マイスターネット

「眠れる知財」を掘り起こすNPO法人

二〇〇八年二月下旬、私は、インドネシア、バリ島東部のサヌールの海岸で、

十日間ほど、妻と長女に、大阪の堺市にいる、妻の姉を加えた、四人で、島の

東部のジャラン・タンブリンガン大通りに沿ったペニダ・ヴィユー・ホテルの

コテジ・ハウスで過ごしていた。

 バリ島は、日本の四国の三分の一ほどの大きさの島だが、島の形を、一般に用いられているメルカトール図法で見た場合、逆オムスビ形の、南側が細く尖った三角形をしている。そのバリ島の最南端の断崖からは、直下に、インド洋の東部の海、インドネシアでは「サムデラ・インドネシア(インドネシア海)」と呼ぶ海を見下ろす「ウルワツ」というところに、ヒンドゥー教のかなり大きな寺院がある。岬の、歳月を経た古寺である。

その寺院は、意図的に詩情、感情を込めて言えば、断崖の上に、厳かな佇まいで建つ、岬の寺である。そこは、断崖、激浪、強風、日照、灼熱、草木繁茂、接近困難など、自然の厳しい環境の下にあるように見えることから、訪れる人に、何か奥深い尊厳を感じさせ、人間や人生についても、我々を、日常性を離れて、万事を、深く根本から考察しなければならないと感じさせる、深く、大きな衝動に誘う寺である。

しかも、その寺は、人の気持ちを、個人として刺激しているだけではなかった。この地上に生きている生き物としての、総ての人間と動植物の生命など、森羅万象の意味を考えさせる寺にも私には思えた。そして、それは、更に、それらを取り巻く、自然とか宇宙についても、真剣に考えざるを得ない方向へ思考を導いている。異境での、旅の孤独の中での精神的な過剰反応かもしれないとは思うのだが、言い換えれば、それは、我々が住む世界とは、一体何なのだろうかと、心を、強く刺激する種類の、不思議な宗教施設にも、私には見えた。

崖の下から吹き上げて来る潮風と、南極にまで広がるインド洋の激浪の轟きの中で、そこでは、どのような世界観や人生観、生死観(しょうじ・かん)が育まれているのだろうかと、誰しも、暫く佇んでしまいそうな風景である。そして、その寺にも、日本の仏教寺院と同様に、本堂から離れた、寺域の端の高台に、鐘楼を思わせる櫓(やぐら)があった。

然し、その櫓にあるのは釣鐘ではない。鐘(つりがね)は、金属を含む鉱石を高熱で溶かして加工した、一種の工業製品であるが、この島には、その種の金属鉱石が無いか、今まで、土を掘って鉱石を探し出す必要を感じたことがなく、また、金属を溶融するための燃料にも恵まれていないことが、「釣鐘」が無い理由かもしれない。いや、熱源ならば、その熱帯雨林の樹木を工夫して使えば利用できたかもしれないが、やはり、溶融して金属を取り出す鉱物に、手近には恵まれていなかったことが、より大きな理由だったのかもしれない。

然し、金属採掘と、その火力精錬が行なわれなかったことで、森林に鉱毒傷害が及ばず、自然が、元の緑豊かな姿を維持出来ているのも事実だろう。

そのためか、その鐘楼相当の櫓には、太くて丸い、日本の電柱ほどの太さか、それよりは、やや細めの、二メートル近い丸太が四本、垂直に、ぶら下がっている。四本は硬質の木材を切断したもので、音響的な見地から木質が吟味された形跡がある。鐘ではないから「時の鐘」とは言えないが、時刻を知らせる場合にも使っているらしい。然し、時刻の通知は、一般の集落でも、別途、地域ごとに行なわれて来ているから、日本の山寺の鐘とは、一寸機能が違うらしい。

滞在の全期間、運転手として雇い上げた、私とほぼ同年輩のインドネシア人、ヌラー君の話では、例えば、その集落など、周辺で人が亡くなったときなどには、数刻、緩やかなテンポで、一定の、ある間隔を措く叩き方で、喪の合図として、その丸太が叩かれるらしい。その他、昔なら、外部からの異人種の侵入、略奪、所謂「敵襲」とか、地震、津波など、海や山の異変、集落の安全に関わる、例えば、火災のときの他、平時でも、祭りの行事の進行を含む、非日常的な事態に応じた内容が、予め決められた叩き方で、それが打ち鳴らされることになるらしい。そして、一日に、何度も行われる宗教行事の際も、その意味に応じた叩き方、鳴らし方、鳴らされ方があるらしい。

その委細を知るためには、一定期間、長期滞在の形でそこに住まなければならないと思う。出来れば半年か一年間くらい住んで見たい気持ちになる。

繰返すが、その「岬の寺」は、私のように、赤道からは、七千キロも北へ離れた、温帯での生活を基準に人間の生活を考えてきている者にとっては、より幅広い視野を要求していて、何か大切なものを見逃しはすまいかと、心に緊張を強いるものであって、こちらの心を捉えて離さない。

ヒンドゥー教の寺には、日本の神社に似た雰囲気がある。そして、そこは、その佇(たたず)まいのみならず、もう一歩踏み込んで、そこで、その社(やしろ)に祀られている、彼らが「神」と呼ぶ「シヴァ神」の位置付けは、日本の神仏の、両方の役割を持っていると考えたくなる場合がある。

シヴァの神様は、仏教の母体の一つでもあったのだが、また、人間の、自分の、その「存在そのもの」を左右する大きな力を備えた、神様とも言えるようである。

宇宙の「絶対神」は、インドネシアでは、彼らの言葉で「ヤン・マハ・エッサYME(超絶神)」と称している。それは、仏教の「大日如来」とか、奈良東大寺の「大仏」である「毘慮遮那仏(びるしゃなぶつ)」や、日本の神道の「天照大神(あまてらす・おおみかみ)」、或はキリスト教の、イエス・キリストや聖母マリアなどの背後にあって、総ての物事の最後の審判を行なう、ゼウスとかデウスと呼ばれる、大神(おおかみ)とでも言える、究極的なもので、神仏何れとも言い難い、超絶対的な、物心(ぶっしん)総てのものの根幹を支配している、「大きな、大きな何か」とでも呼ぶしかない、一つの、総合、包括的な信仰対象である。

仏教で、阿弥陀(アミダ)というのも、「ア」は「…出来ない」ことを示す、否定の接頭辞であり、「ミダ」は、「メタ」、英語の「メジャー(測定する)」であって、「アミダ」は、それで、その言葉に続く事柄や物が「どんな物指しを用いても測定できない(ほど大きい)」ことを意味している。つまり、この世、この世界には、目に見えない大規模な価値の秩序があって、その秩序の中で我々は生きているのだという思想らしい。そして、例えば、「仏(ほとけ)」も、何か、一番大きなものの一つだと考えられているのである。

ある大きな現象を想像し、その偉力を考えて、その最大のものが、それらの後にあって、それをも支配しているとして、もっと大きな何かを指して、その存在を信じているらしい。小さな存在である人間は、何をしても逃れられないという「運命論」としてではなくて、「物事には帰趨(きすう)とか、因果(いんが)というものがあるのだ」という自覚を促す思想だとも思う。

私自身は、特定の宗教や、宗教全般を詳しく勉強したことはない。ただ、人間社会には、人の生死や、大自然の諸環境の威力の捉え方、自分の日常を越えた、森羅万象の様子を、意味的に捕捉する思想があり、それが、各人種、民族の歴史的な経緯に応じた形で「思想」とか「信仰」または、「宗教」として実際生活の中で展開しているのだと私は思っている。

 

岡本かの子は、一世の風刺漫画家、岡本一平の妻であり、今世紀の芸術界の寵児の一人、岡本太郎の母だったが、仏教の信仰にも篤く、造詣が深かったという。その歌がある。

 

いつこにも 我は行かまし みほとけの

いましたまはぬ ところ無ければ         かの子

 

両界曼荼羅の思想のようでもあり、奈良の大仏であるビルシャナ仏を讃えることに似ていて、一種の汎神論とも私には採れるが、仏(ホトケ)は、何処にでも居られる……という言葉には、自分の頭の中には、何時も仏を思う心があるということを含んでいて、だから、彼女は、仏は「何処にでも居られる」と言えたのだと思う……。

そんなことを考えながら、それも、宗教の原形の一つとでも言えるのかと思いながら、岬の、丸太が四本ぶら下がる、この寺の「鐘楼」の風情に、私は見入っていた。

この先からは、真っ直ぐ南へ行けば、オーストラリアをかすめて南極に到達する。東へ行けばマゼラン海峡、西へ行けばインド洋からアフリカ大陸……と言った、一つの海の十字路に当たり、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、古くはマニ教や拝火教も及んでいたかもしれない諸哲学の十字路であったし、紀元前のある時期、人々は、ヒマラヤの造山活動に原因を持つ大地震とか、気候異変による食糧難から、その土地を捨てて、ヒマラヤ北麓、雲南地方から太平洋方面へ拡散して行ったと見られている。その中には、ポリネシアを造った人たちの先祖も混じっていて、そうした人種集団も、このあたりを過ぎて、東は遥かにイースター島まで行き、北へ転じた者たちは、今のハワイの先祖を形成する旅の途中、この岬の果てを、過ぎて行ったのかもしれない。偶然の針路変更から、日本列島に来てしまった人たちも居たかもしれない。日本の富士山は、「積み重なり、大きく盛り上った」という意味の、「フンチ」というアイヌ語が語源かもしれないというのが有力な説と聴くが、別の論者によれば、ポリネシア系の言葉の「盛り上る」とか「吊り上げる」という意味の語に由来しているのではないかと称える人も居る由である。

そこで見えるのは、その意味でも最果ての景色だった。

文明の中心とか、地球社会の中心などと言うものは各地にあるが、色んなことを言っていても、それは、所詮、地形や緯度・経度の偶然から、人間の移動の粗密が生じて、そうした、人や物財に流れの上に人文的な現象が展開するのが普通であって、一般には、それ以上の、神がかりの様な解釈は成り立たないと私は思っている。然し、様々な宗教や歴史現象が通過したところは、それなりに人為の故郷のような雰囲気を形成するもので、その地に立って歴史や世界を眺めてみたい気持ちに人を誘うことはあり得ると思う。

然し、今、ここで書いている、そのウルワツが特別に重要な人文的な地点であるとは思えないが、その時、そこに立っていた私にとっては、様々な想像力を刺激してくれる場所ではあった。

 

岬の、激浪轟く断崖に臨むヒンドゥーの寺、岬の寺……。私には、想像力をそそる寺だった。所謂、「絵になる」寺であった。運転手であるインドネシア人、正確にはバリ人に案内されて、陽が西に傾き始めた時刻の、その異境の、異教の寺の風情を、ゆっくりと味わっているときだった。

背後に、賑やかな人の気配があった。「キャーッ」という声も、二声、三声聴こえた。日本人の若い女性が、三、四人、その「鐘楼」の下へ突進してきたのである。彼女らは、

「ワーッ、絵になるーッ、カッコイイー!」と口々に叫んでいた。

その種のところで展開する、大きくなりすぎた子供というか、大人になり損なった、身体だけ大きくなった、頭脳未熟の、日本でも、最近、よく見かける、その種の集団の行動だから、私は、別に驚かなかったが、同行のバリ人運転手の方が驚いていた。やがて、彼女らは交互に、その「寺」の、ある角度を背景にして、お互いに写真を撮り合い始めた。

すると、その集団の中から、彼女らの行動を見ていた我々に向かって、一人の声があった。

「あのー、撮って頂けません?」と。

目の前にはニコンの高級カメラがあった。

受け取って、私は、ファインダーを通して、彼女らを眺めた。彼女らは、海を背景にした、その「鐘楼」の前に程好く並んでいた。

「わーっ、……私も入れてぇ!」と、その後からも幾つか声があって、娘たちが一塊になり、賑やかな群像となった。七人だった。私はレンズを構えた。

すると、ファインダーの中には、不思議な映像があった。

旅の思い出の記念写真は、普通は、一緒に訪れた仲間が、笑顔か、やや寛いだ表情で、その建造物や自然の被写体、風景などを背にして並んで、概ね、和やかな、旅の成就感の漂う表情で、中には、やや微笑んでカメラを見ている映像があるものである。主体は、背後の歴史的風景である……筈である。

ところが、その時は何だったのだろう。目を疑ったというと大袈裟になるが、敢えて大袈裟に言っても好いのなら、私は、彼女らの頭とか、神経を疑った。ある病気の患者たちが、近くにあるのかも知れない、精神病院の病室から集団で脱走でもしてきたのだろうか、とさえ思えた。それとも、何か、未だ公開デビュはしていないが、何処か田舎の喜劇集団だったのだろうか? 

まともな表情が一つもない。殆んど全員が、空の一角とか、正面ではない、あらぬ方向を見つめて、薄ら笑いを浮かべ、眺められることを強く意識した、気でも狂ったようなポーズを取っている。普通の言葉で述べれば、このごろは、その表現も、控えられているようだが、昔風に言うと、白痴者の群像である。  

そうでない者は、ほぼ、揃って、笑顔を作り、指をⅤ字に開く「ピース」をしている。指をV字に構えるのだから、ヴィクトリーのサインだと思うのに、それをピースと呼び慣わしている意味も私には判らないのだが……。

家では、孫の「真希」が幼稚園で教わったのか、正月でも誕生日でも、カメラを向けると、決まって、そのピースを見せる。幼稚園の友だちとの集合写真は、子蟹の小学校かと思わせられるようなピースの列である。

その種の列は、実は、その、岬の断崖の上の寺院以外にも、バリ島の最高峰を形作る、キンタ・マーニという、日本人には、一寸、発声を躊躇わせるような名称の丘もある、高地から、北側の火口湖のような水面を見下ろす景勝地の柵の際(きわ)でも展開していた。

全員、日本人の「いい年をした」娘たちばかりである。全く、余計なことだが、彼女らは、その夫となる青年たちとは、どんな世界、どんな人生を展開させてゆくのだろうか。

写真をどのように撮り、何に用いるかは、カメラを買った者の自由である。然し、「絵になる」風景の中で、間の抜けたポーズに熱中し、全員がいい年をしながら、「サルカニ合戦」の学芸会の本番の真似をして、それが後日、何かバリ島を訪れた思い出として本当に意味のある写真と言えるのだろうか。

ふと思い出したことがある。戦後、世の中が、やや落ち着いてきて、中学生が、奈良や京都を、修学旅行と称して、群れを成して歩くことが盛んになった時期があった。非日常的な、古い歴史を秘めた土地を、その意味に即して、考えながら、出来れば、歴史を「追体験的に」生徒たちを歩かせることである。その、教育的意味は私も判る。私の、伊勢、桑名の高校の修学旅行は、紀伊の三井寺や和歌の浦から始まり、大阪城を見た夜は、天保山から船に乗り、翌朝、四国の高松に上陸して、栗林公園から、琴平の金毘羅宮まで行ってから、船で岡山へ渡って伊勢へ帰るものだった。「修学」とは口実で、世間に何処まで甘えられるかの、体験的な集団移動のようでもあった。

我々ではなかったが、京都の広隆寺では、ハンディな、携帯カメラが普及し始めた頃、あの弥勒菩薩が、椅子に、やや前屈みに、片手で、軽く顎を支えて静かに座っておられる、その前を、新調のズック靴を履いた数名の中学生が、その新しいバスケットシューズで、蹴るようにして通り過ぎた。フラッシュが、数発、不規則に堂内に光った。続いて、「撮った!」、「撮った!」……。「俺も撮った!」の声が、瞑想する仏の前で、争うように繰返された。引率の教師を探したが、居なかった。自主性の培養とかで、タクシー一台に分乗出来る数の生徒が、京都の市内を、車で回っているらしかった。サーカスの移動車に入れてきた、小形の『猛獣』の「市中開放」のようだった。それが、一種のファッションのようだった。私は、それは、教師だと自分では思っているだけの、次世代の人間の心の育成の社会的な責任を自覚しない、教えるべき対象物の意味や意義の説明から逃げたままの、「教育給与取得者」たちの手抜きだと思った。

私は、二十代の前半以来、フランスと、勉強の上で関係を持っていて、実際にフランスへ行き、フランス人とも、数多くではないが、どちらかと言えば、多数知合っている。そして、私は彼らの人間観も少しは、垣間見た積りである。

その中で今思い出すのは、美術作品や歴史事象の考察対象になるものについての彼らの、若年世代への対応の熱心さである。

ルーヴル美術館の、「ジョコンダ」、所謂「モナリザ」が展示されている近くに、私の好きな絵が一枚ある。ラファエロが描いた、私が、「菜園の聖母子」と名付ける、聖母マリアの絵であるが、その絵の中では、聖母は、野菜畑の中で、幼いイエスと聖ヨハネを遊ばせている。研究者の説明では、聖母マリアとイエスが、直接、目線を交している絵は珍しいという。なるほど、イエスが下から聖母マリアを眺め上げ、それを聖母は、優しく眺め下していて、双方の目は互いを見ている。パリの、ルーヴル美術館の、その絵の前には、幼稚園児かと思われる、幼い子を数名曳き連れた、女性の幼稚園の先生の姿をよく見かける。

「ほら、これがイエス様で、こちらから、真っ直ぐに、そのお顔を見ていらっしゃるのがマリア様よ……」

などと、子供らに説明しているのである。幼い心に何が残るかを、先生は知った上で、親切、慎重に、その絵を説明していたのである。私は、その様な態度のことを、「職業意識に支えられた態度」だと理解して羨ましくなった。

なお、このラファエロの傑作は、日本の美術書では「美しき女庭師」という、意味不明の不思議なタイトルで紹介されている。

余談になるが、その日本語訳に私は、不満と疑問を抱いた。「女庭師」…そんな職名は日本語にもない。しかも「庭師」が扱う庭は、俗に「日本庭園」という和風の庭である。完全な誤訳である。美術鑑賞からは遠い、滅茶苦茶のタイトルである。この感想を、日本での西欧美術理解と紹介一般のこととして、東京の国立西洋美術館の館長宛に書面で照会したが、返事は全く来なかった。

併行して、同じ件を、通称、俗称についてだがとして、パリのルーヴル美術館の館長宛にも照会した。折り返し返事があって、それでは、「通称」「俗称」には応えず、聖母マリアが居られるところは「菜園(ジャルダン・ポタジェ)」であることと、正式名称は「イエスとヨハネと聖母マリア」であるとの返事が、館長のサインのある手紙で戻ってきた。この分野の日本人の、美術に対する姿勢と、併せて、関係者の、その業務に対する的確性と、フランス語の読解力についての象徴のような現象である。

パリ市東部の、バスティーユ広場に近い、下町の一角にある、ピカソ美術館では、やはり、入口脇の、展示ホールには、ピカソの、あの、奇怪というか、ややユーモラスというか、即座には理解し難い、キュービズムの絵の、大きなコピーが置いてある。その前では、小学生の群れが、先生に引率されて、皆で座り、説明を聴いている。

「これ、何に見える?」と、先生が質問した。

「顔!」と、生徒の殆んどが、競うように応えていた。

「そう、お顔だね……。こちらを向いてるよ…。」

先生が、自分の理解のように言うと、子供たちは一斉に頷いた。

ピカソ美術館で、それを、自分にとっての外人の動作として眺めながらも、国籍や、人間としての文化的、歴史的背景を超えて、私は知らずに、その先生に頷いていた。子供に語りかける美術解説。手法は他でも利用できそうだった。

マドリッドの朝、セゴビア経由で、コンポステラを目的地として、出発する途中で、プラド美術館の近くを通ったら、フランス人の高校生が十四、五人、脇の石段に坐って、年配の小父さんの話を聴いていた。その日、それから観るゴヤやヴェラスケスなどの絵の説明を聴いていたのだった。その説明も、押し付けではなく、人間として画家が何を考えて書いたのだろうかという観点からの説明だった。洋の東西の、教育における美術の捕捉の仕方を嫌というほど思い知らされたように思った。

そして私は、彼らが京都の広隆寺の弥勒菩薩を見に来るときには、あのお寺の前に小さな円陣を造って、その様な先生か、寺僧の説明を訳す通訳が簡潔なガイダンスを行なうだろうと想像している。

「見た」という「実績」で満足する国民と、「聴いて、考えた」という心の経過を通過した人間の将来を比較した方がよいのではないか。

道学者ぶった嘆きを言う積りは無いが、歴史的な名品に対する、日頃からの姿勢に違いを考えざるを得ない。

価値ある歴史的な名品を「見た」という一言だけのために、世界中を駆け回る日本人が多いのに対して、例えば、親切で、熱心な教師に引率されて、「対象物」の意味と価値を心に刻んで帰るフランスの学生たちが、何かを「得て」、「記憶して」帰る様子を見ていると、そうした行動の積み上げが齎す「民族的な文化理解の高さと深さ…」に慄然たらざるを得ないのである。

 

「ピースとポーズ」が齎すものは、旅行やカメラ、フィルム、鞄や旅行衣裳、靴などの業者たちの利益と、利用者の疲労だろうが、行動した人間に残るのは、見聞した歴史的名品や珍しい風土を、「見て、通って、写してきた」、牛馬のような「食べた満足感」以外に、何があるのだろうか?

 

この慨嘆も、言われ続けて久しいのだけれども、自分のことではないと言い張る人が多く、ある意味では、歴史の判断に待つしかないのかも知れない。      

 

終 (一〇〇六二〇)

News Letter

文教大学講演会

NPOマイスターネットでは、大学とのコラボを目指していますが、過日、文教大学からリーダーシップに関する講演依頼がありましたので、下記の通り、同大学の情報学部の大学生を相手に講演しました。

 

テーマ:ソーシャル・マーケティング、大学から社会へ
~問われるリーダーシップとは~

日時:平成24年12月10日(月)13:20-14:50

場所:文教大学湘南校舎(茅ヶ崎)

レジメ:こちらです

 

講演後、何人かの学生から活発な質問があり、学生の関心の高さを実感しました。

今後も、このような大学とのコラボの機会を設けていきたいと思います。

講演会「リーダーシップ入門」

本NPO理事長の橋本氏が精力的に講演会を行っている。

去る11月18日にイーテクノ株式会社で企業向けリーダーシップ講演会を行い、コミュニケーションの重要性とリーダーシップのあり方について説いた。

講演内容はこちらです。

news_111118

 

講演会 「創造的な生き方の発見」

本NPO理事長の橋本氏が、7月29日に京橋会館で開かれた講演会で、「創造的な生き方の発見」という講演を行った。

「人間は本来80歳~90歳まで創造的な仕事をできるが、日本では制度がそれを阻んでいる。皆、それぞれテーマを見つけて頑張ろう」という主旨の講演でした。

講演内容はこちらです。news_4_1

マイスターネット5周年記念集を発行

マイスターネット設立から昨年末で5年を経過したのを記念して、その間の活動をまとめた「マイスターネット5年間の歩み」というパンフレットが5月に作成された。

 講演やワークショップなど60回を越す活動が題目と簡単な内容で紹介され、何枚かの写真で、雰囲気もうかがうことができる。

  

インドネシアから  頑張れえええええ 日本!

アイコア社の日本語指導をした時のフェルディカさんから東日本大震災の復興激励のメールが、3月末に届きました。

私はインドネシア語の勉強をお休みしていますが、「楽しいインドネシア語」の講座の皆さんに資料としてお渡しました。そしたら石橋さんが訳をしてくれたので、一緒にご紹介します。

インドネシア人の優しさ、彼の真摯な気持ちが伝わってきますね。                         (赤井記) 

Read more ...