直下の大使館の応接室の机の脇で、やがて、固く、暫く、私の手を握り、ややあって、静かに、「私は、言いたい事は、貴方に言いました」と言ってくれた。私も、彼の青い目を見つめながら、黙って、その手を、こちらの両手で、力一杯、握り返した。

「判っている」、「判ってくれて有難う」……それら総ての気持ちを込めて。

それは外交交渉などというものではなかった。一つの行動に関する、人間同士の話し合いだった。

日本とフランス共和国、日本とガボン共和国という、重複する二国間の作法に関してはリーブルヴィルの日本大使館や東京の外務省などの外交専門家たちには、熱心で精力的な作業を通して、当時の国家元首ボンゴ大統領を日本へ招待するなど、外交実務の面では、多大の世話にもなったのだが、その結果……道義的にも、我々は、その施設の賃借利用が出来るようになった。

 

木村局長はその報告書を仔細に読んでくれた。

……そうか、彼らはアラビヤ語の放送に、そんなに敏感なのだ、と。

そして、その時に、私がフランス人高官と交わした言葉を、了解したという様な意味の態度を見せてくれた。

 

私は、フランス人にも、木村局長にも、それを言って良かったと思ったのだった。感傷的かもしれないが、私の心身の疲労や不満は、不思議なことに、その局長の態度で一挙に消えたような気持ちになったのだった。

 

フランスへは、東京大学をはじめ、日本各地から「仏文の英才」が主にパリへやってきた。そこでは、彼らは、自分で問題を発見し、指導を受けたり、議論の相手になってもらえる人物を発見できたりした時は幸せとして、二、三年程度で帰国していった。その中には、留学帰りという、自分にだけ判っている不成就感を押し殺してこの国で生きている人物もいるだろう。また、ぬけぬけと、彼の国の文明を征服、理解してきましたと公言して憚らない者も、さぞ多いのではないかと想像している。いや、私自身、定年後の、第二の職場で、フランス語のテキストの制作業務に関連して、実際にそうした人物の何人かにも出会った。自分を知る者は自分である。そうした自分を隠して、自らの破廉恥に気付くことなく暮らしている者も相当数居るのではないか。

話は跳ぶが、中国から、奈良の唐招提寺へ苦難の末に来てくれた鑑人和上に思いが及ぶ。彼を招いた大和政権の本心は仏道礼賛を口でだけ称える、当時、増えすぎた、仏道者の真贋の鑑定にあったという。仏道を称えれば国家が、それだけで抱えてくれる時代だった。その種の者が、生活の安定を求めて群がり寄ってきたために奈良の官庁の財政が危うくなったという。そうした人物たちの真贋を確かめ直す必要があったという。その種の、人物の真贋鑑定を、現代の「洋行帰り」に当てはめている機関は今のところ日本では何処にもない。フランスは一つの例だが、「外国留学」の人間的真贋の判定を行うところは何処にもないのである。成果や、効果の薄い「留学」は、錯覚の横行のまま野放しなのである。

冗談じゃない! 

行けば何とかなるものさという勇敢な姿勢の足の下に待っている、この問題は、今でも日本人旅行者とか留学希望者にそのまま差し上げたいと私は思っている。いや、勇ましいだけの、個人、個別の渡航希望者だけではなく、国民が知らない間に、政府官庁や有力私企業などから「研修」に出される「エリート」たちにも。

喩え、行って、見ているうちに激しく、深く、大きく目覚めることはあり得たとしても……。つまり、超絶的な天才が何時現れるかもしれないという謙虚さを、常に考慮したとしても、である。理窟の問題ではない。後は、現実は、それを行った人間の、自分の責任である。

 

時間は前後するが、私がフランスから帰った、数日後、未だ、任地名古屋へ戻らず、東京にいたときに、小中は、小さな劇場のようなところへ私を連れて行ってくれた。最先端のアーティストと言われているという混血の小柄な青年が、仔細ありげに何やら首を傾げたりしながら声を出すと喝采が起こっていたが、何に感激して皆があのように叫ぶのかが私には判らなかった。アメリカの芸能人の模倣のようだった。自分は田舎者なのだろうと思ったが、借り物、お仕着せの興奮には、やはり付いてゆけなかった。

私は、田舎のプロデューサーという位置付けなのか、入局して七年経っても、そして、フランスへ留学してきても、元通り名古屋の放送部へ帰って行くことになっていた。しかし、東大や慶応といった東京の大学を出た者たちは、それ自体は滑稽な現象だが、あたかも「本丸の侍」であるかのごとく、二、三年の「地方」勤務で東京へ「帰って」いった。小中も東京の芸能局へ「帰って」いた。どうでも好いことだが、当時、特にアナウンサーの世界では、「地方勤務」から東京へ転じてくる仲間に、「お帰りなさい」という、知性を疑いたくなる様な挨拶が当たり前のように行われていた。自分たちを「何様」と思っているのか、また、自分が生かされているこの国の社会や文化の背景を、鈍感、無頼の網元が「漁場」とでも呼ぶかのごとく振舞っていた。自らが蒔いた傲慢の種は、いずれ自分で刈り取らなければならないことは、その後、判った筈である。

 

十月に帰国した私は、籍は報道部、仕事は教養部という変則的な身分で、ほぼ十ヶ月間、名古屋局で過ごした。しかし、日本が経済復興の成果により国際的な競技大会を主催できるようになったことを世界に示すという「東京オリンピック」の取材放送態勢が組織され、外国語を駆使できる要員が必要となり、社会部の末端の語学要員として駆り出された。私は、身分は報道局政治経済番組部員だったが、その時期が近づくと、私は「語学担当」という、意味不明の外国語要員として、代々木公園内のオリンピック村に設置された前線基地の取材要員の一人になった。

東京オリンピックの、競泳女子百メートル背泳決勝戦では、フランスのクリスチーヌ・キャロン選手が本命視されていて、優勝した場合にはテレビの生中継で彼女にインタヴュするために、私はプールサイドで待機していたが、キャロンはコンマ二秒差で、アメリカのキャシー・ファーガソン選手に破れた。

放送はされなかったが、私が、念のためにと収録インタヴュしたら、彼女は、髪がまだ濡れたままの姿で応えてくれた。「頑張りましたね、感想は如何ですか」、「率直に言って、優勝できなくて残念です。しかし、私は全力で泳ぎました。満足です」と。私が「それでも二位だし、トリコロール(フランスの国旗)がセンター・ポールに揚がったから立派じゃないですか」と言ったら、彼女は意外な問いと思ったのか「それは結果です」とだけ言った。祖国の代表という意識は、希薄に感じられた。「次のモントリオールを狙いますか」と尋ねたら、尚更、意外な問いと思ったのか、周囲を、目で監督の女性を探しながら、「そんなこと、判りません」とだけ応えた。次の四年間に、どのような選手が生れてくるのかも判らないのに、つまり、自分が再び選手に選ばれるかどうかも判らないのに、次の開催地の名を挙げて、スター気取りで、次こそは、とか、次もまたと、競技を私物化したような言葉を平然と口にする、一時期の、女子柔道など一部の無神経な日本人選手との差を実感させられた。クリスチーヌ・キャロンは謙虚な、普通のフランス娘だった。そして私は、多分、変なことを尋ねる日本人だったと思う。唐突な喩えだが、上海、南京、重慶……と、他人の国の泥沼に踏み入るような、冷静さを忘れた日本の、つい最近の軍事行動を、私は、ふと思い出していた。

 

当時、教育テレビには午後八時台に「教養特集」という定時枠があって、私も何本か企画提案して制作したが、あるとき、友人が「世界と平和」に関する番組を企画して出演者の一人として小田実を招いた。私はその番組のFD(フロア・ディレクター)を勤めた。小田とは、そのときが初対面だった。小田が出演すると聞いて、小中もそのスタジオへ来て、番組終了後、三人で新橋の烏森へ呑みに行った。

小田はギリシャ文学専攻という理由で、フルブライト基金による留学生としてアメリカへ行ってきた青年だった。彼は自分の二年間のアメリカ滞在や、帰途のヨーロッパや、帰途立ち寄った各国の見聞記を「何でも見てやろう」という本に書いて、日本人青年の諸外国への関心の姿勢の原形の一つとして話題となっていた。読めば判ることだが、彼の特徴は、留学とは帰国後に、その「はく」を利用して厚遇と高給を得るための手段では決してないと言い、世界を自分自身の眼で素直に客観視するのが目的であるべきだと言外に言っているように私には採れた。私は、留学直前の名古屋時代には、小田の「何でも見てやろう」はまだ発行されたばかりで、私はそれを読んでいなかった。しかし、偶然、類似の発想からか、自分もルーブル美術館やブリティッシュ・ミュージアムなどでギリシャなどの歴史的な名品を見たあと、それらが生れた場所へ行ってみたくなり、帰国途次旅行にギリシャの十日間を申請して、そこで過ごしてきたと言ったら、「おもろかったやろ」と小田が言った。

 

ギリシャでは、パリで、特に選んでアテネまで乗って行ったのはギリシャのオリンピック航空のコメット機だったのだが、私はアテネ到着早々、予約も何もないので、エール・フランスのアテネ事務所の職員に、その会社の職員の搭乗要員の宿泊ホテルでも紹介して欲しいと頼んだ。すると、その種のホテルはオムニア広場という目抜きの一角にあって、会社の契約ホテルだが、失礼ながら君には高いと思うと言って、下町のペンションを紹介してくれた。彼の、その配慮に礼を言って、そのペンションへ行くと、肥った、愛想の好いギリシャの小母さんが、日本人の宿泊客は初めてだが何でも聴いてくれと言いながら五階の部屋の外のテラスへ夕食を運んでくれた。そこから見ると、視線の先の、丘の頂上に照明を浴びる、白い石組みの小規模な教会のようなものがあった。あれは有名なアクロポリスではないだろうが、何というところかと尋ねたら、リュカベトスという丘で、その山頂からのパルテノン神殿の夜景が美しいと教えてくれた。

夕食後、独りでその丘を目ざした。十月の半ばだと言うのに、アテネの夜は海に近い所為か、日本の真夏の夜を思わせる蒸し暑さだった。街の裏へ廻ってオリーブの林を丘の上に向かって小道を辿ると、若い男女の組み合わせが、その組み合わせごとの過ごし方で宵闇の中にあった。リュカベトスの頂上にはギリシャ正教の小規模な、石造りの教会があって、そこには堂守と思われる、偉丈夫で黒い顎鬚のお坊さんがいた。しかし、パルテノンの神殿は見えなかった。何故かと、準備不足でギリシャ語までは喋れなかったので、思い切ってフランス語で聴いたら、電力の節約で照明は週末だけだと、その顎鬚が、身振りと、イタリア語というよりは寧ろラテン語そのもののような、そして、彼の親切と努力の所為と思われる、フランス語とも採れる言葉でいった。

その丘からは、遠景にピレウスの港と、その周辺の光が瞬く、美しい夜景が見え、「何処から来たのか」という坊さんの問いに答えながら、暫く、私は、その、やっと辿り着いた「異国の丘」の一つの、岩と土の匂いを嗅いでいた。

昔はパルテノンの、丘の上の神殿の前の、テラス状の広場では、神への祈りの意味で、毎晩、大きく火を焚いていた。アテネだけではなく、ずっと南東方向の、スニオン岬の先端の神殿でも同様だったと彼が言った。サロニカの海の中の、ある島、エギナという島のアフィア神殿でも盛大に焚き火をしたものだと教えてくれた。

何故だと思うか……と、彼が私に尋ねた。申し訳ないが、私は東洋からの旅人で、この国の文化が讃えてきた、貴方たちの神々のことを深くは知らないと正直に応えた。

構わない、と黒髭の堂守が言った。そして、それは、夜、エーゲ海で魚を獲る漁師たちのために目印を一晩中示し続けるのが目的だったのだ、と言った。信仰のための副次作業とも言えるが、解釈は君に任せる。現在は、灯台がそれに替わっているので不要となったが、我々の先祖は、そのようなことをして生きてきたと言った。

 その夜、憧れの土地だとして私はギリシャへ来たのだが、そこは数学の符号のような文字を用いる国で、女性は顔だけではなく裸身もまた素晴らしく、男性は、あの白目をした大理石の彫刻で見るような、頭髪や体毛の濃い逞しい身体を持つ国で、ヘロドトスや、ソクラテス、アリストテレスやピタゴラスなど歴史や哲学や数学など、人間探求の「科学」に尽くした、数々の先祖の偉業を誇る国として、その雰囲気の片鱗に触れる目的で、私は、そこにいたのだった。

しかし、目的は一見、高邁な関心に支えられてはいたが、「過去の国」を眺めたと思って、その旅に満足する、私は、やはり浅薄な観光客の一人だった。

そこにも生活があり、工夫があり、生きるための雑事処理の忍耐と苦しみがあり、その努力をしない者にとっては、そこも、やはり地獄でしかない土地であることを知らない、私は、不幸な「旅がらす」だった。

 

アポロンへの賛歌と祈りの背後、底流には、深夜、海で、生きるために網を引く、苦しい作業と工夫の要る生活があったのだ……。

 

 ……暗いから、岩の多い坂道で滑らないように!

 ……エフカリスト(有難うございます)!

 

兄か、父のように注意してくれる、黒く長い頬髭の、長身の堂守の笑顔に見送られ、私は、そう思いながら、深夜に近いオリーブの坂道を下ったのだった。

 

翌日、私は、あの巨大な大理石の神殿の全景がアクロポリスの丘の上に聳え立つのが見える、向い側の。低い潅木の茂る小高い丘に登ってパルテノン神殿を見た。感激だった。太い列柱が重い屋根を掲げて、白い建物の群全体が何かを、全力で叫んでいるようにも見えたのを今も思い出す。

「パルテノン」という建物は、別名「パンテオン」とも呼ばれているが、その「パン」は「館」、「テオン」は「神」で、まとめると「神の館」となり、ギリシャ語で「神社」または「神殿」を意味していて、その種の建造物の通称である。そして、アクロポリスの丘の上に建てられている、その「パンテオン」は、固有の名称として「パルテノン」と呼ばれている。それは、ギリシャ語で、「乙女」または「処女」という意味である。

その想い出を小田に話すと、パルテノンの全景を私が眺めた丘、そこは哲人ソクラテスが、冤罪だったのに、自分は自分の理性と論理には背けないと言って入牢した処でもあり、その丘の名前は「フィロパポス」だと、「パ」に力を入れた、若干、関西訛のような発音で言い、自分もあの丘へは何度も行ったと言った。恐らくソクラテスのこと、その生涯を少し話題にしたかったのだと思うが、「知性や情熱の孤独の意味が判るところだ」と、後のある日、私に話したのを覚えている。

ただ、その時は、彼は、アクロポリスの丘の、そこからの眺めについて、簡潔に自分の感激を述べただけだった。

「あれが西洋というものの叫びの姿やと思うわ……」と小田は言い、心の中から止めどなく湧き上ってくる、人間としての想念とか創造の意慾が、噴出すように、あの丘に、形をとって、あの夥しい白い石の柱を並べさせたのだと思うと、彼は私の目を見ながら熱を込めて語ったのを今も覚えている。

日本は遠い。東洋は文字通り、遠い東方の世界である。ギリシャ人たちは、その存在さえ知らなかったであろうし、たとえ漠然とでも知っていたにしても、殆んど関心は持たなかっただろう。我々は、その遠い国の若者である。

しかし、人間であることに変わりはない。人間として言ってみよう……。

「……みんな、心の中に自分のパルテノンを持たなあかんと思うわ」とも彼は言ったようだった。

 

「人間……というものに執拗に覆いかぶさってくる欺瞞の《汚染》を拭い去る、その努力、疲労に負けたら、生きている意味が無いではないか」と、これは私の言い換えだが、そのように彼と頷きあったのを覚えている。

我々は三十歳を過ぎたところだった。

 

その後の彼の行動は、ある時は脚光を浴び、ある時は、主として評価する側の知性や理解力に左右されて無視されたり、軽視されたりしたこともあった。それが、主として商業的な成功を重視する、今日の言論報道、出版などの世界の特徴に起因することは、彼も熟知していた。良い意味での、それらの「利用」の術にも彼は通じていた。しかし、それによる名利に走ることはなかった。

人々からの関心が遠ざかることもあったが、別に彼は耐えていたのではなかった。「人間ちゅうもんは、そんなものや」と言っていたかも知れない声が、私には想像できる。青春時代の、パルテノンを眺めながら噛み締めた、大袈裟とも採れる興奮の言葉、「知性や情熱の孤独の意味」を、彼は生き続けることで、彼を知る者たちに、自分の生きる姿を通して語っていたように私は思う。彼には、そうせざるを得ない、引き下がれない論理があったのを、私はその都度理解していた積りである。

北東アジアの近代化の波の中での、関連人種相互間の利己と利害の相克を、冷静に、正しく見なければならないといった意味のことを彼は繰り返し言っていたように思う。淡路阪神大震災では、この国の行政当局が、この国の官僚たちの特徴なのだが、記録と成果を重視しすぎていて、彼らには人間の友愛という、この動物に固有の心が動いているとは見られないと、激しく怒り、嘆いた。

そして、しかし、彼は諦めていなかった。人間というものに対する自分の判断は間違ってはいない。自分の気持ちを判る者は、何処かにいる、誰かが判る筈だ。そのように彼は言っていたと、私には思えている。

 

七十五歳を二ヶ月近く過ぎた、二〇〇七年七月三十日、午前二時五分、彼はガンに斃れて、もう逢えないところへ行ってしまった。     (080427)

 

*       *       *

 

 開高健との初対面の記憶はない。いつの間にか知り合いになったような気がする。「ベ平連」の会合だったか、数名での会食のときだったかも覚えていない。二年年上の男で、我々のそのころの感覚では、彼は私の上級生だった。

終戦の年に私は中学校一年生だったが、そのころの、二年上の三年生は、物凄く大人に見えていた。しかし、十八年後の、青春後期に入ると、一般に男の三十代が既にそうであるように、私が三十歳のころの三十二歳の彼は、哀れにも少しだけ多く年をとってしまった男のようにも私には見えた。しかし、また、彼は、その分だけ老練で、一人の世間知の塊りのようにも見えた。

 ウイスキーの会社の広告宣伝に携わっていたという雰囲気も彼には全くなかった。知性の王子を素早く捕えた天女のような夫人、牧洋子(まき・ようこ)の掌の上の、知恵のある男で、その彼は、会うたびに、今、天から降りてきたばかりの男のような感じさえした。何となく、口を聴き、ものを言うのが怖い兄のようにも見えた。

大阪と京都で青春と想念の炎を燃やし、そこで世の中と人間を見抜くことを知った男のようにも見えた。東京は行政上の首府であり、経済の心臓ではあったが、それが何だ、心の首府は俺自身だと言っているようで、それが私には魅力だった。そして、どこか一種の風圧を感じさせる男で、やや間を置いて言葉を発する彼の話し方は、一語一語が、鋭い警句のように聞こえて怖かった。それでいて顔を見ると、微かに笑顔だった。

当初、彼は私を、長谷川君と、「わ」に力を入れて呼んでいたが、やがて、仲良くなったら、長谷川チャンと、「は」に力を入れて呼んでくれるようになった。私は、関西も東のはずれの、伊勢、桑名で育ち、揖斐川南岸の、東西日本語の接点に当るところで育ったのだが、小田実との場合もそうだったが、西の訛で言葉を交わす方が落ち着いて話が出来た。

 私よりも先に開高と関係を持ったのは、先に話した、音楽、演劇担当のプロデューサーの林叡作(はやし・えいさく)だった。彼は父に似ず、軽音楽分野の知識が豊富で、その方面の知己が多かった。技術力の高い名バイオリニストの息子だから、さぞや丁寧な父の薫陶を受けて、世に言う、栄光の二代目と輝いているはずだと私は考えていた。北陸の、能登から出て、京都で花開いた稀代の日本画家、長谷川等伯(とうはく)親子のように想像していたのだが、林に関しては、才能とは一種の潜在性であって、必ずしも同じ種類の花として開くものではないことを私は見る思いだった。彼は組織力のある、軽音楽を含む先端的活動の推進者になっていた。

その彼が開高健の初期の出世作、「裸の王様」を、名古屋でテレビドラマとして演出した。開高は、別にそれを喜んでもいなかった。林叡作の作品解釈に関しては、「そうとも言えるな」というようなことを言って、批評はしなかった。書いてしまったものは、書いたことの責任は採るが、すでにそれ自体に一種の「いのち」があって、それを生んだ者の外にあると考えているようだった。尋ねられれば、それを書いたときの気持くらいは話せるが、自分もすでに変化しているのだから、縁日の売人のような宣伝行為はしたくないとも言って、「原作者による解説」には応じなかった。テレビドラマについては「まあまあやな」としか言わなかった。

そのドラマに、林が、当時名古屋局の、若手の誠実な名アナウンサー、川上祐之(かわかみ・ひろゆき)と私に出演して欲しいがどうかと、半ば冗談で言ったことがある。ドラマの中で、図画コンクールの一等賞になった作品の主の少年に報道陣がインタビューするシーンがあり、マイクロフォンを手にした本物のアナウンサーと、当時、「デンスケ」と綽名された箱型録音機を肩に掛けた取材プロデューサーに我々二人が向いているというのである。確かに本職だから迫力はある。しかし、面白そうだったが、アナウンサーはともかく、プロデューサーの私は本来業務との関連で、そうした、ドラマへの出演の理由が見つけにくかった。また、当時、我々の間でも盛んに論じていた、ロシアの名映画監督、エイゼンシュタインのドラマトゥルギー(演出論)に照らしても正しくないという判断で私は断った。いや、断るまでもなく、林には判っていたのだが、一寸話題にしただけだということで、それは笑い話で終った。

演劇の専門家にとっては幼稚な議論に類することだろうけれども、あのころの新思想としては、演技をするということは本物そっくりに振舞うことだから、その芝居の場面に本物を持ってくれば、それ以上強い者はないという理窟に傾くのが当然と思われていたところへ、ロシアの映画の名監督が「それは違う」と言ったことに端を発していた。エイゼンシュタインである。社会主義の世界の芸術家だから労働者が引き合いに出されていたが、彼は本物または実物の行動と、本物を演じることとは違うことを強調して、工場などの現場で働く労働者をそのまま舞台へ連れてきても芝居は成功しないといった。

ここで私の経験が出てくるのは唐突であり、僭越であることは判っているが、私にも小さな経験があった。当時、日曜日の朝、「趣味の園芸」という、今も続いている、家庭園芸の番組も私は担当していた。たまたま、名古屋には亀岡泰家というバラ愛好家がいて、手入れの適期に剪定とか肥培管理の要領を解説する番組だった。現在は評論家、作家として活躍している、当時新人の人気アナウンサー、下重暁子が案内役だった。下重暁子は名古屋が初任地で、この番組が、彼女がテレビで全国放送に出た最初の番組だった。彼女は気の毒なくらい真剣に、バラの栽培のことを勉強して、にこやかに、見事に番組を盛り上げてくれていた。そのころはビデオ事前収録ということは、名古屋への配属機器の都合で出来なかった。生放送の一発勝負だった。あるとき、その彼女が所要で出演出来ないことがあった。そんなときの代役で私は頭を痛めた。周囲の推薦もあったので、已む無く、ある「名流の令嬢」とされる女性を起用した。しかし、失敗だった。それは、「美しい若い女性がバラのことを専門家に尋ねる」作業だったが、「若い美女」を登場させえたけれども、「専門家に尋ねる」ことは、事前に教え込んでおいた積りでも成功しなかった。令嬢の関心の外にしかないことを私は期待してしまっていたのだった。小さな体験だったが、エイゼンシュタインの「俳優論」はそこをも貫いていた。大袈裟な言い方かもしれないけれども、本物を見せる「芝居」というものの本質に関係する点では、素朴だが同じことだった。

「な、そうだっただろ?」と、最初から、それを無謀だといっていた林叡作が言った。演劇論として彼にはそんな正しい判断も行う姿勢があった。単なる、幸運なお坊ちゃんプロデューサーではなかったことを私はここで言いたいのである。ドラマの中では、確か名古屋放送劇団の名優、岡部(おかべ)と天野鎮雄(あまの・しずお)がその役を見事に演じたと記憶している。

 

そんなことを開高に話すと、「功(いさお)の蔭に涙あり、ちゅうことやな」と彼は言った。しかし、彼は本質的に「芝居」というものを好まなかった。「何で、そんな借り物に興奮せなならんのや」と呟いていた。

架空に託して人生を論じるよりは、人間の行動の結果とか、そうした行動の所産に触れることで自分の感想や次の行動目標を設定することの方に、彼は興味を持っていた。自分で触り、自分で体験したかったのである。人は外側からは、それを「冒険」とも言ったが、彼にとっては「さまざまな経験」に過ぎなかった。暴力、性……など、表面の、いわゆる日常性というものの対象ではない、別の方向の現象とか、政治や歴史、それも、距離を弁えつつも、試みに手で触ってみたいものだったようである。彼が「べ平連」で、日本人が、口先で、世界は、平和が……と言っているだけではなく、形は広告だが、アメリカのど真ん中の、最有力新聞紙上で、堂々と思っていることを、言葉で言い放とうではないかと提案したことも、借り物ではなくて、本物で勝負しようじゃないかという「心意気」によるものだった。

しかし、彼はいわゆる「実行」、「実業」、「実社会」の場には身を置かなかった。旅行、冒険旅行、探検旅行、釣り……それは、彼にとっての「何でも見てやろう」だった。背景が違うので、本当のことは判らないが、現象だけを見ると、どこかアメリカの作家、ヘミングウエーを私は想像していた。

私の小さな体験だが、ある年、私は、スペインの北西の外れの、サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼の列に、妻と加わったことがあった。

フランスのピレネーを南へ越えて、バスクを西へ行きかけると、そこは、嘗てのナヴァラ王国の首都、パンプローナである。そこでは、年一度、丘の上の市庁舎前から下町の公園の広場まで、街の中を青年たちが数十頭の牛を追い込む行事で有名な町である。その広場に連なる公園のカフェ・レストランには、アーネスト・ヘミングウエーがよく座ったといわれる椅子がある。私は、案内されて、その椅子を見て、そっと座っても見たが、何故か、そのとき、ふと、そこに開高健が座っていてもおかしくないような錯覚に捉えられたことがあった。

然し、彼は、その行為に耽溺して、それを思わせぶりに、「名文」で語る、粋人でも趣味人でもなかった。従って、ノンフィクションの人であると自分が規定されることにも無関心だった……と、私は思う。好きとも嫌いともいわなかった。彼自身は言葉にしなかったが、忖度すれば、「言わせておけ」とでも言っているようだった。

彼は小田と、ほぼ同じ時代に、相互の連絡は、日常的には殆んどないまま、自分の目と身体だけを手段として「世界」を見つめようとした青年だった。

彼は東京を、さほど憧れなければならない所だとは見ていなかったらしい、大きくて、便利で、賑やかなところだが、それは大阪にもあることであり、京都も昔からのコスモス(世界)であり、その政治と経済の歴史を紡いできた古都、いや、今も躍動を続ける経済と学芸の心臓部、そこに生きる友人たちが展開する世界は自分の「目」を育んでくれたところでもあった。東京も「便利」だから出てきて、初めは荻窪に住んでいた。そして、「便利」だから、生涯の後期には湘南の茅ヶ崎の海岸近くに住んだ。その家は、茅ヶ崎市が法定相続人から寄託を受けて記念館として維持している。週末、金、土、日曜日には訪問できる。書斎もそのまま残されている。

 

ある日、私は、当時の帝国ホテルの新館ロビーで彼と会った。出版社との打ち合わせで出てきていて、知り合いの編集者との打ち合わせのあと、何でもお好きなものを召し上がって下さいと言い残して編集者は帰っていった。残された二人でフランス料理を食べようということになった。館内の有名レストランへ一緒に行った。「要するにフランス料理というのは何やね」と彼が言った。私は一年間だけれども、フランスにいたが、過ごしたのは、殆んどの期間、パリではなくて、ノルマンディなどの、フランス北西部や南フランスで、土地それぞれの料理を食べたことがあるだけで、日本で料理専門誌に写真入りで出ている料理などは全く食べたことがなかった。フランスは、日本料理がなくても過ごせる土地だと思ったに過ぎない。ただ彼らもそれなりに工夫していて、特に酪農製品とか、動物の肉や脂を、食べ易い味と温度で食卓に乗せる。フランス人が文句を言わずに食べる料理がフランス料理だと思うと、私は、返事にも成らないことを言った。私自身はそうじゃないが、日本人は、一般にフランス語という言葉に代表される世界や雰囲気に、何か劣等意識に似たものを感じすぎていないか。また、それを利用して己を高く見せたいとしているような日本人と、そうした日本人の心理を読み抜いたようなフランス人の宣伝に、奇麗に嵌められているように思うとも言った。その返事が彼の気に入ったようだった。小田の「何でも見てやろう」の底に流れる、森羅万象を即物視しようという気持ちを我々も共有した雰囲気だった。

一呼吸あって、「何が好きや?」と、彼が尋ねた。

「人にもよるだろうが、今日は、ステーキと帆立貝とチーズとワインだ、それと野菜サラダだ、」と私がそれに答えた。

「ほな、それで行こう」ということになった。

「君、注文せや」と彼が言ったので、私は、「コキーユ・サンジャック」と、粒胡椒のソースを少しかけた、少しだけ焼いた神戸牛のステーキと、その日のオードブルと「サラダ・ニソワーズ」を注文し、「ポンレヴェック」は無いかもしれないが、「カマンベール」か「ブリ」のチーズを注文した。ワインは、「ミュスカデ」か、「サンセール」を欲しいが、無かったら、よく冷えたアルザスの白、「リースリンク」を一本と、ステーキのためにブルゴーニュの「シャンベルタン」の普通の赤、そして、パンはバゲットがあったら、それが好い、アイスクリームや紅茶やコーヒー、食後酒は、欲しくなったら、その時に言う、と注文した。

帝国ホテルの食堂だ、フランス料理のレストランだと言っても、要するに日本で手に入る食材を、フランス人がやっているように調理するだけだ……などと言いながら、それでも、それなりに豊かな昼食を楽しんだ。

最近の、人物取材の目標は何かと私が尋ねると、「やくざ、や」と一言いった。詳しくは知らないが、昔の東海道筋の、清水の次郎長のような、一種の「力」だけで人を纏めて何事かの行動を行なっている集団、その老齢の元締めのような人物に会ってみたいのだといった。その人物が人間や人生をどう見て居るかを知りたいといった。

「レアリストやな、兄貴は」と私がいうと。「兄貴か、俺は」と笑った。

 

開高が私と付き合ってくれていたのは、単に、私がフランスへ留学し、既に流行りになっていて、軽薄な日本人たちには、同時に飽きられ始めていたパリではないところへ行っていた「変な奴」だったからである。当時の日本では、誰もまだ、積極的な関心の対象とはしない、知らなくても日本の「知的最先端」の者にとっては恥ですらない、フランスの田舎、ノルマンディの、しかも、その農業の素顔を知るためなどという、「売れないこと」をしてきた男だったからである。ただ、彼は、実際には言葉にしたわけではなかったけれども、彼の傍にいると、「事実や!(事実だ、を意味する西の言葉で、この「や」は、「だ!」と言っていると思って読んでいただきたい)、ファクトや!、本物や!、現場や!、素顔や!、裸や!……大事なのは、いや、おもろいのは……それや!」と言っているようだった。彼はフランス語には興味はあったが、堪能ではなかった。しかし、ぺらぺら、べらべら喋れさえすれば嬉しいという意味での堪能さは、何も、立派な能力ではないと考えていた。私が、自分は、勿論、状況によるけれど、高度な文学談義や、微妙な政治や経済の折衝はできないが、田舎の「あんちゃん」たちとの喧嘩ならフランス語で出来るといったら、「それがええのや」と、変なことを褒めてくれた。そして、レストランの中が少し蒸し暑かったので、冷房を調整しろとボーイに命じてから、冷房はフランス語で何というのかと私に尋ねた。「クリマティゼ」が冷暖房を入れる、で、今のように冷房を入れていることを「クリマティザシオン」というと私はいった。彼は「クール、クーラーと言わんところが、ええ」といった。「クリマ、うん、クライメイトか。言い得て妙や。フランス語のそういうところが宜しい」と、まるで私がその言葉を発明したかの如く言ってから、笑ってくれた。今は、茅ヶ崎市が記念館として維持していて、週末には公開されている旧宅内の随所に見える、パリの街角の「町名表示板」は、彼が言っていた「フランス語のそういうところが宜しい」の御裁定の証拠かもしれない。

 

「事実や!、ファクトや!、本物や!、現場や!、素顔や!、裸や!……」、そういって彼はベトナム戦争の現場へも、新聞社からの話があって、実際に行ったこともあった。当時の日本の言論界には、実戦を知らずに「戦争体験」を語る者が余りにも多いことを諭すかのようでもあった。残されている写真で見ると、加わったのは、アメリカ兵が指揮していた、当時の南ヴェトナム政府軍にだったが、ある日、激戦があって、九割が死んだ。その、反政府軍との戦闘で辛うじて生還したのは幸運だった。いや、彼と我々にとっても僥倖だった。平和の理念からは考えにくい「傭兵」の体験だったけれども。

それ以後、私は彼とは会う機会は殆んどなかった。その消息や名声を、私は出版界や、趣味、冒険関連のマスコミでの動静として知るのみだった。

その後、私は放送協会での、勤務生活の末期、一種のいやな奴の虐めで、突然、インドネシアへ行くことになった。定年間際の、一種の、箱庭的な権力抗争だが、私は仕事の実質で勝って、名目的な栄誉を奪われた。そんなことはどうでも好いことだが、実は、私は、内心、その押し付けめいた、島流しのような命令を喜んで受けた。協会生活で最初に足を下ろした外国の空港はパリのオルリー空港だった。そして、ジャワ行きのその辞令のころ、あと二年で、私は定年となる。従って、帰ってくるときに最後に飛び立つ空港は、多分、バリ島のウングラ・ライ空港だろう。面白い、「パリからバリまで三十年」だ……。

番組制作プロデューサーは、その時点でも、二十五年前の、伊勢湾台風の被災地の実情を報じる、実情報告番組の制作体験での、私の自分だけの勲章、あの「海抜ゼロメートル地帯に生きる」以来、結局、キャッチ・フレーズの奴隷だったのかもしれなかった。

 

そうした自己催眠で、私は、思いがけなく手に入ったジャワやバリをはじめとする、興味ある、若しかしたら我々の、古い時代の兄弟の世界かもしれない人種の住む、その南国の素顔を、二年間だったが、堪能した。日本の官僚の醜い辻褄合わせ。その出先機関の要員たちの家族ぐるみの腐りきった実態。名分を利用した業者たちの醜い所業。情けなくもその南国自体で展開する、その楽園を支配する役人たちの有害昆虫のような、恥を忘れた行動の数々……。

開高が叫んでいたかもしれない、「事実や! ファクトや! 本物や! 現場や! 素顔や! 裸や! ……」のインドネシア版を堪能していた。

 

ところが、そのころ開高健は病床にあった。そして、まだ五十八歳の「若さ」で、この世から去って行ってしまった。

最近、二〇〇九年五月、知人の一人から、当年九十五歳の母堂が、嘗て、茅ヶ崎の病院で、入院中の開高健と、院内の洗面所で知り合いとなり、開高が胃の調子が悪く、喉まで「イガイガする」と言っていたのを聞いて、「そんなものは、貴方の元気で、ぺっと吐いてしまいなさいよ」と、励まし、彼が「そうします」と元気を装って、その夫人に応えたという話を聴いた。その時、私は、一瞬、彼が傍を通り過ぎたような気がした。彼が亡くなったとは、私は、今でも、どうしても信じたくないのである。

 

私は、インドネシアのジョクジャカルタで、やや落ち着いた頃、そこから四十キロ足らずのところにある、あの世界遺産の、広大なボロブゥドールの佛蹟の丘の、何百体とある仏たちの、その顔の表情の一部に、インドの、アジャンタの洞窟の仏陀の像に似た表情が読み取れると思ったことがあった。そこでは、仏たちが「覚り」に到達した恍惚感を表しているのか、私はそれらに、通称「モナリザ」、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ジョコンダ」にも通ずる微笑を感じ始めていて、それを一度彼に見せたいと思っていた。彼と一緒にそこへ行って、それを「本物や!」と眺めると、彼の口からは、どんな言葉が出るかと想像し、ジャワの、椰子とバナナの林を眺め下ろす丘での、彼の表情を思い描きながら、ジョクジャカルタ郊外の、庭にもパパイヤやマンゴーの木のある、私がインドネシア人の政府高官から個人的に借りている家に彼を泊めて……、などと、それを何時、実現させようかと真顔で考えていたころだった。

 

彼は、私が住む、鎌倉の、北側を護るように横たわる丘の西側の斜面に展開する円覚寺の、その堂頭(たっちゅう)の一つである「松嶺院(しょうれいいん)」の裏庭に眠っている。その寺にゆかりの、夏目漱石も享年五十歳と、若死だった。二人の命日は、期せずして十二月九日である。その日は、偶然、私の誕生日だが、それには何も意味はない。しかし、私は、二人の他界の日をそのように記憶している。その、同じ日付の日に、この世を発って逝った、その二人の大文豪たち、その二つの魂は、あちらで、今、何を語り合っているのだろう。

 

夫人、牧洋子も一人娘の道子も、時を隔ててからだが、彼を追うように、急いで、発って逝って、もうこの世にはいない。

 

彼らは逝った。小田実も逝った。

 

思えばまた、二人はまた、当時当たり前になっていた「外国かぶれ」からも距離があった。気にもしていなかった。そのころ、いや、日本では、今もまだ続いているようだが、自分の知性や知識、人生観や世界観を、どこかの外国、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシヤ、中国などの、単独または複数の国や民族の思想や文芸の勉学を通して形成する者が圧倒的に多い時代に、この二人は、「俺」を、憚ることなく称えて、なお、「現代」の日本人だった。

言い方を変えれば、模倣や競争の中で、しかも激しい競争や試行錯誤の中で、日本人が、ともすれば現代の歴史の奔流の中で「己の視座」を失いかけているのが、この我々の時代の偽れもない事実である。思想の背後には、痩せて、ひ弱で、己に甘い、視野の狭い自己しかないのが彼らの特徴である場合が多い。しかし、それでもやはり明敏な者たちの間に培われてきていた、己自身との掛け値のない対決の意味を理解した、精神の「世界性」が、開高や小田の中では、力強く、健全に、花開いていたのだと私は思う。

 

人知れず、夏の夜更けの桜の幹で、新しい知性の、暗緑色の眩い羽の、大きな昆虫が静かに羽化していたかのごとく。

 

彼らは、私にとっては、絶対に心から消えない、眩しい流れ星だった。

 

こう言えば、開高健が、もう一度だけ喜んでくれるかもしれないと思って、思い切ってフランス語で呼んでみるのだが、君たちは、私にとっては、この世で、数刻、激しく、思い切り燃えて、輝き、私の心の中だけでは、今も燃え続けていて、今もなお、その、沸々と燃え続けている音さえ聞こえてくるような、幾筋かの「エトワル・フィラント(流れ星)les étoiles filantes」なのだ!           

(080601)

開高さん、もう一人、君を追いかけて行った男がいる。君の、あの出世作「裸の王様」を、テレビ・ドラマで演出した、林叡作である。

 二千九年、新春、交わした賀状の中で、小中陽太郎が、その葉書の端にポツリと書いてきた。「叡作が、去年の暮に逝った」と。君のところへも会いに行くかもしれないが、一言、「よう」とでも声を掛けてやってくれないか。

 

それから、やはり、あの、「ベ平連」が生れた頃、人間が作り出す、原子力廃棄物の危険性を強く警告していた、佐久間稔も、その前にそちらへ向ったとのことである。放送協会からのパリの特派員として、未だ、私がフランスに勤務して、その国に居た頃、ブーローニュ・ビャンクールの我が家へ、彼が、一時帰国で日本から持ち帰った海苔の佃煮の小瓶を持ってきて、アルザス・ビールとの相性を確かめながら、夜更けまで核廃棄物のことを話し合った頃を思い出させるのだ。

「人間というものは……」と、君のところでも切り出すかもしれないが、彼は真剣なのだ、そして人間を、人類を心配しているのだ、言い分は一通り聴いてやって貰えまいか。                    (090115)

 

    *         *         *

 

大江健三郎について語るのは気が重い。多分、語る資格は私にはないのだと思う。私にとって、彼は、霧の海を、賑やかにではないが、何ごとか、音をたてて、私の人生という航路の周辺を通り過ぎつつある、別の一隻の貨物船のように、私には思える。しかし、難解な男である。彼と言葉を交わした若干の記憶と印象は残っている。しかし、やはり、偶然以外には、今後も会うことはないと思うが、彼と私が無接触で生きて行動できる程度には、この世界は、まだ広いと思う。

大江健三郎は、当代の、世界的な大作家だとされている。私は、彼が三十歳を過ぎた頃に、それなりに彼の素顔といっても良さそうな場面で言葉を交わし、考えていることの若干の論理を聴いた記憶はある。印象では、自分のフィールドから物を言っては来るが、客観性よりは、やや自己内部発酵的な傾向の発想を感じたのを覚えている。慎重というか、用心深い青年だと思った記憶がある。しかし、彼は私のことなどは、多分、何も覚えていないだろう。また、私の不勉強とか、知的な能力の欠如のせいだろうが、彼は、私には印象が薄い。はっきり言って、何が偉いのか、偉かろうとなかろうと、彼の何に感心、感動、感激すれば好いのかは、まだ私には判らない。不謹慎な言い方であることは判っているが、思い切って言葉にすれば、若い者に驚いて見せるのが一種のファッションになっていた時期の、大御所たちの反応の潮に旨く乗っていたような感じさえする。右に述べてきたような、同じ水平線上で言葉を交わして過ごした、小田実や開高健という「二人の兄たち」に較べると、大江は、何処か安全な場所で、何かの特殊な酒に酔ったままの人のようにも思えるし、隣の町の、何を信じて打ち鳴らしているのかが判らない祭囃子のようにも聴こえるが、共通の語彙を探しにくい。また、私には私のなすべきことがあって、そちらへ向かう余裕がない。私は不幸な人間なのだと思う。

しかし、彼も、日本の文化社会に現存する人物であるので、もう少し勉強して、いつの日にか、その実像を私なりに把握したいと思っている。

 

 よく判らないまま言葉にするのは不謹慎かもしれないが、野球の試合中の「振り逃げ」のように、敢えて言葉にすれば、彼が、自分の存在の絶対的基礎のように考えているらしい、既に他界されている渡辺一夫教授の言葉を、彼は絶対視しすぎてはいないかと私には思えるのである。渡辺さんの業績は大きいが、教授も時代の子であられた筈だし、立って歩いてこられた一人の人の子である。渡辺さんが努力の末に、掻き分け探り当てられたと見られる、ルネッサンス期のフランス人たちが生きて、貫いた「リーブル・エグザマン(自由検討)」の精神の歴史的意味を、彼、大江は、絶対視し過ぎているように私には見える。その精神の価値が大きいことは、私も彼に劣らぬほど理解しているつもりである。しかし、渡辺さんが、その言葉に巡り会われるまでの道筋や、その言葉を重要視される、思考の舞台や背景も、我々は知る必要があると私は思っている。「リーブル・エグザマン」は、人間精神が中世の闇から脱却して、人間である自覚を自分の足で確かめる作業を行った時代を評価する美しい言葉ではなかったか。勿論、名言に万古不易の輝きはある。しかし、二十一世紀の今日、産業革命を経て誕生した市民社会が、より一層の複雑さを伴って稼動しつつある世界に我々は居る。社会科学の初歩の教科書がそう教えている。

 

これは、下世話な喩えで不愉快かもしれないが、今では、水戸黄門の随員が「この紋所(もんどころ)が目に入(へえ)らねえか!」とドラマチックに振り回すような種類のものではない。何時でも歌いさえすれば、その都度、従順に、誰もが踊るはずのシャンソンや呪文ではないと私は思う。言い換えれば、彼自身は、その言葉を、特に、その言葉が日本に於いて果たしている「機能の意味と範囲」を、「自由検討」したことがあるのだろうか、と、私は思っている。

 

このあたり、私は情報不足を後悔しながら書いている。彼の考え方も、今はもう、変ったかもしれない。或は、無反省にも、とんでもない、根本的な誤解をしているのかもしれない。しかし、彼が、ノーベル賞受賞で持て囃されていたころの新聞紙上でのフランスの論客との討論では、明らかに、右のような、自由検討思想の本場の君たちが、その線で話していないのはおかしいと言ったようなロジックだったと記憶している。全く噛合っていなかった。感想はその時にも色々あったが、率直な印象を言葉にすれば、「恥かしいほど幼い」の一言だった。今は、彼が何というかは、私には想像は付かない。

 

大江は、既に、七十歳代の半ばを生き続けている筈である。そして、まだ元気な筈である。そして、彼も、まだ、益々考え、一層熟してゆくことだと思う。

 

明日、何時か、彼が私に判る言葉で話してくれることを切に期待している。                                 

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   *          *          *

 

彼の「ヒロシマ・ノート」、「沖縄ノート」についても、私なりの感想はあるが、それらを論じるのは、その本を、更に、もう少し注意深く読み直してからにしたいと思っている。原爆による攻撃を受けるに至った、物質科学の発展の経緯や政治、経済、歴史の経緯、「沖縄」という事態が出来上がった、日本の歴史経済的背景や、日本人の「異国観」とでもいう「国際的姿勢」などについて、多くの分析と多くの判断が既にあるのに、私には未だ、自分の判断で迷う部分が多いのである。すっきりした解釈や判断を簡単には与え難い。アインシュタインやエンリコ・フェルミ、オッペンハイマーや、日本の湯川秀樹とか朝永振一郎などの科学者たちの目を通して見た、人間や社会を、どう考えるべきかをも、一緒に考える友であってくれたらと思いつつ、彼のそうした「作品」を、私は読んできた。

 

彼について書こうとすると、何時も、どこかで見た、迂闊な論評を拒む、例えば、ルーヴルの、ダヴィッドやドラクロワたちの大作とか、パオロ・ヴェロネーゼの「カナの婚宴」の様な、名画の大作の模写を見せられ、対抗されているような錯覚に陥るのである。名画の意味は判る。その価値も判る、しかし、その元の絵は彼が描いたものではない。彼自身の目や、手や、足が、歴史の舞台や現実の藪を掻き分けてきた、汗や、疲労や、息遣いや、切り傷や、利害や苦しみの心の叫びなどを、私は感じたり捕えたりすることが出来ないのである。

「彼の絵」が私には、「まだ」判らないのである。

彼の作品に関して、何故その様なことを言い、書いているのかと言おうとすると、へえ、こんな大事なことを知らなかったのかと、こちらの、日頃の「知的活動」の「貧弱さ」を責められる気持ちになるのである。

彼の応援の船も、大小、船団を形成してこちらに対抗している様に感じられる。やはり濃霧の遠距離から、彼に砲撃されている様な錯覚に陥るのである。

彼は、私などとは違う世界の人なのだろうか。

 

何か、突き放したような言い方に聴こえるだろうが、しかし、それでもと言うのか、それだからこそと言うのか、私の心には、彼に対する強い愛着が住み着いている。

それは、彼には迷惑かもしれないが、彼が「芽むしり仔撃ち」で闘った、その青春初期の、……大袈裟な言い方をすれば、彼の魂の初期の孤独な闘いに私は共感しているからである。

その闘いが彼の心の「祖形」の一部かもしれないと、ふと思うことが、しばしばあり、私は自分自身の記憶の中にもある、人間というどうしようもない、無神経で、無理解で、臆面もない、自己愛にのみ多忙な、しかも、仲間、社会などといった集団機構を構築し、クラス会から始まり、同窓会、同期会などから、遂には巨大な政治機構までをも構築している、人間という動物の集団に取り囲まれていた、あの「青春の孤独の闘い」を思い返すことが出来るからである。

また、その青春の舞台が、東京や京都、大阪といった、日本の近代文明の芽生えの舞台でもあった都会からは遠い、彼の場合は、西国(さいごく)、四国の伊予であり、私の場合は、伊勢の桑名だったという、田舎者という決め付けの洗礼を潜り抜けなければならい場所だったことが共通していたからかも知れないと私はふと思うのである。

やや、いや、かなり失礼なことを言っているのかも知れないという気持ちが消えないが、彼、大江健三郎も、この点だけは、私を判ってくれるだろうと思っている。

この稿は、一先ず、ここで終るが、実は、この話の途中には、特に加筆したり、敷衍したりしたいことが多くあった。また、主に自分の不勉強の所為だが、言葉を選ぶにしては、展開させる素材などが資料的に不十分と考えて、悔しく思いながらも書かなかったこと、いや、書けなかったことも多くあり、実はそれが欠けていると話全体が纏まらないことも多くある。

 

それらに関しては、自分で、より一層、深く勉強もすることを前提として、もし、運良く、機会に恵まれればだが、他日を期したいとも思っている。友人、知人、関係者の方々からの、ご厚意ある情報の提供と「ご叱正」も期待している。

終(090401)

News Letter

文教大学講演会

NPOマイスターネットでは、大学とのコラボを目指していますが、過日、文教大学からリーダーシップに関する講演依頼がありましたので、下記の通り、同大学の情報学部の大学生を相手に講演しました。

 

テーマ:ソーシャル・マーケティング、大学から社会へ
~問われるリーダーシップとは~

日時:平成24年12月10日(月)13:20-14:50

場所:文教大学湘南校舎(茅ヶ崎)

レジメ:こちらです

 

講演後、何人かの学生から活発な質問があり、学生の関心の高さを実感しました。

今後も、このような大学とのコラボの機会を設けていきたいと思います。

講演会「リーダーシップ入門」

本NPO理事長の橋本氏が精力的に講演会を行っている。

去る11月18日にイーテクノ株式会社で企業向けリーダーシップ講演会を行い、コミュニケーションの重要性とリーダーシップのあり方について説いた。

講演内容はこちらです。

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講演会 「創造的な生き方の発見」

本NPO理事長の橋本氏が、7月29日に京橋会館で開かれた講演会で、「創造的な生き方の発見」という講演を行った。

「人間は本来80歳~90歳まで創造的な仕事をできるが、日本では制度がそれを阻んでいる。皆、それぞれテーマを見つけて頑張ろう」という主旨の講演でした。

講演内容はこちらです。news_4_1

マイスターネット5周年記念集を発行

マイスターネット設立から昨年末で5年を経過したのを記念して、その間の活動をまとめた「マイスターネット5年間の歩み」というパンフレットが5月に作成された。

 講演やワークショップなど60回を越す活動が題目と簡単な内容で紹介され、何枚かの写真で、雰囲気もうかがうことができる。

  

インドネシアから  頑張れえええええ 日本!

アイコア社の日本語指導をした時のフェルディカさんから東日本大震災の復興激励のメールが、3月末に届きました。

私はインドネシア語の勉強をお休みしていますが、「楽しいインドネシア語」の講座の皆さんに資料としてお渡しました。そしたら石橋さんが訳をしてくれたので、一緒にご紹介します。

インドネシア人の優しさ、彼の真摯な気持ちが伝わってきますね。                         (赤井記) 

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