「ゴミ・ダイエット」……。

これは、私が住む鎌倉市が、今も用い続けている行政標語の一つである。

しかし、私は、この、日・英語混用のスローガンには、全く頷けない。

こうしたことが、多数の人間の生活と生命を託され、正常な人間として理性的でなければならない一つの自治体行政機関の、現実の活動の場面で真顔で称えられていることを、私は不思議、不可解に思うからである。当局者の要員捕捉力の貧困であり、要員の起用・配置思想の未熟さ、安易さの現れでもある。

英語の「ダイエット」は、律儀に語義を遡ると、高血圧や心臓疾患、動脈硬化など、壮年後期の人間が自分の生命にマイナスに作用する肥満を回避または予防するために医師などの指示に沿って食事制限に努める、ギリシャ語に起源を持つ行動のことであり、目的達成を願う人が自ら努力する行為である。

必要以上に食べないこと、あるいは食べる量を理性的、日常的に少なくする、個人的で、自主的な生き方を指している。つまり、ダイエットは食物摂取の、個人の努力を前提とした、自己抑制である。昨今、それが、何か新しい、お洒落で、体裁の良い、文化的に進んだ人が用いる言葉の如く喧伝されている。

ゴミとの関係では、食事の量を制限すれば、台所のゴミは確かに少なくなる。しかし、それで減るゴミの量は知れたものだと思う。また、ゴミは、別の理由で増えることもある。つまり、ダイエットとゴミの数量とは無関係である。

鎌倉市の、今の行政当局者は「食生活でのダイエットのように日常生活を合理的に抑制して、ゴミを減らす生き方」がカッコイイ現代生活なのです、と言いたいのだろうが、食物摂取を含むけれども、それ以外の物資の、昨今の節度のない消費までの、すべての市民生活を、「物資の無反省な大量消費」に走りがちな行動であると戒めている。そして、それを無理に食事に代表される、人間の食欲に擬えて、その抑制の勧奨を「ゴミ・ダイエット」と称しているのは、日常の生活言語として論理的に無理である。

鎌倉市の、そのスローガンの発案者としては、「削減努力推奨」の意味だろうが、現状は、「言葉」の問題である以上に、「論理」と、当事者の「知性」の問題になっている。それは、この自治体の特徴である、「新規」と「最先端感覚」に飢えて「功」を貪り、焦る、空疎で、軽率な行為の一つではないだろうか。

行政の実施に関して、ゴミを「摂取の対象」と考えているように表現するのは、正常な人間の行為ではない。行政を託せるような人の行為でもない。一度、大学の先生に、論理学の初歩の講義の一環として、この問題を解説してもらったらどうだろう。あるいは、善意の精神科医による、幹部の頭脳の中味の集団検診か。

これはまた、自分では英語をマスターしたと自惚れている者たちの、英語についての、己の無知露呈の一例でもある。

彼らは、行政とは無関係に、外国語に酔っているに過ぎない。しかも、それが、知性を前提として行動すべき、日本の官公庁で、堂々と行なわれているのである。だから、それをここで、一度、冷静に論議したいのである。彼らは、何か悪い「心の酒」に酔っているのではないか。そうした独善的な「酩酊行政」で市民が本当に幸せになれるのだろうか。

それとも、鎌倉市役所の職員食堂とか、市が推奨する飲食店には「ゴミ」という献立もあって、それを食べる分量は、減らしましょう、とでも言いたいのだろうか。こうした、教育的にも首を傾げなければならない事態にまで組織が衰退した市役所は、今や、「職員ダイエット」が求められる段階にあるのではないだろうか。一度、市内の、中学校の英語の教師に尋ねてみてはどうだろう。そして、間違いであるとの判定が出たら、この言葉で、職責を果たした積りで過ごしてきた、市の関連要員総ての給与を正しく見直しては如何であろうか。

私は、判った上で言っているのだが、その鎌倉市当局の目的は処理を要するゴミの量の削減であり、せめて半減させようというキャンペーンである。

それならば「ゴミ半減運動」とか、「生活を工夫して、無駄な消費を止めましょう」などと称えれば好いのではないか。当局者は、流行語に溺れていて、「ダイエット」という個人的動作の流行語を、何かとても進んだ意味を持つ言葉と誤解し、故意に誤用して、無理に社会的に拡大適用し、行政活動の、軽薄な宣伝に利用している。それは、昔、ナチス・ドイツがアウシュヴィッツ強制収容所の正門に「労働は自由を創る(アルバイト・マハト・フライハイト)」(真意は「働けば、放免してやる」の意か?…それでも欺瞞だが)と、「悪魔の虚言」を掲げていたのを思い出させる。それは、まさに政治の詭弁である。人道的に危険でさえある。

行政活動の大衆的周知は、それ自体は非難の対象ではないが、流行語への独善的迎合は慎んで欲しい。松山市と佐倉市もこの言葉を用いているが、見栄、外聞に溺れ、評価や成果を焦り、奇怪な外国語で、世を欺くような文言で自足するのは、誠実で、正しい行政の姿勢だろうか。発想の根源は危険である。

鎌倉では、市の焼却施設の処理能力を超えるゴミが出ているのは事実なので、それを明示して、市民にゴミの減量化を促すことが基本である。過剰な販売合戦に操られた買い過ぎと、未だ利用できるのに、これでなければ進んだ現代人ではないとか、実態とは遠い、架空の便利さや、上品さ、高貴さなどを商業マスコミに煽られた、買い過ぎ、棄て過ぎの、現代の消費生活の結果として出る膨大な家庭ごみ……。この現状は、キリギリスのように唄っていれば済む事態ではない。  

市当局は政策的要望を、市民に、もっと誠実、率直に訴えられないのか。

それにしても鎌倉市ともあろう都市、自他共に許す「文化都市」に、不思議と、絢爛たるエリートを糾合する様な、今後の歴史に輝く大学はないけれども、立派な高等学校や、周囲の尊敬を一身に集めているような、偉い「文化人」も大勢いると思うのに、何故、このように珍妙な閑人のスローガンの横行を許しているのだろうか。

二十一世紀の、人間であることを自覚する行政集団である筈の鎌倉市の、存在的な品位に関わる重要なことなのに、市会議員たちは与野党ともに、何を考えているのだろうか。

はっきり言って物笑いの種であり、みっともない話である。

パリにしろ、ローマにしろ、百年、千年の戦乱、動乱を掻い潜って今の首都として世に輝いているのである。為政者には知恵があり努力があった。フランスやイタリアに限ったことではないが、歴史に輝く都の当事者には、金銭的処遇や表面的名声を貪らない、歴史との対決の決意があった。

ヴェネチアやフィレンツェでは、市政業務の執行では、彼らは無報酬、自弁であり、それでもその「地位」に彼らは満足し、歴史の評価だけを恐れていた。彼らは、社会集団の中での「ノブレス」と呼ばれる立場の者の義務と心を理解していた。そして、そのように行動した。その上で、彼らは、官僚を把握し、官僚を追い使った。官僚も意識が高く、その努力の成果を競い合った。

その点、この、我が昔の首都の末裔たちは如何だろう。鎌倉開府八百年を歴史上の記録として詠っているだけでは、後世の市民たちからの賛同も支援も得られないだろう。彼らにとって、「古都」とは何なのだろうか。地主と商人や、寄生虫と言ってもよいような、この町固有の昆虫的な利得希求者の金銭的な利益の拡大と、市民の幸せの確保との区別を誰が監視しているのだろう。

私は、インドネシアの古都、いや、ジャワの「古都」と呼ばれるジョクジャカルタでも二年間暮らしたことがあるが、そこでも、住民、市民たちには、愛されることを待つ姿勢ではなく、愛されるための努力を惜しまない執念が感じられた。王宮のガムラン・オーケストラも、その古典劇の名優や端役に至るまでの団員たちにもその自負が感じられたし、ジャワ更紗の優雅な染物も、職人たちの、心の内側から沁みだす様な民族の誇りの執念なのである。

歴史とは、その古さに甘えるものではなく、その古さに身を引き締めて、己の知恵、脳髄を絞り、磨き続けることを求める、人間生活の教師なのだ。 

歴史を「古さ」と同義語と解し、その「古さ」を「ダシ」にし、口実とする、彼らの、己惚れの態度が大きい割には、口先で言っていること以上の実効を見せていない当代の末裔たちに、こちらは、苛立ちさえ感じてしまうのである。

多寡が、近世百年の、日本の近代化の初期の、狭量な成金の奢侈の思い出や周囲への甘えは、普通、「歴史の貫禄」とは言わないのである。

 そう思って日々を過ごしていたら、あろうことか、この私が、その珍妙なスローガンについて、フランス人から真顔で蔑まれる羽目に遭った。数年前、公式に、である。

 

私は平成元年に職場を定年退職した。そのとき、それまでの経験をもとに、市にフランス語とインドネシア語のボランティア通訳を志願した。鎌倉市は、それ以来、ごく稀にだが、私に用務を託すことがある。その一件として、最近、フランスの大学生が鎌倉市のゴミ処理政策の実態を研究したいと、見学を申し入れてきたときの通訳業務が私に回ってきた。

用語の難しい分野の仕事だった。禅寺の歴史の話よりも難しい仕事だった。

フランス語は一寸無理だが、自分は英語なら判ると言う人は多い。そんな人

に、お願いだが、ゴミ問題に関する英語の専門用語を並べてみて欲しい。

ゴミ、可燃ゴミ、不燃ゴミ、資源ゴミ、分別処理、焼却、燃焼物、燃焼ガス

の組成、空気や土壌の汚染の可能性と限度、焼却灰、灰の成分、その処理、有害物質の特徴と問題点、それら全部の危険性……。どうぞ、通用する英語で言ってみて欲しい。

通訳は寂しい仕事である。そして難しい仕事である。その難しさには少なくとも二つのことが含まれている。一つは外国語そのものである。そして、もう一つは、その言語で会話を行なうテーマ、題材である。ところが、どれだけ難しくても、依頼者には、それが判らない。言葉が難しい上に、扱う題材に関連する用語とか、その問題を貫く論理や慣行も難しい。一種の、「異文化変換」と言っても良いだろう。しかし、依頼者は、辞書には何でも書いてあるように、通訳には何でも出来る筈だと思っている。日本では、通訳とは、何でもこなしてくれる一種の便利な、しかし、孤独な、マジシャンなのである。金銭のことは言いたくないが、この種の業務で専門の、誠実な通訳を求めると、当節では、旅費は別で、一日で、可なりの額を請求されるのが普通だと思う。

私の場合、旅費は自己負担で、受け取る日当は三千円、それで全部だった。

業務の難易度の分からない者とは議論にならないので私は黙っていたが……。

 

フランスのゴミ処理に関する研究学生の訪問の通訳……。その詳細は「業務上知りえたこと」であるから、秘匿の宣誓をしていれば、公表すると処罰されるかもしれない。私はそれをしていないが、一般のモラルとして、公言する意図は無い。しかし、物事には、より大局的な立場から、依頼を受けた者が、自分の存在の不利益を回避するために緊急避難として限定的に公表するのなら許されるという自明のモラルもあるから、やはり私は手短にお話してみたい。

 

当日、指定された時刻より少し早めに市役所へ行った。控え室へ通されたら、フランス人の訪問者たちも既に来ていた。来訪目的の委細を事前に知るのに好都合なタイミングだった。事前の資料は、市役所側からは何も貰わなかった。双方が言うことを「言語変換」してくれれば好いのだから、必要なことはそのときに言うということらしかった。

ルールの説明や練習をしてないのだから、スポーツの試合だったとしても、これでは最初から勝てないことは明白である。しかし、日本人側には、その認識はなかった。外人が来る。通訳が要る。それは用意した……通訳は万能であるべきだという理窟のように見えた。

 

 フランス人は女性を含む三人で、三人とも大学生だった。物財の燃焼など熱処理関連施設の製造会社や、ゴミなどの焼却後の、残存物質の毒性に関する生物化学的研究を行なう研究機関でも研修してきたと言う。それを純粋に科学的見地から考察すると同時に、行政や企業活動など人間社会の見地からも研究することをテーマにしている学生もいた。女性の専攻がそれだった。当日、遇って話して見ると、三人とも英語が出来ると言った。専門分野の英語については、当然のことながら、私よりも堪能だった。真剣で、真面目な学生たちだった。

 

日本側の応対者が来るまでの待機中に、市役所の来客接遇の担当者らしい人が私に言った。「英語だったら市役所でも、我々で何とかなるのですが、フランス語では一寸歯が立ちませんのでね……」と。だからお前を「使う」のだ、という意味のようだった。フランス語だから私を起用せざるを得ないのだと……。

「いや、彼らは国際交流の現状を認識し、英語もペラペラですよ、私も、今それを確認しました。それならば、専門用語のこともありそうですから、市で、英語で、直接、おやりになった方がいいのじゃないですか」と私は言った。

フランス人とこの種の内容で話をするのは、私も初めての経験なので、どのようなことを話題にするのかという興味と好奇心が私にはあった。しかし、それは私の問題であって、通訳の要否の問題とは別のことだった。

最初から、ご苦労様です、何卒よろしく、と言えば済むのに、彼は「文化都市」鎌倉の尊厳と余裕を誇示して言ったのかも知れなかった。

すると、その「尊厳」先生が言った。

「えっ? いや……、いやそれは……、折角来ていただいたのだから、今日は一つ……、市では、今日は『英語の者』は準備していませんので」と言った。名刺を貰っておけばよかった。英語でなら自分たちでも出来ると言いたかったところ、風向きが変ったら『英語の者』が出てきてしまった。

何か、締りが無いのである。仕事と「英語」を舐めているのだろう。

これは、厳密にいえば、市の重要業務である。自分たちで処理できなければ、支出を覚悟して、分野を指定して部外の専門分野の通訳に依頼すべき、可なり大切な仕事である。ところが、幸いにも、ボランテイアという者が「やらせてくれ」と待機している。そうだ、楽で好い、それで行こう、ということらしかった。理性の判断ではない。行政属僚の、業務放棄に近い姑息な便法に近い。

私は、別に、やらせてくれと待機している、頭を叩けば動き出す、言語変換ロボットではない。ボランティアだが、便利使いの駒ではない積りである。

私は、また、モラル又は常識以上には、受託業務内容について守秘義務などの宣誓はしていない。求められてもいない。また、我々は、市の職員の、外からは見えない、便利で従順な、往時の忍者のような「黒子(クロゴ)」でもない。

一方、鎌倉市のごみ焼却機能全体については、その性能、弱点、問題点、関連業務などについて、外部に知られる必要のないこともあるはずである。開かれた行政という言葉はあるが、誤解を呼ぶ恐れのある、検討を必要とする、未決定事項に外部から不用意に踏み込まれないための配慮は、同時に必要である。市当局に、その点の配慮はあるのだろうか。

フランスの学生たちの、真面目だからこそ尋ねる、理詰めの質問に関しては、かなりの詳細について私の記憶にも残ることがあった。なるほど、専門の見地から考えるとそんな点も留意、配慮、新たな措置を要するのだ、よくぞ尋ねてくれたと言っても好いことが少なからずあった。私は、あの日は大いに勉強させてもらった。公言は慎むが、この分野に関しては、俗に言う「秘密」も鎌倉市に関して可なり得た。

昼食を挟む七時間ほどの用務が終わって、駅前で「ゴミなんかの問題ではなく、鎌倉には歴史的に有名なお寺も数多くありますので、この次は、それらも見に、お楽しみにおいで下さい」という、一見親切そうだが、基本的に物事が判っていない、己の業務を軽視しているとしか考えられない見送りの言葉を聴いて、三人と私は、市役所の人たちと別れた。私たち四人は、別れ際に、私が招いて、駅前の喫茶店で、ひととき歓談した。

今日の感想はどうか、という一般論を、自由な立場で話し合った。

焼却所の灰の処理に関して、地元の了解も得ているとして、それを地中に埋めていることに関して、「鎌倉の住民でしょ? あの畑のサラダは食べないほうが善いわよ、ムッシュー・ハセガワ……」と女子学生が私に、それを埋設処理している地区の畑に関して、真剣な表情で、小声で、早口に言った。

周辺の地下水の検査結果は公表していないと聴いていたからだった。本当は笑い話ではないのだが、科学者の完全潔癖主義と、現実生活者の蓋然性受忍、つまり、まあ大丈夫だろうという考え方の接点を熱心に話題にしたのだった。

通訳の謝礼として、その日、戴いた三千円は、フランス人青年たちとの、この歓談で、ケーキとコーヒーとで心地よく消えた。

「ヴ・マンジェ・ラ・サラド・ドゥ・ス・テラン!(Vous mangez la salade de ce terrain! 皆さんは、この畑のサラダを食べているのですね!)」と私に小声で、眼鏡の奥の眼を剥いて、その驚きを真顔で口にした、男子学生の声が、まだ耳に残っている。

フランス人が、こうしたものの言い方をするときは、普通、危険や、不幸からの退避を示唆している。

「当市は、ゴミ・ダイエットを大々的に進めています。その進んだ行政の実際を、どうぞ細部までゆっくりご観察下さい」と胸を張ったのは、三人の若いフランスの研究学生を迎えるために、総務課、秘書課、人事課、国際課、渉外課、衛生課、清掃課などから「挨拶」に出てきた、異人たちの前に居並ぶ要員たちを代表して、高禄を食み続けているらしい上長、高位の一人が述べた挨拶の言葉だった。弱い軍事集団の滑稽な空威張りのように見えた。

「ゴミ・ダイエット」という不思議な和製英語のPR用語(フランス語では、ダイエットは「レジーム」と言うが)については、私が事前に「異文化交流」の観点から、詳細に説明しておいたので訪問者たちも黙って聴いていた。

フランスの学生たちにとっては、焼却を要するゴミの量の半減に努力するのは、市民生活の水準維持向上に励む行政当局としては当たり前のことで、そのような過度に自賛の匂いのある話は、パリから、わざわざシベリアを越えて、飛行機で飛んで来てまで聴かせてもらうことではなかった。

人間には、科学という、自然の法則の利用術を、最近では未消化に利用しつつある傾向があって、そうした、自分たちに不都合な事態を、洋の東西で、どのように回避しようとしているのかを調査に、彼らは来ているのだった。彼らは近隣のヨーロッパ各国、近くのアラブ諸国、そして、アジアの場合は……という順序で日本の場合を勉強に来ていたのである。科学の現実を「科学的に」見直して考察するために世界を歩いて、鎌倉まで来ていたのである。

「当市のゴミ・ダイエットにはフランス人までもが感心していった……」という、絶海の盲亀に等しい鎌倉の行政に携わる紳士たちの思惑とは別のところにあった。

 「フランスの学生たちの感想はどうでしたか?」という質問は、社会の一線を退いた高齢者の私に、通訳の日当として三千円も支出した、市の関係者からは、一言も無かった。その姿勢や態度は、自尊に酩酊してしまっている、「自惚れ」垂れ流しの、自省の欠けた、田舎の、脇の甘い馬鹿殿様の家老のそれのように私には見えた。私には、あの学生たちの帰国報告に関心があるのだが。               

(20100404)

蛇足……                     

鎌倉市には、他にも英語を使ったスローガンがある。行楽シーズンや、祝祭日の、地形的な交通緩和策の一つとしての呼びかけにも、不明瞭な英語が用いられている。「パーク・アンド・レール・ライド」方式であるが……判りますか? 市域の外側のどこかに乗用車を停めて、レール、つまり鉄道、といっても「江ノ電」しかないから、要するに、西から来る人は、江ノ島か腰越に適当に駐車して、「江ノ電」で鎌倉の旧市内へ来るようにしてくれと、電鉄会社の存在に依存した呼びかけである。その割には江ノ島や腰越に、市が推奨する大きな駐車場はないし、西隣りの藤沢市に依頼して鎌倉へ来る人のための駐車を容易にする措置も行なわれていない。また、実態として、江ノ島も、休日などの、行楽の目的地の一つだから、標語でいう「パーク」には実態的な交通緩和の誘導効果はない。一方、由比ガ浜の正面にある地下駐車場の利用率はどうだろう。人体に喩えると、この街は、どこか循環系統が本当ではないように私には見える。

更に、絡むようだが「ライド」は、本来、馬に乗ることであり、そのように動くものに自分が乗って移動することである。「レール・ライド」を意地悪く解釈すると、レールに乗ると、あの鉄の棒が自動的に、生き物のように動いてくれるような用法とも採れる。だから、本当は「レール・ユース」の方が判り易いと思う。「ダイエット」の場合もそうだが、市の、英語を捻る人に、どこか根本的に英語の語感や英文法の知識が偏った人がいるのではないかと想像される。

 「ようこそ鎌倉へ! 電車やバス、あるいは徒歩で、古都をお楽しみ下さい。貸し自転車もあります。健康にも快適です。存分にご利用下さい!」などと、平易に言えないのだろうか。それにしても、序でに心配なのは、JR鎌倉駅の構造である。あの殺人的構造で、今まで事故がないのは不思議である。また、鎌倉駅周辺の街の構造も、世界何とかと、予算まで注ぎ込んで騒いでいる割には、町全体の来世紀にかけての読みが無さ過ぎるように私には思えるのである。

 市の業務の自動車に、また別の英語を見た。清掃局らしい車の側面の「3R」である。順序は忘れたが「リデュース、リ・ユース、リサイクル」の頭文字のRを三つ並べたものであるらしい。「削減、再利用、再生・循環利用」とでも言いたいのだろうか。語呂は好いかもしれないが、市内の中学校の英語の先生に「リ・ユース」と「リサイクル」の違いを尋ねてみて欲しい。行政の主体的な方針なのか、市民に対する行動の呼びかけなのかも判らない。

有能な定年退職者を、もう一度職員として「リ・ユース」し、配置した部署で役に立たない職員を、別の、外注でも済む部署へ再配置するのを「リサイクル」とでも呼ぶのだろうか。

イギリスの、一寸変った味のビールの会社に、何でも世界一の物事を記録する、イギリス人の世界制覇の夢が、その辺りにまで縮んだことを示す、記録マニアの老舗を装う会社があって、そこへの登録を、日本では世界遺産やノーベル賞に次ぐ名誉ある記録のように誤解されている組織がある。

右に見てきたことを、東洋の、物質文化の進んだ、ある島国の、英語の誤用の、珍しい記録として報告、申請して見ようかと思うことがある。

 鎌倉市の中学、高校生の英語の実力に、市のスローガンが、どのように影響しているかをまとめたデータは、まだないものだろうか。     

終(081024)