書斎などと言うのは恥かしいが、私が寝起きして、ものを読み書きする六畳の間が、我が家の、二階の南東の隅にある。十年ほど前、息子が結婚して、その夫婦と一緒に住むことにして、家を建て替えた時に、彼らが、私に宛(あて)がってくれた部屋である。その部屋からは日の出や、月の出も見えて、満月の時は森の向うの、ゴルフ場の方向から、晴れていれば、大きな、丸い月が上ってくるのが見える。その窓の内側の下には、畳一畳分よりはやや狭いが、分厚い板で、作り付けの机を作ってくれた。テレビ受像機やパソコン、印刷機などを配して、現役時代に職場で作業をしていたのとほぼ同じ配列と感覚で「作業」が出来るのは嬉しい。問題は、していることの中味と質だけれど……。

 窓の内側の上部にも二メートル余の棚があり、その上には、親戚、知己、友人の名簿や、辞書類、頻繁に、読んだり、読み返したりする本を立てている。そして、その棚板の縁に数箇所、金属の鉤を取り付けて、カトレアやデンドロビュームといった蘭など、植物の小鉢や、ヘッド・ホーンなどを吊るしている。

 その鉤の一つに、一寸長すぎるネックレスが一本ぶら下がっている。

その首飾りは、ある年、私が七十歳になった頃、妻と長女と私の三人で、アフリカのチュニジアを、二週間ほど、奥地にかけて、割合細かく回った時に、サハラ砂漠と繫がる、その国の外れに近い、メルズーガの砂丘で、そこで家畜の番をしながら、訪れる観光客相手に、土地の手芸品などを、土産物として売っていた、ある青年が呉れたものである。勿論、普通の旅行会社が募集し、組織した、ツアーの、やや風変わりなものを選んで行ったに過ぎない。だから、特に意味があるわけではないが、私には、遠い異境の思い出の一つである。

 

 その、メルズーガとは何処であるかを、先ず、説明しなければならない。

それは、アフリカ北部の、マグレブ・アフリカと呼ばれる地帯にある国の一つ、チュニジア共和国の南西部、サハラの大砂漠に繋がる、奥地に向う街道に沿った地帯の、あるオアシス都市の郊外の一角であり、現地人たちが僅かな草地を利用して、僅かな羊を放牧に出したりする他は、一望、空と太陽と砂の原野が視野を満たすところである。

もう少し教科書的に説明してみよう。アフリカ大陸の北側が地中海に接している地域を東側から順番に列挙してみると、アフリカ大陸が大きなアラビア半島の付け根で、スエズ運河を挟んで、ユーラシア大陸と繫がっているあたりがエジプトである。それから西へ順次、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコと続き、モロッコは、西側で大西洋にも面している。これらの地域にはイスラム教徒が住んでいるので、彼らの聖地メッカから見ると、そうした土地は、西の方向にあることになり、その地域を、太陽の沈む方向、つまり「西」を表すアラビア語で、「マグレブ」と呼ぶこともある。

そして、何故か、エジプトに隣接するリビヤは別にして、チュニジア、アルジェリア、モロッコの三つの国を、別名で、一纏めにして「マグレブ三国」と呼んでいる。どの範囲の人種を指すのかは正確には判らないが、今は国を持たない、ベルベル系の人たちが多い、現在の、それらの国々でもある。

チュニスで出会ったモロッコの友人の話では、彼らは、その「マグレブ三国」の人たちの国民的気質を、アルジェリアは「男性」、チュニジアは「女性」、そしてモロッコは「ライオン」、或は「王者」だと言っている。そう言っていたのがモロッコ人だったので、これはモロッコの人の自負、自尊心から出た、一種のお国自慢かも知れない。確かに、今でもモロッコは「王国」である。そのためか、こうした譬え(たとえ)も、それらの国の内政や外交の特徴と関係していると見ることが出来なくはない。多分、地域の特徴を反映した、一種の「地政学」から出た、国民性の特徴だと見ることも出来る。

事実、チュニジアで、ある人物から聴いたところでは、チュニジアを「女性」に擬(なぞら)えるのには理由がある、という。チュニジアは、東西にリビヤとアルジェリアという、比較的面積も広く、また比較的深くサハラ砂漠と接している国に挟まれた、比較的小さな国である。石油資源にも恵まれず、現代の国際社会に伍して、存続を続けるにも、国の資源として利用できるのは、ヨーロッパ諸国からの観光客相手の、南国的な風土のみで、観光立国といえば聴こえは好いが、それ以外には、農業面での砂漠を利用したオリーブ栽培と、北部の地中海岸地帯での麦作程度である。

また、地理的に見ると、地中海を瀬戸内海と見立てた場合、その海を東西に走る交易の運搬船の中継地点として便利な、高松とか、琴平(ことひら)の金毘羅(こんぴら)さまのある町に相当する地点を占める国である。

ヨーロッパとの関係で見ると、地中海に長靴のように延びているイタリア半島の先端のシシリア島を介して北方との交流が繰返されてきたところである。

古代史のポエニ戦争とか、ローマへ遠征したハンニバルなど、ロマンさえ掻き立てる登場人物たちの活躍の舞台でもあったし、現代も、イタリアがヨーロッパ人たちのヴァカンスの目的地であるのと同じような関係で、イタリアの、海を挟んだ南側のチュニジアやリビヤは、古代ローマ帝国時代の皇帝や王族の保養地であったし、ローマの人口が増えてきたときにはチュニジア北部は、ローマ人たちの食用の麦の一大生産地でもあった。

また、現今は、電気通信時代であって、国際間の重要な情報は、通信衛星とか、地上の電気通信網で速報されている。そのため、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の、相互の通信のためには、衛星を経由するものと並んで、ヨーロッパは三箇所でアフリカ大陸と、マイクロ回線で繋がっている。東側は、トルコ経由の、シリア、レバノン、イスラエルなどの国々を経て、エジプトと結ぶ経路であるが、途中の国々の、国際社会での事情が複雑で、「安定度」という点では、信頼性が高くない。一方、地中海の西側はジブラルタル海峡を挟む、スペインとモロッコであるが、海峡の先端には、いろいろな国の権益が設定されていて、やはり「安定度」の確保には、相当な覚悟や忍耐や工夫が要るようである。

もう一つ、三番目が、イタリアとチュニジアを結ぶ経路である。イタリアのシシリア島が、北側の関門である。南側は、古代遺跡で有名なカルタゴの北東の、ホーン岬で、真っ白な砂と真っ青な海と空が、二つの大陸の電気通信の、目には見えない重要な信号の通過回廊である。そのためもあってか、国際電気通信連合の、一時期の会長はチュニジアの要人が勤めていたことがあった。

チュニジアは、言わば、二大陸の、通信網の結節点にある、一つの重要な国家だったのであり、今も、その立場は変っていない。何か、今になっても、ローマとカルタゴの関係を髣髴させると言っては、歴史書の読み過ぎだと謗(そし)られるだろうか。

然し、チュニジアは、現代も、その国自体で精強な軍隊を組織する国力はなく、仮に武装していたとしても、近代的な装備が前面に出て行なわれる近代戦では、戦端を開いても、数分、精々、四十五分くらいしか交戦能力がないと言われている。だから、結局、国の防衛は、軍事国家であることはやめて、密貿易を取り締まる警察力程度の武装に留め、観光立国、平和的な人材育成で、観光業とか、考古学の充実、若干の近代的な科学技術を駆使する人材の育成が、国際社会で生き延びて行く一番利巧な方策だと、この国の一般も考えているとのことである。つまり、チュ二ジアは、軍事的には控え目で、マグレブの「女性国」という位置付けを受け入れているのだと解釈されている。

広大な砂漠では、昼間は、大気が澄んでいる時は、地表面と上空の大気の温度差が原因で、視野の遠くに蜃気楼が現れることがある。そんな時には、一望の砂漠の微妙な凹凸が、湖に浮かぶ島のように見えることがある。また、アフリカ大陸と地中海とが太陽で熱せられてできる気圧の渦が、もっと広い、地球規模の空気の流れに支配されて、この地域の上を寒冷・温暖の前線として通過している時には、気圧の渦で、竜巻が砂漠の砂をうねうねと、文字通り竜が天へ昇ってでも行くかのような形に空へ持ち上げることもある。それほど激しい気象の変化に見舞われないときでも、日が昇って、四時間も五時間も地表面が熱せられ続けると、温められた空気が上昇を始め、大気中の水分が雲となるのだが、その雲が芋虫のように立ち上がって、成層圏に達するほどの巨大な柱のような雲となることもある。壮大、広大な、大自然のドラマを見る思いにさせられることもある。

そうした大自然の下で、人は、羊を飼い、ラクダを追って、乳を搾り、生活物資を運搬して過ごしている。

砂漠と砂丘とラクダは、日本という島国の、月雪花鳥(げっせつかちょう)だけが自然であり、世界だと思っている、幸せだが、世間の狭い不幸な人間たちが、月の夜、若い男女が、二人だけで、ラクダの背中に、無防備に金と銀の鞍を置いて、王子様、お姫様面(づら)して旅行できると思うような、ノーテンキなお伽(とぎ)の世界の風物ではない。その素顔は、もっと恐ろしいものである。第一、満月は一月(ひとつき)に、つまり、三十日に一度しか巡って来ないし、月の半分以上は、変な時刻に、変な形の月が、大空を渡って行くに過ぎない。

砂漠は、日が昇れば酷暑となり、砂丘の窪地を求めて、「暑さを凌ぐために」暫く身体を横たえなければならないところであり、先を急ぎたい者に、「おや、お天道(おてんとう)様、東へ後戻りしないで下さいよ」と、「日脚(ひあし)」の遅さを嘆かせ、星が輝く時には寒さにも震えるところである。それでも先を急ぎたい者は、厚着をして、夜の「涼しさを利して」、主として、北極星を目印にして旅路を稼ぎ、赤道より南だったら、季節の星座を頼りに進路を探ったものだった。季節によっては、日中は、猛烈な砂嵐があり、言い伝えでは、三月頃の「シムーン」と呼ばれる嵐で、四十頭ものラクダの「隊商」が、ラクダごと、砂に埋まって消えたという話まであるという。湧き水の位置を「オアシス」として記憶していても、一夜の砂嵐で、それが消えることがあり、心の貧しい放浪者が、砂漠の「野盗」として襲い掛かってくることもある原野である。

また、人の集まる「カスバ」と言えば、悪と悲惨の渦巻く「無法者たちの市場」だと早合点して、そこに、悪の華のような、無秩序のエネルギーまで想像するのは、自分の心の中の、己の貧しい盗癖を正当化したい人間の「不幸な夢」の世界であって、現実からは極めて遠い。

「カスバ」とは、現地の言葉では、「城」であり、警備兵たちの「屯所」であり、「城館」であり、「広壮な屋敷」を指すのであって、市場を意味していない。「カスバ」という言葉で日本人が誤解している「市場」は、日本で言えば、例えば「城下の朝市」とか、寺社の門前市から発達した、常設の市場地区のことであって、一時期、誇張されて、西洋の娯楽映画で場末の遊客を騒がせた、非合法な行為や品物が何でもあり、麻薬や銃砲、火器、刀剣、盗品類の闇市とか、売春窟が怪しく群がる、悲しげな「ラヴ・ホテル」界隈のことでもない。

砂漠の通商の規律維持のための機関は、昔から設定されていた。ラクダで運ばれてくる品物の保護と、それらに対する課税の制度が昔からあった。旅荷は調べられ、持主を確定され、課税され、厳格、公正に保護されていて、一定の秩序があった。中国の、嘗ての長安からイスタンブール、ローマまでを結んでいたと伝えられる「シルク・ロード」もそうだったと聴く。そして、そうした、保安、課税、秩序維持のための要員の「屯所」や、「住居」や、「邸宅」を、その地方、アフリカ北部地方では「カスバKasbah」と呼んだのである。

モロッコも、アトラス山脈の東側を旅すると、「カスバ」という名の、「ホテル」兼、「食堂」兼、「コンビニ」兼、診療所も備わった建物があり、言葉の本当の意味の「コンビニエンス(便益)」を満たす施設と見ることが出来る。

また、モロッコの奥地のワルザザードという町からアルジェリアの国境に向う街道には「カスバ街道」と呼ばれる、重要な通商街道がある。人々は、そうした通商路を経由して、塩、薬剤、食料、調味料、象牙、獣皮、羽毛、金属器具、繊維織物、金銀貴金属、宝石類などと、大切な生活情報を各方面に向かって運搬して、歴史を紡いできたのである。

 砂漠は、太古の昔、地球が水と岩石とで形を整え始めていた数億年とかの間に、海である時期を過ごし、その海底が干上がったところだと言われている。

そこには夥しい砂があり、塩の層もあり、砂の起伏が水を含んで僅かの植物を抱えている。そして、何時しか、そこも人間の生活の舞台になったらしい。

 ところで、アフリカの砂漠に、サハラ砂漠という広大な地域がある。その「サハラ」というのはどういう意味かと尋ねたら、それは「砂漠」という意味だという。じゃあ、「サハラ砂漠」は、「砂漠・砂漠」という、変なことになるじゃないかと言ったら、そうだと言った。そうした砂漠地帯で生活しているアラブ人、ベルベル人から見れば、中央アジアのゴビの砂漠も、タクラマカン砂漠も、アメリカのアリゾナの砂漠も、広いオーストラリアの内陸の大砂漠も、すべて「サハラ」だそうである。

そうなると、「サハラ」という言葉に、何がしかの情念を含ませて、叙情の舞台にしようと思っていた、温帯地帯の柔弱な詩人たちは、言語の罠に嵌ってしまったように、喉を詰まらせ、一瞬、「文字通り」言葉を失うことにもなる。日本にも鳥取の日本海沿岸地帯には「サハラ」があることになる。

然し、それを、「文芸のルール違反」だとは誰も言えない。

「言葉が先にありき」ではなくて、言葉とは、物に後から人間が着せた、彼等の「文化」の一枚の衣である。人間の頭脳や、情念なんていうものは浅薄なものなのだと思わざるをえない。それにも拘らず、ギリシャの哲学者や、キリスト教の偉い人は「言葉が先にあった」とか、「ロゴス」とはと、言い募っている。それは、彼らの哲学……つまり思弁行為だから次元が違うとでも考えなければならないのだろう。

自然があって、そこに人間が増殖し、文化が生れたのか、文化的な深遠な哲学が最初にあって、それを一定の基準として、人間がそこでの生活を始めたのかは、議論の対象にもならないだろう。

事実の流れがあって、その後に、人為の意識の流れが生れ、それが、場合によっては人間精神の「潮流」を造ったというのが、自然で、理解し易い流れだと思う。

肇国(ちょうこく)意識というものは、古代の民族の自己認識の段階では、例えば、日本歴史の「天孫降臨神話」の様に、判り易く、楽しく、信じていさえすれば万人が平和に生きて行けるとした場合の「古老の歴史解説」の様な、一種、幼稚で、非科学的なものだと私は思う。

鎌倉の自宅の書斎の窓際の、植物の、細かい、乾燥させた種子や象牙を、ビーズ玉細工のように繋いだ、こげ茶色と琥珀色の数珠のような、やや長い目のネックレースは、繋いである玉の大きさや、数や、全体としてチョコレート色を帯びた、その連珠は、あの砂丘を闊歩する女性たちの肌の色との調和を念頭に細工したと思われる色調が、今も、あのサハラ砂漠の、砂の彼方の蜃気楼を思い起こさせる首飾りである。また、その長さというか、装身具としてのサイズは、日本の女性のものよりも一回り長く、大きく感じられる。

日本の力士を思わせる、と言ったら、種々の反論が出るかもしれないが、あの、小麦色の、胸も臀部も堂々とした、唇までもが美しい桃色に膨れ上がった、大きな黒い目の、白い部分が、心持、青くも見える、サハラの女性の豊かな身体を飾る平均的なサイズであるとでも言えば好いのだろうか。

それを私に呉れたのは十七歳と自称する現地の青年だった。名前は忘れたが、確か、ピエールとかポールと言ったようだった。両親は、近くの、「都市」と彼らが呼ぶ、ネフタという村落の「市」へ仕事に行っていると言っていた。彼自身は、砂漠の一角に枯木の長い枝で囲いを作り、その中へ、豚ではなくて、黒い山羊や、白い羊を託(かこ)っていて、夜も、その空の下で星を見ながら、番をして、そのまま、そこで寝るのだと言っていた。聴き忘れたが、食事はどうしていたのだろう。

その地方にも、寺子屋のような、フランス語と、計算の真似事を教える、初等教育施設がある由で、快活に、フランス語で話すのだが、十七歳だというのに白い歯が、黄色く汚れ、既に、一部、もう抜けていた。栄養の問題か、日頃の歯磨きなど、身だしなみの問題かは判らなかったが、私は、肩から掛けていた旅行鞄の中から、偶々持っていた予備の歯ブラシと日本の練り歯磨きのチューブを一本ずつ取り出して、彼に進呈し、歯を磨く真似をして見せた。

彼は、勿論、意味を理解して、何か噂に聴いている、貴重な工業製品を受け取ったように、嬉しそうに、それを手にした。喜んで受け取った後、我々がジープで立ち去ろうとして、少し離れたら、その青年は、砂を蹴って、大急ぎで駆けて来て、左手に十本ほど、多分、一日に、さほど多くも来ない観光客相手の「商品」として持っていた物を一本外して、その民族特有の、口一杯から、息を含んで出す、やや鼻に掛かった、吼えるような高い声で、「メルシー・ムッシュー」と叫んで、私に手渡して呉れた。見事な儀礼であり、砂漠の男の、立派な、文明的振舞いだった。その「砂漠の返礼品」が、今も窓辺に下がっている、砂漠の女王(クイーン)サイズのネックレスである。 

終(2010・01・28)