ルピア暴落、その後の10年 (要約)

1.   19971219日、東部ジャワのトロンアグン市に筆者到着。当時1ドルは約3000ルピア。

2.   199712月末、ドルを交換、1ドルは約5,600ルピア。

3.   1998年1月末、1ドルは約15,000ルピア。

        一番高いお米で10キロ約250円。

4.   19983月、インドネシア政府はルピアを緊急に集めるため銀行の利子63%にひきあげ。

     その頃から銀行が倒産し始め、又ドル建てで取引をしていた企業も倒産が続出する。

     3月11日スハルト大統領が7選、学生達による反対デモ続出。

5.   5月始め筆者1ヶ月の予定で帰国。

6.   1998年5月中旬、ジャカルタで暴動勃発、各地に広がる。

7.   日本政府が在イ日本人に対し強制帰国命令発令。

8.   1998年5月21日スハルト大統領辞任。

9.   1998年7月中旬、筆者インドネシアに戻る。

10. 1998年8月、ルピアは最安値を更新し1ドルが16900ルピアとなり、同時に米、食料油、砂糖などが不足になる。

11. 金利変動、地価変動により天国、地獄があちこちでみられるようになる。

12. スハルト政権時代の在インドネシア華僑に対するさまざまな迫害。

13. 1999年ハビビ大統領に変わって以来、華僑に対する締め付けが緩和される。

14. 2001年筆者帰国。

15. 2002年4月以降インドネシア、東部ジャワ、バトゥー市に滞在し現在に至る。

16. 2005年10月1日、ガソリンの値段2倍以上に値上がりし、物価上昇、お米の値段も

     約2,5倍となる。地球温暖化の影響がインフラ設備の遅れにより被害が増大。

17. 都会と地方の、又貧富の格差も年々ひろがっている。

    来年4月の新大統領選に期待。

 


ルピア暴落、その後の10

 

本日は私の経験談をお聞きくださるとのことでお集まりいただきまして、ありがとうございます。

皆様ご承知のとおり、私は普通の主婦で偶然夫の仕事の関係でインドネシアに滞在し、本日のテーマである”ルピア暴落、その後の10年”を経験したというだけで、経済の専門家では全くございません。

ですから、その時代の経済の仕組みなど詳しいことは実は私には良く分かりません。

前回、海外滞在経験と国際交流についてお話いたしましたとき、どなたか忘れましたが”なぜルピア暴落が起きたか”というご質問を受けました。そのとき私はその理由が分かりませんでしたが、たまたま昨年6月末に朝日新聞に”アジア通貨危機から10年”という記事が掲載され、その答えらしきものが出ておりましたのでコピーいたしました。詳しいことはそちらのほうを是非ごらんいただきたいと思います。

 

1.     私は19971219日、インドネシア ジャワ島東部にある人口約50万人のトロンアグンという町へ、ウオノレジョダム建設のためにコンサルタントとして先に赴任していた夫のもとに、4回目のインドネシアでの生活に入るため到着いたしました。

その年7月、タイを中心にアジア通貨危機が始まっており、タイの通貨バーツは暴落が始まっていましたが、まだインドネシアでは経済界は別にして一般国民の間ではそれほど影響が出ておりませんでした。

その当時1ドルは約3000ルピアだったと思います。

2.    10日後の199712月末、スラバヤのイミグレーションへ行ったついでにドルを少し両替いたしました。その頃日に日にルピアが下がり始め、夫に1ドル5000ルピア位だったら替え時ではないかと言われたのですが、実際には5600ルピアで交換でき、内心ほくほくして帰ってきたものです。

3.  その後もルピアは日に日に下がり続け、なんと1月末の現地給料日には1ドル15000ルピアになりました。一気に給料が5倍になったのです。

当時夫の会社の給料は日本円で、又海外手当てはドル建てだったので、物価の安いインドネシアでは何とか海外手当てだけで暮らすことが出来ました。

同じ頃、1月末にハリラヤ休暇で私どもはバリへ旅行いたしました。ところがホテルの代金がドル建てだったため、ホテル代が予定の一泊150ドル約450,000ルピアがなんと約5倍の2,250,000ルピア支払わねばならなくなり、ものすごく大損した感じがして本当にビックリいたしました。

日常の物価は少しずつ上がり始めていたようですが、まだ目立つほどではなく、何しろ当時一番高いお米で、10キロ250円していませんでした。

        余談ですが。。。。。

そのお給料の日の夜、夫がオフイスから帰ってきて、“はい、おみやげ”といって渡された紙袋のこと、私は今でも忘れられません。

どなたか日本からいらした方が、日本の食料品をお土産に下さったものと疑いもせずふくろを開けましたら、なんとお金がぎっしり詰まっていて、本当にビックリいたしました。日本では銀行振り込みのお給料明細の紙切れ1枚を受け取るだけで、必要に応じて生活資金をおろしていましたので、札束を数える経験などしたことがありませんでした。

その晩の夕食後の楽しかったこと、今でも忘れられません。いつもなら食後は夫と二人でNHKのテレビを見るのですが、その日は私一人寝室にこもり、途中夫が”何しているの?”と声をかけてきたとき、私は大きなベッドの上にお金をいっぱい広げてお金の勘定をしていました。

今では10万札、5万札、2万札とありますが、当時は一番大きいお札が1万札でしたので、毎月お給料のたびにたんすの引き出しはいっぱいになり、入りきれず、かといって銀行がバタバタつぶれている時に銀行も信用できず、ボストンバックに入れれば泥棒が入ったときに持っていかれやすいと思い、考えた末黒いビニールのゴミ袋に札束をバサっと入れ、洋服ダンスの隅に置くという、本当に考えられないことをしていたものです。

とはいえ、日本円にすれば実はたいしたことではないのです。たとえば1000万ルピアはただの約10万円程度のことなのですから。これが円の話ならこんな良いことはないのですが。。。。。

4.    1998年3月頃だったと思いますが、政府はルピアを緊急に集める目的でなんと銀行の利子を63パーセントに引き上げました。華僑の友人達がその情報を知らせてくれ、銀行に預けるよう勧めてくれましたが、日本のあってないような利子を知っているだけに、そんなことをしたら銀行はすぐにつぶれるはず、と私のような素人にも分かりました。案の定、多くの銀行がバタバタと倒産。

当時、どの銀行の前にも預金をおろす人々が群がっており、夫の話では会社の事務員達も仕事が手につかず、時間を見つけては銀行に走って行っていたそうです。

また、ドル建てで取引をしていた多くの企業も同時に倒産が続出、町には失業者があふれ始めました。勿論その利子はその後、経済が少しずつ安定するとともに下がっていきましたが。

又、3月11日にはスハルト大統領が7選、しかしスハルト政権時代、その一族や腹心達が目にあまる私服を肥やすのを見てきた国民の不満は当然のことながら高まる一方で、ジャカルタやスラバヤなどでは学生達のデモがあちこちで見られるようになりました。

5.    そんな中、1998年の5月のゴールデンウィークを利用して、次女が遊びに来てくれ、彼女を送りながら私も1ヶ月の予定で日本へ帰国いたしました。

6.  その私が帰国している間に、国民の不満は一気に爆発し、5月中旬、たぶん5月18日だったと思いますが、ジャカルタで起きた暴動を発端として、スラバヤ、ジョクジャカルタと広がっていき、商店の焼き討ち、略奪、強盗、強姦など特にそれまでインドネシアの経済を握っていた華僑の人々が主に狙われ、大変な被害を受け、そのニュースは世界中に流されました。

この頃、多くの中国人が近隣諸国、たとえばシンガポール、マレーシア、オーストラリアへと逃げ出しました。又、特にスラバヤの飛行場の近くではそういう人たちを狙って強盗が増えるという、一時は本当に無法状態となったようです。

7.  日本政府は当時インドネシアに滞在していた日本人に対し、急遽強制帰国命令を出しました。トロンアグンで一緒だった夫の会社の家族のかたの話によれば、朝大使館より連絡があり、その日の夜にはスラバヤに集合し、飛行機は使わず軍隊に警護されたバス5,6台で夜を徹してバリに向かい、翌朝日本政府が用意した専用機でバリから帰国したとのことで、小さい子供を持った方は大変だったそうです。私もそのニュースを日本でテレビで見ましたが、まさに避難民として扱われていました。

このとき、臨時便が18便出され、自衛隊機もシンガポールで待機したようですが、最後の便では乗客はたった9名だったそうです。5月21日現在で14000名が帰国、約4000名が残ったとのことです。その残留した中には夫達も入っております。

8.    スハルト大統領は軍隊を出して暴動を鎮圧しようとしましたが、一向に収まらず、ついに5月21日辞任を発表しました。ここで漸く32年間、独裁者としてインドネシアを支配してきたスハルト政権が崩壊したわけです。

        そのとき私は日本に滞在しており、6月始めにインドネシアに戻る予定でしたが、日本政府の許可が出るまで戻ることは出来ず、残って仕事をしている夫達を心配しながら、いったい我々は今後どうなるのかと、先の見えない不安を覚えながら、ひたすら会社からの連絡を待つという日々を送っておりました。

9.    7月中旬、漸く渡航許可が下りてトロンアグンに滞在していた、夫の会社の私を含む3家族が揃ってインドネシアに戻ることが出来ました。機内は勿論がらがらの状態でした。

しかし、戻ることは出来ましたが、世の中はけっして平安になったということではなく、日本大使館からは絶えず危険情報が出されていました。たとえば

    * 人が集まるところへの外出はさけるように。

* 信号待ちのとき、ギターを持った若者が近ずいた時には小銭を用意して渡すように、そうでないと窓ガラスが割られて、バッグ類が盗られたり、ナイフで傷つけられるので。

などなど、事細かな注意事項がファックスで送られてくるため、買い物も必要なところ以外は出かけず、又日本のように特にほしいものもなく、せっかくお金があっても使うこともなく、その結果、私にとって生まれて初めて、日本にいたら考えられないような、お金を使い切れないという夢のような経験をいたしました。

又、私どもの住むトロンアグンはスラバヤから車で約3時間半離れていましたので、現実にはありがたいことに一度も危険を感じることはありませんでした。

生活は平穏そのもので、家事はメイド任せで週に1度はゴルフに行き、都会の生活と違って本当にのんびり暮らしていました。

10.  1998年8月、ルピアは最安値を更新し1ドルが16900ルピアとなりました。

暴動騒ぎはなくなったものの、インドネシア人の食料として欠かせない、米、食料油、砂糖などが不足し、庶民の生活は困窮を極めていたようです。

私達もスーパーの店先からそれらの品がある日突然姿を消し、さすがにそのときはどうなることやらと思いましたが、運よく中国人の友人達が裏からまわしてくれ、大いに助かりました。

ビジネスに長けている中国人はきっと先回りして買い占めていたのだと思います。

11.  銀行の利子は少しずつ下がり始めてはいましたが、この高金利をいち早く情報をキャッチしうまく利用した人は、まさにお金がお金を生むという、又、多くの中国人が土地を売り放し、諸外国に逃げたため、当然その時期、地価は下がり、安く土地を手に入れた人も多く、この金利変動、地価変動を上手に乗り越えた人は一躍大金持ちになったという、まさに天国、地獄があちこちで見られました。

    実は私も世の中が少しずつ落ち着いてきた頃、利子が25パーセントぐらいだったとき、何かあったらすぐ下ろせるように、1ヶ月の定期預金を始めました。1ヶ月でもたとえば1000万ルピア預ければ12分の25パーセント、つまり2.08パーセント、約208000ルピアが利子としてつくのですから、結構な話です。勿論経済が落ち着くにつれ利子は下がり、現在は約7パーセントです。

    又今でもそうですが、あの頃は特に華僑の人々は銀行を信用していないようで、なんと言っても不動産、特に土地を持つことが一番と思っていたようです。日本に比べると固定資産税は安いですし、なんと言っても相続税がないのですから、お金持ちは代々お金持ち、貧乏人は貧乏からなかなか抜け出せないようになっているようです。

         私の友人、知人の多くは子供をオーストラリアやアメリカに留学させていたのですが、あまりのドル高に教育費を捻出するのが大変とよくこぼしていました。中にはあえなく断念して中退させていた人もあったようです。

12.  当時、私の友人達は殆どが華僑の方でしたので、いろいろな話を聞くことが出来ました。それまでスハルト政権の間はインドネシアで暮らす中国人は何かあるたびに迫害を受けていたようです。

たとえば、

* 昔はあった華僑の学校は、スハルト政権になった1965年に禁止され、そのため現在50代後半の人は中国語が話すことが出来ても、それより若い人は中国人でありながら中国語を話せない人が殆どです。

* 名前も中国名は公には許されず、インドネシア名に変えなければならなくなり、それ以来中国人はインドネシア名を名乗るようになり、中国名と二つの名前を持っています。

* 中国人にとってもっとも大切な行事であるお正月, 春節は公に祝うことが許されていませんでした。

* ビジネスにしても華僑に対しては公然と賄賂を要求し、応じなければビジネスが成り立たないなど、いろいろ障害があったようです。

13.   しかし、翌年ハビビ大統領に代わってからというもの、インドネシア経済は事実上、華僑によって成り立っていることを認めるようになり、中国人に対して大分締め付けが緩和されてきたようです。

そのうちの一つとして、春節が公に祝うことが出来るようになり、最初の年、私も友人に招待され見せてもらいましたが、中国人の多く住む通りでは獅子舞が出て、大変賑やかで、堂々とお祝いできることを心から喜んでいる様子が良く分かりました。

又、中国人の学校も復活いたしました。

14.  偶然私どもはルピア暴落の経済危機、それに伴う政権交代と、インドネシアの激動の時代に居合わせるというチャンスを得、思いがけずそのお陰で普通では経験できないようないろいろ貴重な経験をさせてもらう結果となりました。

その後ハビビからグストゥス(ワヒド)、そしてメガワティ大統領とめまぐるしく政権は変わり、夫の携わった, ウォノレジョダムも2001年6月にメガワティ大統領を迎えて無事完成式を迎えることが出来ました。

その翌月、7月末に我々は日本に帰国し、そのとき夫は既に62歳となっていましたので、2001年9月30日付けで会社を退職いたしました。

その半年後、縁あって我々の老後を過ごすため、再びインドネシアの東部ジャワ、マラン市から山側へ行ったバトゥーという避暑地に住むことになりました。

15.   現在、バトゥーで既に7年を暮らしていることになりますが、残念なことに相変わらずインドネシアでは失業者があふれています。ストリートチルドレンも沢山います。道路には物乞いも沢山いて、信号のたびに手作りのギターを持った若者が車の窓にお金を集めに寄ってきます。

マランには大学が沢山あり、最近聞いた話では大小含めて約100近い大学があるとのことです。しかし、せっかく大学を出ても就職先がないという、道端では昼間から若い人たちが何をするでもなく座っている人たちが多く、これでは若者がなんの夢ももてないのでは、というのが現状です。しかし、親達は子供に高度教育を受けさせ、何とか良い就職先を、また良い未来をと生活の苦しい中を大変教育熱心にがんばっています。

.       その反面、ジャカルタやスラバヤなどではどんどん高層ビルが建ち、豪華なホテルやショッピングセンターが建設され、私達日本人から見ると夢のような、ゴルフ場やテニスコート、ボーリング場、プールにジム、豪華な会員制クラブハウスのついた、プールつきの大豪邸ばかりの高級住宅街が次から次へと開発され、ガソリンはどんどん高くなるというのに車は増え続け、交通渋滞はますます悪化するばかりです。

16.   3年前の10月1日よりガソリンの値段が突然2倍以上になり、それに伴い物価も上昇し、庶民の生活はますます苦しいものになっています。お米の値段も日本に比べたらまだまだ安いですが、現在は10キロで10年前の2、4倍、600円以上になりました。

私どもの住むバトゥーの近くの山々から木々が消え、見るたびに丸坊主の状態になり、畑と化し、当然のことながら雨季になるとどこかで地すべりが起こっています。最近の地球温暖化の影響でしょうか、昔に比べ異常に雨量が増えているようで、最近の雨季の時にはあちこちで洪水があり、そのたびに被害は増大しています。

インドネシア全体にいえることですが、インフラ整備がまだまだ遅れており、大都会のジャカルタですら雨季には簡単に洪水、乾季には水不足、そしてガス、水道、下水設備はほんの都会の一部だけという、又、交通事情も悪くジャカルタでは慢性の交通渋滞、地方では道路は少なく電車もあまり通っていないという、多くの人がまだ文明生活の恩恵を受けていないのが実情です。しかし最近では手に入りやすい携帯電話は誰でも持っているようで、たとえば我が家の運転手やメイドたち、庭ボーイまで使っているほどです。

17.   インドネシアは本来、その広大な土地と沢山の島、豊富な天然資源と自然があり、大変豊かな国なはずなのに、政治がうまくつかさどっておらず、都会と地方の、又お金持ちと貧乏の格差は、ますます年々、広がってきているように思います。

現在のユドヨノ大統領の評判もあまりよくなく、来年は又大統領選挙が行われることになっており、願わくば本当の意味での、若者に夢を与えられるような、国民の幸せを考える新大統領が選ばれることを祈ってやみません。

私達は夫の仕事の関係で縁あって長きに渡り、この愛すべき国に暮らせることになったことを誇りに思い、また多くの人々から頂いた優しさと幸せに感謝をもって日々暮らしている今日です。

 

<参考資料>アジア通貨危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

アジア通貨危機(アジアつうかきき、the Asian Financial

Crisis)とは19977月よりタイを中心に始まった、アジア各国の急激な通貨下落(減価)現象である。この現象は東アジア、東南アジアの各国経済に大きな悪影響を及ぼした。狭義にはこの現象のみをさすが、広義にはこれによって起こった金融危機を含む経済危機を指す。

前述のタイ、およびインドネシア、韓国は、その経済に大きな打撃を受けた。マレーシア、フィリピン、香港はある程度の打撃を被った。中国と台湾は直接の影響はなかったものの、前述の国々と関連して影響を受けた。日本に関しては融資の焦げ付きが多発し、緊縮財政とタイミングが重なった結果、1997年と1998年における金融危機の引き金の一つとなり、後の平成大不況を引き起こした要因の一つとも言われている[要出典]。また、経済的混乱はアジア地域に留まらず、ロシア財政危機、ブラジル危機を引き起こす要因となった。

   

経緯

アジアのほとんどの国はドルと自国通貨の為替レートを固定するドルペッグ制を採用していた。それまではドル安で、比較的通貨の相場は安定していた。また、諸国は固定相場制の中で金利を高めに誘導して利ざやを求める外国資本の流入を促し、資本を蓄積する一方で、輸出需要で経済成長するという成長システムを採用していた。中でもタイはこのパターンの典型的な成長システムであり、慢性的な経常赤字であった。

しかし、1995年以降アメリカの長期景気回復による経常収支赤字下の経済政策として「強いドル政策」が採用され、ドルが高めに推移するようになった。これに連動して、アジア各国の通貨が上昇(増価)した。これに伴いアジア諸国の輸出は伸び悩み、これらの国々に資本を投じていた投資家らは経済成長の持続可能性に疑問を抱く様になった。

そこに目をつけたのがヘッジファンドである。ヘッジファンドは、アジア諸国の経済状況と通貨の評価にズレが生じ、通貨が過大評価され始めていると考えた。過大評価された通貨に空売りを仕掛け、安くなったところで買い戻せば利益が出る。1992年にイギリスで起こしたポンド危機と同じ構図である。

かくして、ヘッジファンドが通貨の空売りを仕掛け、買い支える事が出来ないアジア各国の通貨は変動相場制を導入せざるを得ない状況に追い込まれ、通貨価格が急激に下落した。

 

インドネシア

金融事情も良好で、200億ドル以上の外貨準備があり、更に90億ドル以上の貿易黒字を加え、インドネシアはタイと違い緩やかなインフレーションを見せていたため、1997年には通貨危機に見まわれなかった。更に、インドネシアの企業はドル建てで資金調達をしていたため、ドルが上昇した時も当初は逆にプラスに作用した。

しかし、同年の19977月にタイがバーツを変動相場制へ移行したとき、インドネシアの通貨局はインドネシア通貨、ルピアの(trading band)8%から12%に固定するとルピアは危機に見舞われた。同年8月にはルピアは変動相場制へ移行するが、これがルピアの値下がりを早めた。ここでIMF230億ドルの支援を約束するが、法人負債がかさんでいることに、ルピアの激しい空売りなどに不安感があり、更に下がり続け、同年9月にはジャカルタ証券取引所が史上最低を記録した。これにより格付け団体ムーディーズはインドネシアの株のグレードを下げた。

1997年の8月に通貨危機が始まったにもかかわらず、インドネシアにおいて11月に通貨危機が激しくなったのはインドネシアの企業が夏期収支報告書を見てから初めて対策をとったからだと言われている。インドネシアの企業は前述の通り、ドル建てで負債を建てていたため、ルピア相場から見て借金が高くなり、更にルピア相場が落ちることを恐れてドルを買い込んだ。

通貨危機は国内にインフレーションを起こし、急激な食品価格の上昇とそれに対する暴動を招いた。32年に渡り独裁者としてインドネシアを支配していたスハルト大統領はインドネシア銀行の最高責任者を解任したが、収まらず、結局スハルトは辞職し、ハビビが新しく大統領に就いた。

 

総評

アジア通貨危機は関連諸国の経済を崩壊あるいは打撃を与えただけでなく、インドネシアのスハルト政権やタイのチャワリット・ヨンチャイユット内閣を失脚させた。のみならず、ジョージ・ソロスらヘッジファンドやIMFを始めとした反欧米感情を招いた。アジア経済に対する不安感を招き、投資対象としての中国の台頭をも生んだ。

さらに、ユーロダラーは「質への逃避」を起こし、ことごとくアメリカへ回帰。新興市場への不信感からロシア財政危機、ブラジル危機をも招いた。

また、アジア諸国では外国からの資本導入にあたり、IMFの推進してきた資本移動の自由化の下で、比較的短期の物を導入していた事も、問題拡大に繋がったと指摘されている。経済的に不安が生じた場合に流動性の高い資本が急速に流出し、傷口を広げたとされる。加えてIMFが融資の条件として景気後退期に緊縮財政や高金利政策を課したことが危機をより深刻なものとしたとの評価もある。

東南アジア諸国の経済成長システムが1990年代のアメリカ経済成長システムと著しく似通っていたのが根本的な危機の要因であるとの評価もある。同じ投資過熱を起こす国であるなら、より信用のあるアメリカへと資本が逃避することになるため、東南アジア諸国の成長システムは経済のバランシング(見えざる手)により破壊されることになったとの見解もある。