満七十七歳の誕生日から二か月後の、二千十年二月、私は、妻と長女に、大阪の堺市に住む、妻の姉を加えた四人連れで、十一日から二十日までの十日間、イタリアを旅行してきた。

今回の旅では、それが、当初、予定していたハイライトという訳ではなかったのだが、結果的には、予期していなかったことを体験することになった。

ローマ、ヴァチカンの、教皇の礼拝所であるシスティナ礼拝堂を擁する、壮麗な美術館、博物館で、夥しい貴重な収蔵品を鑑賞した後、ヴァチカンの本丸とも言える、サン・ピエトロ大聖堂へ入るつもりで、所持品検査の長い列に並んでいた。そして、入場を許された時点で、入口脇に「クーポラへ…」、つまり、その大聖堂の円形ドームの頂上へも行ける、という意味の案内表示が目に入った。大聖堂は、私にとっては、何度目かの「参詣」だったが、その聖堂の、そんなところへも行けるという表示に気付いたのは、初めてだった。得難い機会だと思った。私がそう言うと、同行の三人も頷いたので、我々は、徒歩、自力で、その、高さ百二十メートルの大聖堂の、頂上部分まで上ることにした。

最近は、そうした歴史的建造物の構造を見学者に理解させ、そこからの眺望を楽しませることも、イタリア当局の方針なのか、随所で行なわれている。

例えば、フィレンツェの、あの美しいサンタマリア・デル・フィオーレ教会を始め、その町の、お洒落な簪(かんざし)のような、地元の名画家ジオットが設計した、優美な塔も、頂上付近から「下界」を展望出来るし、ヴェネチアの、華麗で穏やかな、人の心を天上へ、優しく誘(いざな)うような、ビザンチン風の、サン・マルコ教会も、同様に、その「クーポラ」などに登れるらしい。

そう言えば、数年前、北スペインの、西の外れの、中世以来、巡礼で有名なサンチアゴ・デ・コンポステラへ行ったときにも、それは、以前から、そうだったらしいのだが、祭壇の中央の、大きなサンチャゴ(ヤコブ)聖人の像は、その正面右横に小さな階段があって、参詣者は、それを登って、サンチャゴ様の真後ろに立つと、その像の両脇に腕を差し入れることの出来る、大きな隙間が空けてあって、背後から、「ご本尊様」の横顔を拝む形でその等身大よりやや大きい、像の本体を抱きかかえることが出来るようになっていた。その様に、崇拝対象に触れることが出来るとか、ごく近くにまで身を寄せることが出来ることで、信仰とか、参詣、参拝の効果を、より深く来訪者に印象付けるのは、教会側の配慮だと思うが、それは上手で、親切な工夫であると、私には感ぜられた。そして、我々四人は、今回、ともかく、二千年余の歴史を編んできたキリスト教の、大本山の象徴的建物の頂上部分まで、歩いて登ってきたのである。

その種の石の建物の、暗い内側を、螺旋状に、際限もなく……と思えるほど長く、高く登ったのは、若い頃に登った、パリのノートルダム聖堂の露台や鐘楼の石の塔とか、数年前、スペイン、セビリアの「ヒラルダの塔」へ登ったとき以来だった。

 

こうした、高齢になってからの旅で思い出すのは、十年ほど前に、トルコのベルガモと、その周辺へ行ったとき、今の私と、ほぼ同じ年齢の日本人の老夫婦と一緒だったことである。その地にまでも及んだギリシャやローマの影響を、実際の遺蹟で見て、「歴史は、雄大で、永遠ですな……」と、その、旅の先輩は言った。鎌倉の寺分(てらぶん)の高台に住み、庭に沈丁花(じんちょうげ)を植え、縁先で君子蘭を楽しむ普通の人だったが、数年前に訃報を聴いた。その彼も、自分がそこで感嘆した「永遠」の中へ帰って往ったのだと私は思っている。

 

この我々の旅行は、何時もと同じ質素な旅であって、ローマ三泊、フィレンツェ三泊、ヴェネチア二泊という、短期の駆け足の、「旅」というものの本当の意味や意義に逆らう「日本人的」なものだった。懐が寂しいのだから仕方がないが、それでも、あの「寺分」の老先輩と同じように、「歴史」や「永遠」や、「人間」の意味を考えるための、少なくとも、その端緒を与えてくれる「場所の移動」とか「空間の移動」と言える、ある程度、有意義な「旅」ではあった。

経費は、イタリアの街での食事や、土産に買って帰ったものを別にして、往復の航空機、鉄道と宿泊などの支出は、一人当たり、ほぼ二十万円だった、去年の同じ時期に、同じくらいの期間、フランスのパリの、モンパルナスの借り上げの民家を基点にして、食事も殆んど自炊で、地下鉄と近郊の鉄道で、市内とその周辺を歩いたのとほぼ同じだった。そして、日本の円と、彼らの通貨であるユーロとの変動が、そうした旅の内容に影響することは殆んどなかった。

イタリアでは、ヴェネチアのある、アドリア海沿岸地帯の地盤沈下が「恒久化」してしまったのか、留学生時代の、五十年前とか、パリに勤務していた頃の三十年前に、会議出席で、妻と行って、「正常な状態で」見た、ヴェネチアのサン・マルコ大聖堂の界隈は、今回は、干潮時でも水が乾ききらない状態になってしまっていた。その長方形の優雅な広場では、三、四十センチくらいの高さの「暫定的な」木製の、渡り廊下のような台の上を、人々は移動していた。大聖堂の正面、斜め左前に、高く聳える、白い鐘楼と、その下がレンガ色の、優美な角柱の塔の下には、物々しい建設重機が板囲いに隠れていたが、イタリア語の掲示を読み解いたら、その大切な歴史的な塔の倒壊を防ぐために、現代の最先端技術を駆使して、周辺路盤の補強作業を行なっているのだと読めた。

そういえば、塩野七生(しおの・ななみ)さんの名著「水の都の物語」によると、ヴェネチアは、当時の人たちが、腐蝕に強い松の木の、長く、太い杭を、気が遠くなるほど夥しく、その干潟に打ち込んで基盤を造り上げた人工の「水の都」だった。

アドリア海に浮かぶ、沖の、保養の島「リド島」や、ガラス細工の「ムラノ島」、一戸ずつが、赤、青、緑、黄色……と、それぞれに違った色で建物の外側を塗った家が、おとぎの国のように並び、細密なレース編みが自慢の「ブラノ島」などの小島とを結ぶ便船の航路を示す杭の上には、随所に、太陽光発電のパネルが取り付けてあって、その光で夜間の水運を維持しているように見えた。

 

ギリシャでも、トルコでも、エジプトでも、イランでも、サハラ砂漠の、北辺、外周のマグレブ地帯でも、インドでも、カンボヂアでも、ジャワでも同じだったが、それらの土地への旅は、私には「人間」を考えさせてくれた。

また、「聖地」という所が、正確には、どの様な所であるかの定義は難しいが、国外で、私が実際に行って、強く人の気配まで感じたのは、先ず、インドのガンジス川流域の、サルナートの、仏陀の「初転法輪」の土地だった。ブッダガヤで「覚り」を得たシッダールタが、数日かけて、そこまで歩いてきて、周囲の友人数人に、「どうも人生とはこんなものだと自分は解釈する」と、その解釈と感想を述べ、「天上天下唯我独尊」と述べた場所だった。次に人の気配を感じたのは、アテネのアクロポリスの大神殿を正面に見る、フィロパポスの丘の、ソクラテスが「人間社会の論理の帰結なら止むを得ない」と、自ら進んで入牢した石の牢獄跡である。それ以外は、キリスト教やイスラム教、ヒンドゥー教などの、歴史につながる聖者の足跡を偲ばせる土地には、私は、未だ、殆んど行っていない。

また、広い意味の「歴史の現場」としては、第二次大戦中の連合軍のノルマンディ上陸作戦の激戦地だった、フランス、カルヴァドス県のアロマンシュ村の海岸を私は見た。サイパンの「バンザイ・クリフ」を髣髴させる、沖縄の、最後の激戦地「摩文仁の丘」や、そこから望める断崖も見たし、広島では、太田川の合流地点に被爆の象徴の如く残る、旧産業奨励館の鉄骨の残骸を見た。一九四五年八月六日、朝八時十分ごろ、マリアナ基地から発進してきた米軍機、B二九長距離戦略爆撃機の一機「エノラ・ゲイ」が投下した、ウランの核分裂作用を利用した原子爆弾、彼らの間で「リトル・ボーイ」と綽名されていた魔の装置の爆発は、目標から百数十メートル南東方向へ逸れたと言われている。それは、地上約六百メートル、今、東京の浅草で建設中の地上ディジタル・テレビ放送の、送信タワーのアンテナの頂上と、ほぼ同じ高さで爆発したのだが、その、人類史上、実戦で最初に使われた核爆弾の爆発の現場跡を私は見たのだった。また、私はまだ見ていないが、長崎では、隠れキリシタンと呼ばれながらも、信仰を貫いてきた人たちの末裔が、何日間も運び続けて、積み上げて造った浦上天主堂が、同じキリスト教徒であるアメリカ人が投下した、プルトニウムの反応を利用した核爆弾、「ファット・マン」で、一瞬の間に吹き飛ばされ、破壊されて、その瓦礫は、いつの間にか、何処かへ運び去られてしまっていて、日本の信者の人々は、その慙愧を、原爆を製造、運搬、投下したアメリカに対してではなく、「試練」と解釈している由である。

それらは、人間が、ある意図のもとに、一定期間、準備を行なった結果が激突したことを、今に伝える土地である。

 

人間という生き物は、そうした激突に至るまででも、日常の思索や、生産、交易活動の中で、歴史という大きな編み物を編み続けているのだと思う。だから、我々の日常も、そうした歴史という編み物の一部だと思うと、無為に周囲を傍観して過ごしている場合、そうした時間の意味と、恐ろしさが身に迫ってくるようにも思われる。何年かが過ぎてから、あの時代の人間たちは傍観するだけの、小さな享楽に満足する「阿呆」、つまり、人間の形をして生きているだけの「動物」だったと、後世の歴史家たちから蔑まれるのではないかと思う。

事実、歴史の流れの中には、そんな時代とされる時期も、相当数、相当期間あったのだから。

 

サン・ピエトロ大聖堂の頂上の狭い回廊から、その東側を蛇行するテヴェレ川を挟んで見える、ローマの都全体を眺め下して、私は考えた。人間の歴史とは、本当に栄光の積み上げだったのだろうか。

そこからは、目の先、南東方向に、往時の「ローマ帝国」の中枢が機能したフォロ・ロマーノや、当時の貴族や大衆が、熱狂的に享楽した、屋外大競技場である円形劇場(コロッセオ)や、レンガを組み上げて入浴を楽しんだ、大規模浴場(カラカラ浴場)の遺跡群が手に採るように見える。大理石の、三箇所の噴水の美しいナヴォーナ広場や天文観測所であったパンテオンの丸屋根、やや時代が下がって、中世という時代が展開した頃の城であるサンタンジェロ城も、すぐ目の下に見える。また、ローマの市中に下りれば、広場の各地では、見事な大理石の彫刻や記念塔、神話の主人であった人物や動物を形にした石像が噴水の飛沫に濡れていた。背中を向けて、頭越しに後ろ向きにコインを投げると、もう一度その泉を見に来ることが出来るという他愛のない俗説に興じる観光客は今も大勢いて、例えば、「トレビの泉」は、その時も賑わっていた。

いわゆる地下埋蔵文化財が多すぎるので、ローマは地下鉄の建設にも大きな苦労があったと聴く。私の旅の、この様な、つまみ食い程度の事物の見聞だけでは、この都の本当の規模や意味は判らない。その意味でもローマは永遠の都なのだろう。その都や、その時代のローマ人たちは何をして、また、「人間」をどう考え、どう捕えていたのだろうか。

歴史というものは苛酷で、本当に傑出した人物の労苦の跡である作品や業績と、愚劣なことしかしていなかった者たちが、自らを律しきれずに、仕出かしてしまった事件や災害の後だけしか後世に残してくれていない。ただ、幸いなことに、優れた作品として、すでに同時代人からも評価されていた美術作品や建造物は、イタリアの場合、自分たち民族の誇りを自讃する形で美術館などが保存、保管、整理、維持、管理、展示してくれている。

その代表的なものの一つが、サン・ピエトロ大聖堂に連なる、教皇が礼拝し、その教皇を選挙、選出する会場でもあるシスティナ礼拝堂を含む、ヴァチカンの大美術館であり、博物館である。そして、その中で最大の価値を誇っていると私が称えるまでもなく、あらゆる解説書、美術書などで、最大級の評価と絶賛を浴びているのは、礼拝堂の正面の大きな壁面にミケランジェロが、時の法王、ジュリオ二世の依頼を受けて描いた「最後の審判」であり、その礼拝堂の長い天井に、連続して判り易く、見事に描かれている「天地創造」の数々の物語である。彼は、その「最後の審判」を、ダンテ・アリギエーリの力作である「神曲(ラ・ディヴィナ・コメディア)」に依拠して描いたという。難しそうだが、やはり、それを読まなければならないと、今回、私は思って帰ってきた。

また、ミケランジェロは、法王から壁画を求められた時に、自分の得意は彫刻なのですが、と言った由だが、その制作者、ミケランジェロ・ブオナロッティの傑作である「ピエタ(悲しみの聖母)」の大理石像は、今回も、彼自身が設計した、サン・ピエトロ大聖堂の入口右側の、最初の祭壇にあった。

そこでは、処刑の後、十字架から下されたばかりの、三十何歳かの、我が子イエスを、聖母マリアは、無言のまま、膝の上に横たえて、身じろぎもせずに、虚空を眺め続けている。その視線の先にあるのは何なのだろう……と、私は思いながら、今回も、シベリア上空を東に向かって、ほぼ一晩、飛んで成田へ帰ってきた。その、私の問いは永遠の問いだろが、それに対する答えもまた、永遠を要するものだろうと、不備な私は思っている。

 

サン・ピエトロ大聖堂は、イタリア共和国にあるのではなくて、今のローマ市の中心部の一角にある「ヴァチカン公国」にあるのだが、今のイタリアを生んだ、往時のローマ人たちが、古代の一時期、「世界」を制覇し、そこに君臨した後、イエス・キリストという人を、神の子と考えざるを得ないと悟る歴史経過の後に、精神世界の一つの峯を造って維持して来ているのが現実である。

その意味では、ローマにあり、ヴァチカンにある、そのサン・ピエトロ大聖堂の存在は、人間が、人間とは何なのかと自問し続けてきた一つの答なのだと私は思う。それらは、そのままこの国の宝であり、人類の宝であるといえると思うが、この国の人間たちが、自分の国の人間の思索や制作活動や自己認識の哲学などの痕跡を、見事に整理し、保存し、次代へ送り継いで行こうとしている姿勢には頭が下がった。ローマは、そんな形で今も生き続けているのだと私は思って帰ってきた。

 

「ローマは一日にして成らず」と言うが、だから一日くらい、如何(どう)でもいいじゃないかとは考えず、この「ローマ帝国」の末裔は、思いの外、厳しい目で日々を積み上げ続けているように私には思えたのである。他人事のように感心するだけではなく、自分が、同じく、この地上の、東洋の一島国ででも、人間であることを再認識する必要の自覚と共に……。     

終(20100227)