昭和四十六年、一九七一年、私は、勤務先の職員家族寮の生活だった武蔵府中から鎌倉の、現在、住んでいる、今泉台五丁目六番地の十三に引越してきた。尤も、その時は、今泉一一〇〇‐八とかの地番だったけれど……。そのとき私は「職員持ち家制度」という企業側の考え方に沿って、この土地を、勤務先の共済会経由の斡旋を受け、退職金を担保に、銀行の融資を受けて購入し、全体で、基幹部分を約千二百万円の予算で、六十坪余りの土地に、建蔽率五十パーセントの家を建てて入居したのだった。尤も、その後、数年前に、息子が結婚して、我々と同居することになったので、家そのものは、全面的に改築したけれど。

最初に、武蔵府中から移り住んだのは、八月下旬だったが、自宅の周囲には、新しい家が、時期を前後して、同時並行的に、一斉に建てられていて、色々なところからの人が、この、鎌倉の八幡宮裏山一帯に住み始めた。

そこは、浅い谷を持つ地域で、、その土地の、従来の、僅かな住民たちの、父祖の代からの、杉とスダジイと楠の目立つ、雑木林からなる、薪炭林だった。長閑な里山に、現代を反映する、新しい集落の誕生だった。入居初日、私は、夜空の星の美しいところだと、嬉しく、強い印象を受けたのを記憶している。

人文地理学的な描写をすると、そのあたりは、鎌倉八幡宮の北側を走る、標高百メートルほどの峯に沿って東西に延びる尾根の、谷の湧き水を利用した、中山間(ちゅうさんかん)稲作地帯で、それに畑作が混じる「里山」が、突然、主として、大都市通勤者のための大規模住宅地帯に変質したのである。

そうした地形の名残は地名に、今も残っている。

春が近づくと、山のあちらこちらには、野生と思われる桜が花開き、里山の風情を一段と豊かにしてくれるが、実はそれらも、人為の努力の所産である。

この辺りの山は、従来の、この地域住民の、燃料の薪の補給地であり、随所に、炭焼き場があったし、近くには、石切り場の跡もある。また、そこは、栗や椎などの木の実や、神棚に供える青葉(あおは)や、茸類の採集を含む、林産物を採取して暮らす、中世的な村落慣行の、一種の入会権(いりあいけん)の対象地域であり、中でも雑木林は、燃料用薪炭林として大切な共有財産であった。また、燃料薪としての木々の樹種を見た場合、桜の木は燃やすと、火力も強く、燃焼時間も長くて、最高の薪だったという。杉や松、檜、楠、椎、椿などに混じって、桜が多いのは、花が美しいからではなく、いや、それもあったかも知れないが、桜の木が、それ以上に薪としての価値が高かったかららしい。

この地域は、全体の地名は「今泉」で、一説では、千年ほど前に、空海、弘法大師が、この付近の山の、裏山の岩から湧き出る水を、貴重な灌漑用水でもあるので、「黄金の泉」と名付け、それを漢字で「金泉」と書いたのが始まりであると言われている。それを、「コンセン」と記憶していた人たちが、文字を取り違えて、「今泉」と書き、それが、訓読みで「イマイズミ」となったのだとも言われている。

その今泉に入居した年の秋、この地区の出入口に当たる一角に、新築入居した者たちを対象にしたと思われる「植木市」が開かれていた。可なり大きな松や、桜、楓、槇、カイヅカイブキなどの株が、大きな根を藁縄で包まれて沢山、並んでいた、

私の土地登記の時の名称は、山林を登記する時の様に「今泉滝ノ入り番外地」だった。他にも、「吉が沢」……などと呼ぶ地域があり、直ぐ南側の、以前からある、円覚寺周辺には、鎌倉時代に「山ノ内」と呼ばれていた所もあった。

そこの住民には、その「山ノ内」の名称が鎌倉時代の、北条家など有力一族の所縁の名称であることから、何時しか、それが、一種の威厳の土地とも感じられたようである。そのため、昭和の末期になっても、その「余光」にすがる者もいた。「平成」になっても、気分は同じだったと思う。そこに住む者たちの中には、なけなしの財産をはたいて入手した積りの土地ゆえに、自分を出来るだけ大きく、高く見せたいのか、周囲が行政的に「今泉台」という呼称で住居表示が決められても、「虚栄」を「心の自由」とすり替えて、所謂、「住民パワー」として「山ノ内」の呼称を墨守し、歴史的な正当性や、血縁的な論拠は全く無いにも拘らず、その地名を譲らない人たちがいて、我々の町内会の一部も形成している。そうした自賛的評価は、客観性のない、欺瞞であり、一種の、歴史的な「上げ底」である。言わば、戸籍詐欺の一種である。

これには、土地住民の精神状態に配慮しない、鈍感で、無機質で。不勉強な、教養の乏しい行政当局者の資質や姿勢にも責任があったと私は思う。彼らは、自分自身の苗字の由来さえ考えたことはなかったと思う。自称文化都市の非文化的官僚と呼ぶべきだろう。文化都市と自称できるのは、その種の次元の事柄を強靱な知性で処理できる官僚を持つ都市の場合だと私は思う。

地名に関する、そうした現象は、カナダのケベックやモントリオール、アメリカのニュー・オルリーンズやその近くのバトン・ルージュなどでも見られたことであり、それはそれでも良いのであって、歴史がそのように流れてゆけば、それでよいと私は思っている。

大げさなことを言えば、学生時代に私が専攻したフランス農村史の研究では、パリ大学のマルク・ブロック教授が、フランスの地名に、ジュリアス・シーザー時代のローマ帝国がガリア地方に与えた、ゴール時代のフランス農村の地名についても、ローマの影響とか、土地住民の、歴史への故なき迎合があって、歴史の分析や、地理的名称の学問的な追跡に際しては、意味判別上、細心の注意が必要であると述べている。

また、余計なことかもしれないが、外部からの訪問者は、目的の家を探すのに一苦労するし、遠くからのタクシーなどは、目的地を探し当てるのに難渋して、メーターだけがカチカチと数値を増やす原因ともなっている。

新開地であった我々の住居地域も、その地域の呼称を新しい行政単位として確定することになった。

地名、土地の呼称に関しては、入居者の意向の尊重という原則から、新しく出来た町内会が市当局に、この地域を、鎌倉の北部にある土地であるために「北鎌倉」と呼びたいと市役所の当局に、回答し、当局側もそれを認めた。町内会の名称もそのようになり、バス停もそのようになった。

一方、我々の地域の西側の、低い谷間に以前から住む人たちは、当初は、JRの「北鎌倉」駅周辺の地区が、鎌倉に「北」だけを付けた、如何にも日本の鉄道らしい発想の、「北鎌倉」などと言った「人工的な名称」を嫌って、数世紀前の「山ノ内」を墨守していたので、我々は、方位を示す「北」という言葉の地理的な合理性からも矛盾はないと考えて、その地名を選び、念のために、「山ノ内」地区の町内会の役員を、直接、訪問して、口頭でその旨を通知した。「結構ですな……」という返事だった。その時点では、彼らは、自分たちが見向きもしない、空疎で、貫禄のない呼称を、新参者が自称するのだ、程度の低い者たちが、聴くに堪えぬ呼称を拾うというのだから、精々、世間から蔑まれればいいじゃないか、と満足げだった。彼らは、自分たちの呼称が「新旧」の「旧」に属し、歴史的な貫禄を継承することで満足していたと見ることが出来た。

人間には、自分でも気付かずに居る、数々の心の病がありそうである。

外側から羨望される集団に属している場合、自分で自分の価値を冷静に反省する手間を省いたか、元々その作業を自分に対して行なう能力のない者たちが、笑うべき理由で己を高くして、自足している場合がある。そして、自足だけなら良いが、その驕慢とも言うべき態度を、冷静であるべき場面にまで持ち込んで恥じないこともしばしばである。一昔前の「旧華族」がそうだった。

そのことは鎌倉に住みながら、己の低能さ加減に気のつかない若干の人間にも当て嵌まる。「北鎌倉」を忌避した「似非山ノ内族」にもそのような者が居た。己を高くする……それ以外に、何にもない者たちが……。

ところが、地名の語感とか印象とかいうものは曖昧、気まぐれで、「北鎌倉」を歌詞に織り込んだ、「北鎌倉の改札出たら……」で始まる「石楠花(しゃくなげ)」という歌謡曲が流行(はや)り、土地開発業者が、「北鎌倉」の音の響きを、そこにある古刹などの写真を添えて、伝統的な土地であるという雰囲気を持つところ……と、意味ありげに宣伝し、称えているうちに、旧来の住民の間に、自己催眠的に、それを素晴らしい名称と考える感覚が生まれたらしい。そのため、その「北鎌倉」の呼称が、が、徐々に「荘重な歴史的名称」と受け取られるようになったように思われる。そして、その名称を侮蔑して捨てた筈の住民たちが、新しく「今泉地区」に入居して、そこを「北鎌倉」と自称し始めた住民を、突如、「伝統ある、歴史的な名称」の簒奪者の如く呼ぶようになった。奪われそうになって、元の名が惜しくなった、イソップ物語にでもありそうな、先住民たちの、見っともない足掻(あが)きだった。

一説には、以前落選した、その地区の市会議員候補の、失地回復運動の一環だったとも言われている。そうしたことが背景となって、それが、突如、「歴史を守れ!」の、浅薄な「民衆運動」となり、我々は、その連中からは「文化の破壊者、美名の簒奪者」とまで言われるようになり、新聞の記事にもなった。

 

しかも、その、我々を非難する集団の先頭には、地元の狭量で戦闘的な先導者たちに担がれたのか、円覚寺や建長寺の上級の僧侶までが「歴史的知性」の名に於いて立つようになった。少なくとも、反対の文書には、「朝**……」などと、それらの名前が重々しく列挙されていた。

理解し難い論旨だった。何故なら、彼ら寺院当局者が「死守」しようという北鎌倉という地名は、それらの寺院が、中国からの招聘僧、蘭渓道隆や無学祖元たちが、鎌倉時代の末期に、北条時頼らに招かれて来日、来鎌したときにつけた地名、「巨福山」(「小袋谷(こぶくろや)」の地名の原形)とか「瑞鹿山」という伝統的で、由緒にかなう地名とは全く異なる、新しい「軽薄、陳腐」な名称だからである。あの、今の時代の僧侶たちは、色里の遊び女の『源氏名』を擁護するに等しいことのために、歴史と伝統のある「寺の名」を賭けているに等しいのだから。

普通に考えても、「山ノ内」に拘る、「北鎌倉」の住民が、自ら捨てたその名称を、近くに入居した、新しい住民たちが、地理的な合理性に基づいて採用し、自称としようとした途端に、それは俺たちのものだと横槍を入れてきたのである。単なる新参者イビリ以上の何なのだろう。しかも、その住民たちは、そこを「巨福山」とも「瑞鹿山」とも呼ぼうとしているのではない。地名が危ないと叫ぶヒステリックな「新市民イビリ」に加担すべき理由は微塵もないはずである。

この際、寺がとるべき姿勢は「現世不介入」だったと思うのだが、誰か然るべき「寺門」の方の存念を聴きたいものである。

そうでなければ、あの標高八十メートルの山の民たちは、時折、山に響く、修行僧たちの「喜捨」を求める叫びも、中味のない、形骸化した、世俗に汚れた、単なる「坊主のシャンソン」位にしか聴かないだろう。仏法は、己(おのず)から、その山で崩れたとも思えるのである。

それは、精神的に純粋と思われていた宗教者の、「現世」の利得への強引な関与であった。嘗ての興福寺や、比叡山の僧兵を思わせるような挙措とも採れた。知性で住民を非難するのだったら、その「知性」を駆使して、固執したい呼称の正統性を説き、「人間」、「衆生」に向かっても、新しい人たちに判り易く説明して、その人たちとの融和を模索するのが本筋だと私は思う。その「知性」の延長上に、新地名についての工夫を施して、仏典とか、故事来歴の書からでも「名言」を探し出して、「新住民」たちにも、妥協できる、新名称を「妥協案」として示唆して、新地域名の創設に参加しても別段、不自然ではなかったと思う。

千年前に入唐(にっとう)して、苦難の後に、当時の先進哲学を修めて帰国した空海、弘法大師だったら、その様なこともしたと思う。現に、彼らの百メートルほど上の山間地帯に出現した住宅地「今泉」には、その、嘗ての「中国留学僧」のアイディアが生きているのだから。

然し、残念ながら、名刹を預かると自負する当代の寺院管理者たちには、そうした心の動きがなかった。

古代、インド北部のカピラ王国の王子、シッダールタが修行を重ねて、悟りを拓き、仏陀と称され、釈迦如来と崇められる偉大な人格に由来する、アジアの人類の歴史に輝く、哲学に基づいて、立派な「法」を説く、あの方(かた)までもが反対しておられるそうだ……と人々は驚いた。

宗教が中立ではなく、歯を剥いたと、善良で無垢な新入居民たちは受け取り、恐れさえした。それ以来、この谷間に、時折、響く托鉢への喜捨を求める、大声の叫び声には、何か一貫性が欠けていないかと、「山の民」たちは聴いていると思う。

もっと古い時代に、苦難の末に悟りを拓いた聖者で、「仏陀」とされる、右に今述べた、インドのシッダールタと呼ばれた方と、その態度を、つい比較してしまうのである。私の知るところでも、仏陀は、同時代の、迷い悩む者たちに対して、丁寧な応対をされ、人としての様々な生き方を丁寧に示唆されたと聴く。今の一部の「仏門」の人たちとは、何処か違っていないだろうか。また、禅宗の宗派は違うかもしれないけれども、「脚下照顧」は道元の言葉だと、石柱にも大書、彫り刻まれているが、「脚下直近」の問題を「照顧」した結果としての、「新住民」たちとの具体的な融和の動きは、その人たちの口からは出て居なかった。

自分たちで弄り回した、「北鎌倉」という、手垢まみれの名称を、風向き次第で嫌ったり、それに噛り付いたりする姿勢の、何処に「禅」を修めた者の証拠があるというのだろうか。「禅」は、現世と無関係な「精神の体操」ではないと我々は思うのだが。

肥大化した組織エゴは、何時かは「澄んだ眼の者たち」からの裁きを受けるだろう。返事は要らないが、自問だけはしてもらいたい。ともかく、寺門の介入だけは余計だったし、無意味だった。彼らは、その無意味を、どのように正当化しているのか。  

我々も、等しく「市民」であり、仏教者たちから見れば「衆生」なのだが、彼らに対しては、「仏の愛」は降り注がなかった。その民たちは、誰からも支持されず、取り付く島のないまま放置された。

そうなのですか、お坊さん。

貴方たちにとって、同じ天の下に生き、尾根続きの山地に住む、理性と知性の生き物である積りの我々は一体、何なのですか?と、今でも思う。

事態がそのように展開すると、市当局も、「結構ですな」と、当初は、我々「住民の意思」を承認しておきながら、理由もなく、翻然と、その呼称の不使用を通知して来た。暴挙だった。然し、押し切られた。鎌倉市当局も、新住民を裏切ったのである。我々の税金で、市職員として所得を得ている、その頃の担当者の氏名も、市の記録を見れば明らかである。冷静、中立と信じていた「市当局」というものの良心と信頼性の限界も我々は学んだのだった。その時点で、市役所は、我々からは、非常に遠い存在となった。

 

我々の地区は、未だ寄りあい世帯で、統一的な意思が育つほどには睦み合っていなかったし、狭い地区相互間でも、やはり纏まり方や呼称に関して、内紛さえあった。そのため、一時は市当局が承認した「北鎌倉」を、その先も称え続ける勇気のある者はなく、再び、新たな地名選びが始まった。そして、「鎌倉湖」(という「溜池(ためいけ)」)に魅了されたかのごとく「湖畔」という言葉を探し出してきて、昭和初期の流行歌のような、手垢にまみれた「湖畔」に憧れる者までが出てきた。然も、それが多数居た。然し、住民で投票の結果、この住宅地は、「今泉台」という地名となった。当時、不動産業者が開発地販売用に工夫した「**台」という呼称が流行していた結果だと見られている。

住民は、自由に提案できたので、右に言った様に、私は、「北鎌倉」が、駄目なら、高地にあるので「上鎌倉」とか、鎌倉市の北部に位置するので、高松塚古墳でも見られるように、古来の方位の呼称から、「北」を意味する「玄武」を提案したが、歴史や古事には無関係の「湖畔」と「**台」に翻弄されたのか、当住宅地住民には、考慮の対象にしてもらえなかった。歴史感覚や、若干の知性を駆使すれば、理解できない案ではないと、今でも思っているので、私的には悔しいことである。

この住宅団地に、終(つい)の棲家を設定しに遣ってきたのは、大半は、戸主が大学卒の中年のサラリーマンだったが、中には壮年期のサラリーマン生活に終止符を打って、鎌倉に「落ち着く」積もりで、ここに住み始めた人も少なくなかった。この土地の開発の初期に入居して、すでに「先住民」として我々を迎える人たちも居た。そのため、余り面白くないことだが、動物の一種である人間の性(さが)として発生する「新参者いびり」は、そこでも、数少なくはなく体験してきた。

一つは、先述の、この新住宅地の呼称を「北鎌倉」と呼ぶことに対する、「山ノ内」族の、古刹、名刹を先頭に建てた、狂ったような反対運動と、もう一つは、住宅地内での、入居の新旧に関連する「猿山騒動」に匹敵する、「新参者いびり」だった。何れも「民主主義」という進んだ民衆思想の一部を局解した、狭隘な嫉妬心の裏返しのような珍事だった。

それを書き始めると、本が一冊出来そうだが、私には才覚も能力も筆力も乏しいので、それは誰かに譲りたい。

 

今、六月……。我が家の南側の庭の、大きくなった山椒の木に、今年も青い実が沢山付いている。その実を、味醂醤油でサッと炒る様に火を通しておくと、折々の食事に風味が加わって、楽しく過ごせるのが私の喜びの一つである。息子夫婦と一緒に住んでいるので、若嫁も必然的にその生活に巻き込まれているが、最初は面食らったらしい。

その山椒は、私が、この住宅地に入居した年の秋、住宅地の入口の空き地で開かれていた植木市で、幼くて、細い苗を三本百円で買ってきたものだった。私はそれを、南側の家の勝手口が直接見える位置と、庭の南西の隅、裏の、やはり北西の隅に植えた。苗は、生命力が旺盛だったのか、三本とも活着した。

その三本の山椒は、数年後には、春、幼い若芽を匂わせ、すでに季節の味覚を刺激した。また暫くすると、若葉が、例えば、筍を煮て食べるときに添えて出し、小さな葉の一枚と共に、その筍と共に口に入れると、正しく日本の春の味だった。また、アサリや蛤の汁に浮かべると、桑名で育った私にとっては、懐かしい、遠い、郷里と、若い頃の思い出にも繫がる味だった。山椒の若葉と並んで、五月下旬から六月初旬にかけての、花の後の、青い山椒の実は、香りも良く、右に言ったように、浅く醤油で煮ておくと、数ヶ月間は、食卓の友にもなった。

山椒の若葉と、青い実が沢山採れるようになると、近所の知人への「お裾分け」が始まったが、ビニール・ラップに包んで職場へ持ってゆき、意味の判る同僚に配布するようにもなった。それを聴き付けた、別の部署の女性職員までが分配相手の仲間に加わった。「長谷川農園ではないので…」と、大勢への分配までは不能と述べたが、じゃあ、来年は、私にもね……と気の長いことを申し出る女性も居て、奇妙な「食物ソムリエ」の役を果たすことにもなった。

入居して四十年。孫娘が、やがて小学生となるが、増改築と、隣家との相隣関係で、南西の、庭の隅のもの以外は伐ったけれども、四十年前に百円で三本の苗として我が家に遣ってきた山椒は、今も敷地の南西の隅に、一本が、立派に存在感を見せて、これからも、新芽や、若い実で、我が家の食卓に貢献してくれるものと私は思っている。

終(20100611)

  

(蛇足・註 「ソムリエ」は、わが国では、ワインのサービス関連の用語と、一般には考えられているようだが、語源は、「『ソンム』を運搬する者」の意味である。また、「ソンム」とは、昔、言った「荷駄(にだ)」のことであり、その「荷」の中味は食料だった。だから、ソムリエとは、食料運搬係の意味であり、本来は、大規模な合戦や、遠征軍に随伴した、広い意味の、軍隊で言う「輜重兵(しちょう・へい)」のことである。したがって、「ソムリエ」とは、難しい顔をしてワインの講釈を垂れ、宴席や食卓を、誇らしげに、そして、時には、難しい顔をして、睨み続ける人物ではない。また、特別の高い地位を示す呼称でもない。一定の集団の、食生活の円滑化のために、良質の食材と飲料の過不足のない補給の維持に努める職分の人物を指している。笑顔でサービスを続ける、忍耐強い「食卓の天使」であることが理想である。

黒い衣装と白い、糊の利いたエプロンは、日本の現代社会の一部での職業的な付属物であって、その本質とは直接の関係はない。まして、日本で、片言のフランス語を話せることは、出来ればそれに越したはないが、「ソムリエ」の必須要件ではない。フランスやイタリアなどのレストランの、酒係りの「ボーイ」である。今日は、この店では、何が美味いか、とか、こちらが選んだ皿に、どんな飲物が合うかを尋ねると、気さくに、楽しく、美味な組み合わせを示唆してくれる立場の人物であって、高い酒の押し売りを、もったいぶって強行する種類の、暴力酒場の「オニイサン」のことでもない。                        

……因みに、筆者は、以前、数年間、日本ソムリエスクールの副学監を務め、その学校のフランス語の教師でもあった。)