マイスターネット

「眠れる知財」を掘り起こすNPO法人

名著、名作は人を陶酔させるものだと思う。読んでいるうちに、その作品の執筆者の心が、こちらの直ぐ傍まで来て呉れている心地になって、頷きながら、何度も、その作品を読み返したりすることにもなる。それによって、その作品そのものや、筆者の心や発想に対する一種の親近感とか一体感が沸いてくる。そして、更に、それを、何度も読み返しているうちに、その著者の語法や表現方法にも、こちらが馴染んできて、著者の、物の考え方や感じ方、感動や、感情の呼吸、表現に用いる言葉の特徴などについても親しみが湧いて来る。続いて、その人物全体についての、理解と、人間的な、一種の征服感とまで言える気持ちを、こちら側でも味合うことが出来るようになる。そして、その感激が余りに大きい時には、遂には、その作品を、自分自身のものの様に錯覚してしまいさえすることがある。生物学的な同化現象とでも言うものなのだろうか。

 また、その反面、よく見かけることだが、筆者に関する情報や個人的で、独断的な知識や判断を唯一の基礎にして、殆んど誤解と言ってもよい、自分の狭隘な先入観を拡大して、その筆者に嫉妬し、反発さえして、その貴重な「魂の吐露」を貶(けな)したり、誤解して軽視したり、己の鈍感さや不勉強から、筆者を非難したりする人がいるが、一人の人物の、渾身の作品に関して、その種のことしか出来ないのは不幸な人だと思う。

「心の眼科」というのは、何処の病院にあるのだろうか。

最良の治療法は、当人が、自分について、法螺でも好いから、誰にも判るように、真剣に書いてみることである……と、思う。

 

作家、執筆者を好きになるというのは、それを読む、当人の幼さや、虚栄による場合を除けば、実際には、そうした状況を指すものと私は思う。すると、自分の中に、相手を理解するために費やした、自分の心の、一種の疲労を、第三者にも見せてみたくなる気持ちが生じて、自分の心の「疲労の報酬」として、その著者を、相手にも愛させたくなるが、更に、自分をも、その著者と同じように愛することを期待するようになる場合もある。それは、見方を変えれば、自分が愛する作品を書いた筆者に対する「愛によって生じた、一種の独占欲と、独占に続く顕示欲とか擬似肥大」の現われである、と言って好いかもしれない。

然し、それも、当人の努力目標の、ある種の「擬似展示」である程度なら、微笑ましく眺めることが出来るが、それから先は、その人物の自己制御の、範囲や能力の問題だと私は思う。

 

読書とか、誰かの作品を読む際に生じる、こうした、執筆者に対する深い愛着は、作品が、当代、現代の作品に関する場合にだけ発生するものではないと思う。それは、歴史や、過去を遡って生じることも、大いにありうるのである。

例えば、日本の場合なら、古今集、新古今集などのほか、清少納言の「枕草子」、兼好法師の「徒然草」、その他、井原西鶴の数々の作品、女流健筆の樋口一葉の作品、その他、様々な著作物についても、それらを、読み進み、それらに、読みふけるうちに、離れ難い愛着や関心が自分の心に生まれてくる場合にも当て嵌まると思う。名著、名作の魅力が「時代」を越えていると言うのは、そうしたことを指しているのだと私は思う。優れた魂は「時空」を超えて生き続けている、と言い換えることも出来そうである。

身近な西洋の作品でも、アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの、日本語で、俗に「星の王子さま」と訳されている、元のタイトルは「小さな王子(ル・プチ・プランス)」を原書で読む場合でも、それを一生懸命読んでいる人に、「私も読みました」と言うと、その人の恋人を盗みでもしたかの如く、恐ろしい顔で睨み返される場合がある。

 

一般に、文藝を愛するということは、そのようなものなのかもしれないけれど、無理に話を拡げるわけではないが、こうした、一つのことを深く、細かく探求して、一つの価値の世界を開拓する人間行動は、学問の他の分野一般についても、その主題についての変容はあるものの、広く当て嵌まるのではないかと私は思っている。

挙げる例は、私の年齢の所為で、すでに陳腐かもしれないが、社会科学の、アダム・スミスや、カール・マルクス、ジョン・メイナード・ケインズについても、また、天文学や原子物理学の、ガリレオやコペルニクス、ケプラーについても、そしてまた、エンリコ・フェルミやアインシュタインなど、色々な文藝や科学、学術、芸術、美術の分野についても、真摯に、詳細に研究すればするほど、そうした「自分だけの愛」が、真摯で、熱心な関係者、その分野の研究者の心に生まれてくるものではないかと私は想像している。

それは、私が知らない様々な分野でも、在り得ることと私は想像している。

 

その卑近な例で、私自身が、ある意味で、被害者になってしまった例を話したくて、これを書き始めたのだった。

 

その話題に移ろう。

女子短大で、国文学を「修めた」と自称する女性に、古今の文芸作品、例えば「源氏物語」などについて気安い感想を述べると、こちらが、「同好の士」の扱いを受けることは稀で、却って、強い反感を浴びせられ、気安く扱うものではないわよ、とばかりに、手ひどい反撃を受けることがあるのも事実である。親しみの積もりで発言したことが、逆の効果を発生させてしまうのである。

愛の背後には独占欲と嫉妬とか競争心が、常に待ち構えているのだろう。

 

しかし、フランスで、フローベルやモーパッサン、エミール・ゾラやバルザックなどの作品の愛好者であることを口にしても、それは、その人の教養が、その水準にあることを意味しているだけで、上下の峻別の感覚を込めて、そのために「お前にそんな生意気な資格があるのか?」などと言った顔で睨み返されることはない。

また、パリのモンパルナス墓地で、サルトルと並んで眠っているシモーヌ・ド・ボーボワールの墓石の前に佇んでも、そこで、同様な顔で睨み返されることはない。人は常に、己の心の中で、激しく思索を展開させているものだと考える、その国の人たちが造り上げている、お国柄なのか、文豪に対する姿勢の、心を耕す精神活動の面での、大人と子供の違いだと思う。

そして、実は、それが、人間の当たり前の姿勢だと私は思う。ゲーテやハイネ、杜甫や李白、シェクスピアやセルバンテス、ダンテやマキャヴェリ……、浅学ゆえに例示の幅は狭いけれど、言っている意味は判ってもらえると思う。

 

 ところが、ある日の、鎌倉でのことだが、仲間同士で、著名な、主として平安時代以降の女流作家、清少納言とか、僧侶でもあった文人たちの、「国文学」の作品を組織的に、自分でではなくて、定期的に、仲間と一緒に、読んでいるという女性に出会った。話し易そうだと思って、面白そうですね、と言ったら、せせら笑われた。あんたには無理よね……と言った雰囲気だった。

何という、お高い姿勢……。そういう集団もなくはないし、あっても一向に構わない。趣味は心の祭りでもあるのだから。

少し唖然として、その女性の言うことを聴いていると、彼女は、現代の諸作品や、外国のものも、色々と、読んでいると言った。

人は、一般には、読んでもらうために、ものを書くのだから、誰が読んでも、従って、彼女らが読んでいるからといって、私が読んでも、そのために、私が、誰かから叱られるということはない筈だった。然し、その女性の前では、私が「徒然草」を、人生に関する優れたエッセーの一冊として熟読玩味するのは、分に過ぎる、知性の冒涜ででもあるかのごとき雰囲気だった。

 

その種の話は、読書の一般論として、その辺りで止めておけば好かったのだが、では、と、例の「星の王子さま」はどうですかと尋ねてみた。

「良いわ、素敵よ、私は大好きなの、何度でも読み返しているのよ……」との言葉が返ってきた。

そのとき、またまた、止せばいいのに、私は、ついウッカリと、「現在、市販の、あのN氏の訳本でですか、それとも、フランス語のテキストでですか?」と言ってしまった。

返事は、当然の如く、N訳の「星の王子さま」だと言い、「まあ、自分はフランス語が出来るって、それを私に自慢したいのね、あんたは?」という、こちらに向けた、軽い嫉妬まで匂わせるおまけがついていた。それは、少し、心外だったが、素直に応えた。

「いえ、出来るっていうほどのことでもありませんが、少し勉強していますので、恐る恐る覗く程度ですが、一寸、元のテキストも読んでみました」と私は言った。

相手は、だからどうしたの、という顔つきだった。

私も、それだけのことです、という顔をして、対話が終りかけた。

すると、今度は彼女が言った。

「原書で読んだ気分はどうなの?」と。

「そうですね、勉強になりました……」と、先ず、私は応えた。

その段階でも、そこで止めておけば好かったのであるが、私は、つい、その続きを口に出してしまった。

 

私の返事はこうだった……。

……ただ、フランス語と日本語の違いの問題でしょうけれども、フランス語の元の題は、そのまま訳せば『小さな王子』というだけで、それには、頭に『星の…』も、そして、後ろに『さま』も付いていません。この前、スペインへ妻と遊びにいって、マドリッドで、本屋を覗いたら、「エル・プリンチピート」と読むのでしょうか、兎も角、表題は「ル・プチプランス」のままでした。中国語訳があるのかどうか知りませんが、あれば、若しかしたら、その本のタイトルは、「小王子」で、声に出せば「シャオ・ワンズ」とでもなるのかも知れませんね。また、別の機会に、その作品を、ニューヨークのホテルの売店で見たら「ザ・リトル・プリンス」だったし、ドイツの友人に見せてもらったものは、「デア・クライネ・プリンツ」だったと思います。

それから、フランス語の原文の中を少し読み進んだら、飛行機の「エンジン」が訳文では『モーター』、「故障」が『パンク』となっていて、あれを訳したのは、自動車や飛行機が様々な、機械部品の組み合わせの結果として動くものであるという認識が無いか、その構造や作動原理に関する知識が非常に薄く、自分で機械に関する作業をしたことのない、古いか、無器用か、己の高い、田園の君子のような、現代社会の成り立ちの基礎に無関心な、前時代的とも言える、一風変わった先生だな、と思いました……と、私は、思った通りを言った。

他にも、その本の中の、ある惑星に住んでいる王様の言葉に、辻褄の合わない訳文があったが、そこでそれを言っても無駄だと思って、その場で、すでに、そこまで言ったことも後悔しながら、私は話を止めた。

すると、それらの怪しげな翻訳について、その奥さんは言った。

「好いのよ! それで! 可愛いものは、可愛いと感じて、好きな様に楽しめばいいのだから!……」と、そして、更に「じゃんじゃん愉しめばいいんだから!……」と、意味不明のことを、絶叫するような覇気で口に出して、俄に鷹揚(おおよう)になった。

翻訳とは、別の言語による、その作品の価値の誠実な「言語移転」であるべきであると私は思っているので、何処から、その種の、「メチャ」に近い言葉を出せるのか、私には想像できなかった。私から見れば、乱暴な文学観だが、それはその人の心の誇りと自由の領域のことなので、私は、それ以上のことは言わなかった。

また、その女性は、私が、昔、子供の頃に読んだ童話の一つにあった、自分が触るものは、全てがお菓子や金塊など、自分にとっての、価値の高いものに変わる不思議な手を持つ少年の話の中の、その子の手のような「手にしたものの、全てを黄金(こがね)とする力」が、自分の頭の中には備わっていると自負する人物の様にも見えた。

仄聞では、それを、心理学、又は精神病理学関連の分野で、何でも自分に都合の良いように解釈してしまう、自己中心的な楽天家の様な状態にある人として、一種の「多幸症(ユーフォリア)」とか言うそうであり、更に、グループを形成して、多数の人間を巻き込んで、大騒ぎをするのを好む人の場合は、それを「饗宴症(バンケット・クレイジー)」という場合もあるそうだけれども。

それは、本来、孤独な人に多いという人もいる。

 

著者、アントワーヌ・ド・サンテグジュペリが、自ら書いている、あの話の動機は、彼の年来の考え方の一つにあって、あの本の序文にあるように、人間は、澄んだ目の、幼児のような新鮮さで、物事を見るべきだといっているのである。そうありたいとの呼びかけと考えてもよい。だから、別に、幼児の真似をしろとか、その様な幼児を愛し続けろなどとは一言も言っていない。日本人として、少し強引な言葉を用いれば、フランスや、その作者が幼少時を過ごした土地には、日本や中国で言っている、「禅」という、精神練磨の結果として体得できる、物事の真実の姿を直視できるという、やや難しい議論を前提とした、日常努力尊重の考え方までは無かっただろうが、彼は、「子供の様な素直な態度で物事を眺めよう」という、禅に通じる姿勢で物事を見てみろ……と、その点を、率直に言っているようにも、私には思えるのである。

また、日本で、あの「作品」を「童話」と決め付けて、それに、「星の**さま」と、最初から、特定の価値感の眼鏡を通して、元の作品を少女趣味に迎合した著作物の如く「改竄(かいざん)」したタイトルで呼ぶのは、訳者と出版社が共謀した、出版商業主義に「転んだ」、文藝芸術上の、名声と金銭を強く意識した、ある種の「文藝犯罪」だと私は思っているのだが、言い換えれば、どんな料理が出て来ても、それらに必ず醤油をかけて食べる、田舎者の姿を髣髴させる。

パリで、ある友人が、日本から来た、彼の友人をレストランへ連れて行ったら、来訪したその友人が、出てきた料理に、日本から持ってきた醤油をたっぷりかけて食べて、「これで本場のフランス料理を堪能した」と満足気だったという話だったが、その、私を、身の程知らずの如く扱った女性も、多分、それに似たことを言うのではないかと私は思っている。

言い換えれば、無知のまま、強引に開き直った、その、「思い切った」姿勢に、自分で興奮してしまっている、狭い自尊心からくる、哀れな精神的視野狭窄だと言えなくもないと私は思う。

江戸末期、或は明治の初期だったか、シェイクスピアの「ハムレット」が「世情浮名(よはなさけ・うきなの)……」とか、で始まる外題(げだい)で芝居小屋に登場したと聴くが、その角度から推測すると、アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの「ル・プチプランス」も、「星の王子様」などと言った、気の抜けた、「芸の無い」訳にせずに、「世情暁辰浮名若君(よはなさけ・あかつきのほし・うきなのわかぎみ)」とでも訳しいていれば、恥も、そこまで行くと、一つの傑作だったかもしれないと私は思っている。

尤も、あの女性に、それに匹敵するだけの「泰西文芸作品当代日本風新解釈」の才覚があれば、もう少し違った女性として、世に、花開いていたかもしれないけれど……。

その女性は、我が家の近所、私が現在住んでいる場所と同じ界隈に住む、ある知人の妻なのだが、全くの偶然だけれど、以前、私も頻繁に出入りしたことのある、私の勤務先の、図書室に務めていた。

そう言えば、当時、あの図書室へ行くと、目的の用件を済ませて部屋を出ようとするとき、時折、何かの視線を感じて、ある時、気をつけていたら、その女性が、図書室へ出入りする、私の目的を推測、詮索するように、事務室の一隅から、ジッと、こちらの挙措を見ていたようにも記憶している。

その視線に関しては、言い方は不謹慎かもしれないが、あんな大切な資料が、あの人に要るのかしら? 青二才のあの男に……とか、この部屋の偉い人たちが、真剣に集めた、貴重な、あの資料、あの人には、それを読みこなす力が、自分に、あるとでも思っているのかしら?…などと言った、そんな目で、私が見られていたことを覚えている。資格審査官からチェックされていた様な……。

 

それらの資料の収集については、私自身が、番組制作の担当者でもあったので、私が所属する組織の中で、自分で依頼文書を作成し、発送して入手たものや、その、地方資料については、私が、取材で、放送番組のプロデューサーとして、直接、現地の町村へ出かけて行って、その機会に、そこの責任者に依頼して、特に、提供してもらったものもあった。寺社、名家、豪族の末裔、特別な収集家の好意によるものもあった。私は、仕事の上で、それらを再読、精読の必要があって、図書室へ出入りしていたのだが……。

 

 もう少し具体的に、当時の私の立場を、簡潔に記すと、このようになる。

 日本放送協会で、往時、ラジオとテレビの、農林水産番組のプロデューサーだった私は、番組制作のために、非常に頻繁に、勤務地の図書室を利用した。

 自分の取材活動の分野となっている地方、地域の詳細と実情を知る目的で、図書室の調査資料も、現地へ取材に出かける前に、自分の知識や判断の確認のため、私は、そこへ、頻繁に、確認に赴いた。そして、そこに集められている情報の量と幅と質に、何時も感心し、収集の担当者たちに感謝して、それらを利用していた。

 そうした図書室は、放送協会の場合、日本全土にある、それぞれの地方の放送局が、その機能を発揮している。新聞各社にも、その社独自の資料室、図書室がある筈である。 

今、言ったように、そのとき、私は、名古屋の放送局の、若手の、農林水産番組制作プロデューサーであって、先輩たちが担当する、文藝や芸能や地方、地域の経済、産業、金融関連の現状とか、地方行政の問題点を扱う社会番組や教育番組の「華々しい?」制作要員ではなかった。

東海地方の放送局でのことだったが、大方の、無神経な、先輩、同僚からは、作業の対象分野が農林水産生活活動だと言うだけで、私と、若い、その同僚は「百姓!」と呼ばれていた。自分が知らない分野のことを、見下げた言葉で表現するという、東京などに住む、狭量な似非都会人に、よくある姿勢である。

少し難しい言葉を用いれば、「心の封建遺制」が、まだ、彼らの心の中に生きていた。私は経済史の学徒だったので、そうした発言が、「心の中の封建社会感覚」から抜け出せない、彼らの心こそ、近代社会の基準から遠い、未だに、本当の『百姓』という言葉が生き続ける、後進社会の主である「現代青年たち」のものだと思っていたから、腹の中では「何だ、お前たちこそ日本の産業社会構造の初歩の知識さえない、流行に簡単に弄ばれる、浮き草のような、軽薄で、哀れな、唯の『穀潰し(ごくつぶし)』じゃないか! 早く目を覚ませ!」と心の隅で呟いていた。

 

その頃、私と私の同僚は、どうでもよいことだったけれど、その組織専属の劇団や合唱団、一部の関連の妙齢な女性要員たちからも、それぞれ自分の家庭や、育ちや、その知性を反映するかのごとく、「オヒャクショウサーン!…」という黄色い呼掛けを、美声のハーモニーよろしく、自分たちに無縁の人に対する、一種の差別のコーラスとして、叫びかけられていた。それは、本物の社会に疎い、幸せな、然し、心の痩せた、哀れで、人生と社会について無自覚な、大きな子供の群れを見る思いだった。

若かった時代の我々は、それを、内心では、青春時代の、自分の愛に応えてくれる相手とか、社会人としての配偶者の模索中に、そうした、永い心の友の選択対象から除外できる、手間の掛からない人間観察の場面だな、などと、ふざけながら、仲間の間で話題にしたものだった。そして、我々は、どんな青年が、彼女たちをヨメにするのだろう、と、青春の犠牲になる男たちに同情しながら、彼女たちの語気や態度、物腰を「さかな」にして、夕方の、名古屋の繁華街の一隅のビア・ホールで、ウインナー・ソーセージや串カツを前に、生ビールのジョッキを傾けたものだった。

その、「オヒャクショウサーン!……」コーラスの構成員に、その、嘗ての、図書室の王女さまが、入っておられたかどうかの記憶はないのだが。

然し、多分、これらは、自意識過剰から来る、私の単なる「思い過ごし」でしかなかったのだと、私は、今までも、そう思って来ているのだが……。

 

 歳月を経て、全くの偶然から、同じ住宅地の、さほど遠くない距離の処に、我々……私と、その図書館の職員であった彼女が、それぞれ別の世帯として住んでいることが、ある日、判った。懐かしい、懇意にして頂きたい……とこちらからは念願して来ているのだが、現実には「両家」の間には、心理的な距離がある。寂しいけれども仕方がないと考えて今日まで来てしまっている。

 昨今も、稀にではあるが、近くの町の書店で、彼女が、新刊文芸書を物色するところや、バス通りの向こう側を、真剣な面持ちで通り過ぎる姿を見るし、視線が会えば、私も、丁重な、普通の挨拶をする。

すると、彼女は、やはり私に向かって、今でも、「汝は、分不相応な態度で世に憚っている……」とでも言っている様な顔つきで、上目遣いに、暗く、哀れみを下して頂いているように、「にそり」と笑う。 

こういう言い方は、私の間違いであり、「先入観」の為せる業であることは判ってはいるのだが……。いや、こういう描写こそが、私自身の、彼女に対するネガティヴな先入観の所為であって、本当は、彼女も、頭の良い、そして、頭が好いからこそ、逃れられない、その人生の、深く、重い寂しさを背負った、一人の、普通の、立派な日本の女性なのだと、私は思っている。

 

彼女が書いたものは、未だ見せてもらったことはないが、見たところ、筆も立つ女性と思われるので、若し、彼女の心の目で見た人生とか、その半生の記録や感想があったら、是非読みたいものだと思っている。そして、私自身は、自分が書いた雑感を、運良く生きていれば、八十歳くらいを目途に「今泉平成徒然草」とでもして纏めておきたいのだが、故郷を、尾張や伊勢から、東へ百里離れて鎌倉へ来てしまっている人間の記録の、その女性篇を彼女に所望するのは、やはり、失礼だろうかと、ふと、考えるのである。

                      終(二二〇六一一)

News Letter

文教大学講演会

NPOマイスターネットでは、大学とのコラボを目指していますが、過日、文教大学からリーダーシップに関する講演依頼がありましたので、下記の通り、同大学の情報学部の大学生を相手に講演しました。

 

テーマ:ソーシャル・マーケティング、大学から社会へ
~問われるリーダーシップとは~

日時:平成24年12月10日(月)13:20-14:50

場所:文教大学湘南校舎(茅ヶ崎)

レジメ:こちらです

 

講演後、何人かの学生から活発な質問があり、学生の関心の高さを実感しました。

今後も、このような大学とのコラボの機会を設けていきたいと思います。

講演会「リーダーシップ入門」

本NPO理事長の橋本氏が精力的に講演会を行っている。

去る11月18日にイーテクノ株式会社で企業向けリーダーシップ講演会を行い、コミュニケーションの重要性とリーダーシップのあり方について説いた。

講演内容はこちらです。

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講演会 「創造的な生き方の発見」

本NPO理事長の橋本氏が、7月29日に京橋会館で開かれた講演会で、「創造的な生き方の発見」という講演を行った。

「人間は本来80歳~90歳まで創造的な仕事をできるが、日本では制度がそれを阻んでいる。皆、それぞれテーマを見つけて頑張ろう」という主旨の講演でした。

講演内容はこちらです。news_4_1

マイスターネット5周年記念集を発行

マイスターネット設立から昨年末で5年を経過したのを記念して、その間の活動をまとめた「マイスターネット5年間の歩み」というパンフレットが5月に作成された。

 講演やワークショップなど60回を越す活動が題目と簡単な内容で紹介され、何枚かの写真で、雰囲気もうかがうことができる。

  

インドネシアから  頑張れえええええ 日本!

アイコア社の日本語指導をした時のフェルディカさんから東日本大震災の復興激励のメールが、3月末に届きました。

私はインドネシア語の勉強をお休みしていますが、「楽しいインドネシア語」の講座の皆さんに資料としてお渡しました。そしたら石橋さんが訳をしてくれたので、一緒にご紹介します。

インドネシア人の優しさ、彼の真摯な気持ちが伝わってきますね。                         (赤井記) 

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